1-3


 授業をそつなくこなして、僕は自宅に戻っていた。

 時刻は午後六時過ぎ。空は夕焼けに藍色あいいろが混じっており、そろそろ空腹を告げる調べが鳴る頃合いだ。

 夕飯を作り始めようか……と思ったけど、やる気が出ずに布団の上に寝転がったまま起き上がれない。

 頭の中で、千夏さんの顔がぐるぐると回っている。

 哲君は朝の一件について「気付いていないはず」って言ってくれたけど、それはそれで寂しいと思ってしまう。

 僕の好意が知られてしまったら、これからの関係がギクシャクしてしまうかもしれない。だけどずっと気付かれないままじゃあ、僕の恋は実らない。この切ない気持ちは行き場を失って、ふらふら彷徨さまよい続けるだけだ。


「でも……告白しても、今の僕じゃあどうしようもないじゃないか」


 千夏さんは大人で一児の母だ。たった一人で働きながら、まだ幼い梨々花ちゃんを育てている。

 そんな人に、僕みたいな世間の荒波にまれたことのない、ただの学生が好意を伝えたところでどうなるって言うんだ。断られるのがオチだろうし、千夏さんを困らせてしまうだけだ。


「……はぁ」


 溜息が出る。

 考えれば考えるほど、僕という人間の面倒臭さが浮き彫りになってくる。

 気持ちに気付いてほしい。でも恋仲になれる訳がない。だからバレたくない。でも満足出来ない自分がいる。

 堂々巡りだ。

 自信のなさがつきまとって、どうしていいのか皆目見当がつかない。自分の気持ちの整理すらつけられない。

 もやもやから、抜け出せないままだ。


 ――ピンポーン。


 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 こんな時間に誰だろう。僕はのっそりと体を起こして、来訪者の元へと向かう。

 この部屋にはインターホンがないので、扉についたドアスコープを使って誰が来たのか確認しないといけない。家賃が安いだけあって、設備が色々と旧式なのだ。

 越してきたばかりの頃は、何度セールスの対応に苦労したことか。どうせ今日も同じかんじだろう、そう想いながら覗き込んで――


「――えっ!?」


 ――ぎょっとした。

 扉の前にいるのはスーツを着た千夏さんだ。その表情はどこか焦りの色を帯びていて、そわそわしているように見える。

 なんてタイミングだ。千夏さんのことを考えていた時に、本人がやってくるなんて。もしかして朝のやり取りで、本当に僕の気持ちに気付いたんだろうか。


「あの、悠都君。ちょっといいかしら?」

「は、はいっ」


 僕は施錠用のチェーンを外して、外の千夏さんに当たらないよう、ゆっくりと扉を押し開ける。


「わーい、ゆーとさ~んっ!」

「うわっ!?」


 どんっ。

 開いた扉の隙間から、小さな体が飛び込んでくる。僕は突然のことに受け身が取れず、体当たりをもろに受けてしまう。


「り、梨々花ちゃん?」

「えへへ~、ゆーとさんっ。あーそーぼっ!」

「は、はい?」


 抱きついてきたのは体操服姿の梨々花ちゃんだ。どういうことか、屈託くったくのない笑顔で遊びに誘ってくる。

 僕は状況が全く飲み込めず、ぽかんと口を開けて、頭上に疑問符を浮かべたまま。千夏さんと梨々花ちゃんを交互に見ているばかりだ。

 いきなり「遊ぼう」なんてどういうこと?

 全然意味が分からない。部屋は隣同士だけど、僕とそんなに仲良かったっけ?そもそも梨々花ちゃんは保育園児で、僕は高校生だ。一緒に遊ぶような関係じゃないと思うんだけど……。


「こら、梨々花!まだお話してないんだから、ダメでしょ!」

「あ、そーだったー。ごめんなさーい」


 千夏さんにしかられると、梨々花ちゃんが名残惜しそうに手を離してくれた。塩をかけた青菜みたいに、しゅんとしているところがまた可愛い。


「えっと、その……星乃さん……」

「千夏でいいわよ」


 親子でどちらも名字が星乃なので、名前の方が分かりやすいということなんだろう。だけど好きな人を下の名前で呼ぶのは、親密な関係みたいで緊張してしまう。

 千夏さん自身は、何も気にしていないみたいだけど。


「じゃ、じゃあ、ち、千夏さん。こ、これは一体、どういうことなんですか?」


 夜になってから子供を連れてお隣を訪問。あまりない光景だと思う。料理を作り過ぎたからお裾分すそわけ、というシチュエーションは聞いたことがあるけど、別にそういうことじゃないみたいだし。

 もしかして本当に、僕のことが気になって……?


「一つ、お願いがあるんだけど……いいかしら?」

「へ?」


 と思ったら全然違った。


「うちの梨々花を、預かってほしいの」

「は、はぁ。……――って、はい!?」


 だけどその突拍子もないお願いの内容に驚愕きょうがくのあまり、目玉が飛び出してしまいそうになった。


「あ、あず、預かるって、それは、その……え?」

「今晩だけでいいから、梨々花の面倒を見てほしいの!」


 ぎゅっと、僕の手を握りしめて。

 千夏さんが必死に頼み込んでくる。

 ただのお隣さんな僕を頼りにするなんて、きっと何か特別な事情があるのだろう。


「大丈夫、ご飯は食べさせたから!一緒にいてくれるだけでいいから!」

「あの、あのっ……その……」


 手を握られた衝撃で緊張して、口が回らない。頭も回らない。目だけは回っている。

 血液が高速で駆け巡って、全身がどんどん火照ほてっていくのを感じる。

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