冬に鳴く蝉

橋本洋一

第1話蝶次郎と瀬美の出会い

蝶次郎ちょうじろう。武士であるならば逃げてはいけませんよ」


 青葉蝶次郎あおばちょうじろうの姉、さなぎは事あるごとに弟へと言い聞かせていた。

 武士は決して逃げてはならぬ。

 士道不覚悟であるならば、いっそのこと死んだほうがいい。

 それは子供への教育としては苛烈なものだったけど。

 武士としては極めて普通な教育だった。


「逃げてしまったら、自分の何かを失ってしまいます」


 幼かった蝶次郎は、その何かの正体を知りたがった。

 失うことの恐怖はあったけど、それ以上に好奇心があった。


「知る必要はありません。逃げなければ良いのですから」


 姉はそうはぐらかして教えてくれなかった。

 ひょっとしたら、姉は逃げない人だったから、彼女自身知らなかったのだと、後に蝶次郎は思うようになった。

 だから――知らないことを教えることができなかったのだ。


「逃げずに戦い続けなさい」


 さなぎはいつも、説教の最後をそう締めくくるのだけれど、蝶次郎は子供の頃から、大人になった今でも分からない。

 武士となって生きる今となっても、分からない。

 太平の世であるのに、誰と戦えば良いのか、誰を守れば良いのか、分からなかったのだ――



◆◇◆◇



「青葉! 青葉はおるか!」


 東北地方にある小さな藩――天道藩てんどうはんの城、姫虫城ひめむしじょう

 勘定方の上役、吉瀬鍬之介きちせくわのすけの怒鳴り声に、うたた寝をしていた蝶次郎は飛び上がって目覚めた。やや遅れて鍬之介が、蝶次郎の仕事部屋に入ってきたので、居眠りをしていたことには気づかれなかった。


「なんだ。おるではないか。きちんと返事せい!」

「申し訳ございませぬ!」

「今日中にせよと申し付けた仕事は片付いたのか!」


 蝶次郎は慌てて「こ、こちらにございます!」と帳面を差し出した。

 とある村の年貢の管理を記したものである。

 鍬之介は引っ手繰って帳面を確認する。


「……できておるのなら、さっさと提出せぬか! 今日中と言ったが、とっくに期限は過ぎておるのだぞ!」

「す、すみませぬ……」


 既に老境に達しているのに、鍬之介の迫力はすさまじかった。

 噂によるとあの『二十年前の物の怪』を仕留めた面々の一人に入っているらしい。ということは剣の腕も確かだ。


「まったく。最近の若者はこれだから……」

「あのう……そろそろ刻限なので、帰ります」


 説教が長くなると思った蝶次郎はその場から逃走を図る。

 手早く自分の荷物をまとめると部屋から出て行こうとした――肩を掴まれる。


「おぬし、今年でいくつになる?」

「……二十四歳です」

「いい歳した男が怠惰に仕事をするんじゃあない! おぬしの父である青葉鎌三郎かまさぶろう殿は立派であった。藩政に参画し勘定奉行としてご活躍を――」


 案の定、長い説教が始まった。ろくに記憶の無い父親を引き合いに出されるのは、蝶次郎にとって好ましくなかった。鍬之介から聞かされる話によれば、厳格で真面目で慕われる人だと分かる。しかし蝶次郎にしてみれば、ただの重圧にしか思えない。


「――聞いておるのか! 青葉!」

「は、はい! 聞いております! 父上の恥とならぬように、精進して参ります!」

「分かっておるのなら、しっかりせぬか!」


 蝶次郎が悲鳴に近い返事が部屋の外にまで響き渡った。それを聞いた廊下を歩く同僚の武士たちは口々に言う。


「なんだあいつ。また怒られているのか」

「いくら父親が偉くても、息子がああじゃなあ」

「青葉家もおしまいかな」


 陰口を言われているのも気づかず、青葉蝶次郎は平身低頭で謝り続けていた。

 自分でも情けないと思うし、これから生活態度を改めようとも思った。

 しかし思うだけで行動に移せないのが、蝶次郎という男である。



◆◇◆◇



「蝶次郎さん! また怒られたの?」


 城から自分の住む町人長屋に帰る途中、そんな風に声をかけたのは、彼の近所に住む娘、たまだった。歳は八才で目鼻がすっきりとしている、大人になればさぞかし美人になるだろうと誰にでも思わせる活発な美少女だ。


 悪戯っぽい顔でからかう口調のたまに「なんで分かるんだよ」と口をへの字にして答える蝶次郎。

 説教が長すぎてげんなりにしているところに、何故かいつも絡んでくるたまが来てますます憂鬱になる。美少女とはいえ、子供にからかわれることほど、武士にとって情けないことはない。


「あ! やっぱりそうなんだ!」

「嬉しそうにするなよ。もしかしたら改易されて浪人になっちまうかもしれないんだぞ」

「そしたらお父さんのところで働けるように口を利いてあげる! 蝶次郎さんは怠け者だけど頭いいから、医者になれると思うよ!」


 たまの父親は町医者である。歳は三十一歳で蝶次郎とも顔見知りだった。

 蝶次郎は「ご厚意は嬉しいよ」と笑って返す。


「でもまあ子供の施しは受けん。俺にも矜持はあるからな」

「あー! また子供扱いして! 十六しか変わらないじゃない!」

「十六も違えば子供扱いしてもいいだろう……そうだ。今日は久しぶりに酒でも飲むか」


 思い立った蝶次郎はくるりと足を酒場のほうへ向ける。

 すると進行方向にたまが立ちふさがった。


「……なんだよたま。お前は子供だから酒は早いだろう」

「蝶次郎さん、今月何回目? ほとんど毎晩行っているじゃない」

「今月は五回しか行ってないぞ?」

「……今日、六日なんだけど」


 じと目のたまに対し、蝶次郎はばつの悪い顔になりながら「いいじゃないか」と弁明し始めた。


「酒ぐらいしか楽しみないんだから」

「身体に悪いって言っているの! それにやることないなら私と遊んでよ!」

「二十四の男が、何が悲しくて子供と遊ばないといけないんだ?」


 蝶次郎が足を進めようとすると、たまが真剣な顔で進路を塞ぐ。

 やれやれと思った蝶次郎が不意に「おい、あれなんだ?」と彼女の後ろを指さした。


「空から甘いほうの飴が降っているけど」

「へ? 甘いほうの飴?」


 蝶次郎の指差すほうへたまが振り向くが何もない。

 たまが再び蝶次郎のほうへ戻ると、彼は既にいなかった。


「……もう! 蝶次郎さんの馬鹿!」



◆◇◆◇



「はあ。寒いなあ。こんなに寒いんじゃ、酔ってもすぐに冷めちまうな」


 愚痴を零しながら、酒場を出て、家路を歩いている蝶次郎。季節は秋を通り過ぎて、もうすぐ冬になる頃だった。夜風は肌寒く、酔いで火照った身体を強制的に冷やす。


 家に帰っても、女房も子供もいない。気楽な立場と言えば聞こえはいいが、蝶次郎は寂しさを覚えていた。しかし父は立派でも、今は下級武士に落ちぶれている、うだつの上がらない蝶次郎の嫁になってくれる女などいなかった。それに加えて、この状況を変えるのは面倒で億劫だとも考えていた。だから現状に甘んじていた。


「やっぱりもう一軒行くか……」


 既に大量の安酒を浴びるように飲んだのに、まだ飲み足りないらしい。

 そう言って帰路から酒場へ続く裏道へと――


「ああん? なんだぁ?」


 蝶次郎の目の前でばちばちと音が鳴る。

 いや、音だけではなく、青白い閃光が辺り一面に広がる。

 夜空は晴れていて、雨粒一つ落ちていないのに、どうして――


「うおおおおお!? なんだこりゃ!?」


 その内、目も開けられないほどの光が道一杯に広がって――唐突に爆ぜた。

 その衝撃で尻餅を突く蝶次郎。

 しばらく身体を縮こまらせていたが、恐る恐る目を開けると……


「どうやら、実験は成功したようです。博士」


 鈴を転がすような女性の声。

 しかし人間とは思えない、感情の無い声。

 尻餅を突いた蝶次郎は、閃光と共に現れたとしか考えられない女に驚きを禁じえなかった。


「な、何者だお前!? 『物の怪』か!」


 蝶次郎がそう思うのは当然の話だった。

 見たことのない色と布で作られた服。

 頭には角のような突起物を付けている。


 いや、そんなことよりも蝶次郎が驚いたことは、この世の者とは思えないほど、無機質な美しさを彼女が備えていたことだった。

 黒髪を腰まで伸ばし、雪のように真っ白い肌。作り物みたいな整った顔立ち。

 ぷっくらとした唇は桜色だった。


「ノー。私は物の怪ではありません」


 がたがた震えながら刀を抜こうとする蝶次郎を制するように、奇妙な姿をした美しい女性は言う。


「私はC-KDA。固体名を瀬美せみといいます」

「はあ? しーけいだ? せみ?」


 その女性――瀬美はゆっくりと蝶次郎に近づいて、そのまま片膝をついて跪いた。


「あなた様に仕えるために、六百四十年後の未来からやってきました」

「……へあ!? 六百四十年後の未来ぃ!?」


 そして瀬美はそのままの姿勢で、にっこりと機械的に微笑んだ。

 まるで自分の意志ではなく、誰かに教えられたように。


「よろしくお願いします。青葉蝶次郎様」


 蝶次郎の脳裏に、姉の『逃げてはならぬ』という教えが浮かんだが。

 そんなことはどうでも良くなるくらい逃げたかった。

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