第一章:初恋、お願い、遊び合い。

1-1


 ピピピピ……ピピピピ……――チンッ。


 目覚まし時計を止めて、気怠けだるい体を起こす。もうちょっと寝ていたい気持ちはあるけれど、その欲求に従ったら間違いなく二度寝からの寝坊&遅刻コース直行だ。

 僕は気合いを入れて、安楽の布団から抜け出した。


「ふわぁ……」


 欠伸あくびを一つして、ぼやける視界を乱暴にこする。カーテンを開け朝陽を浴びて、込み上げる眠気を吹き飛ばす。燦々さんさんと輝く太陽の光が目に染みるけど、おかげでようやく目が覚めてきた。


「おっと、早く支度をしないと」


 寝汗を吸ったパジャマを洗濯カゴに入れて、手早く制服に着替える。朝は時間がないので、洗濯機を回すのは帰ってきてからだ。まだ五月なので問題ないけど、夏場になったら汗特有の激臭がするんじゃないか、と今から若干じゃっかん心配になってくる。


「今日も……パンでいいか」


 袋から食パンを二枚取り出して、ハムとチーズを適当にはさむ。緑が足りない、とても雑なサンドイッチだ。栄養がかたよっているけど、メニューにこだわっている余裕はない。

 本当は腹持ちの良いご飯が食べたいところだけど、片付けていたら遅刻してしまうし、放置していったら虫が湧いてしまいそうで嫌だ。なので簡単に食べることが出来るパンが、毎朝のメニューに固定されてしまった。足りない野菜は学校の購買か、夕食の自炊じすいで補えばいい。……本当は全然良くないだろうけど。


「よし、これでオッケー」


 歯を磨いて、顔も洗って。ひげは……さっぱり生えていないので問題なし。

 電気、ガス、水道。どれも全部スイッチをオフにしてあるので良し。

 僕は通学かばんを手に、玄関の外に出る。

 軽風に乗ってふわりと、緑色の香りが漂ってくる。温かな日差しも合わさって、心地良い朝の風景だ。

 階下には同じように通学しようとマンションを出ていく人や、忙しそうに走っているサラリーマンの姿が見えた。最上階……と言っても四階建てなので、人々の様子がはっきりと見える。

 マンションで一人暮らしを始めてから一ヶ月ちょっと、毎朝の景色にも慣れてきた。最初は不安もあったけど、今ではこの生活が当たり前になってきた気がする。

 なんて言っても、まだまだ一人暮らしビギナーなんだけどね。


「あ、悠都君。おはよう」

「おはよ~っ」


 丁度ちょうどその時、隣の部屋の扉が開いて、中から住人――星乃ほしのさん親子が出てきた。

 母親の千夏ちなつさんが肩まで伸ばした癖っ毛をなびかせて、厚めのくちびるを三日月状にして僕に微笑みを向けてくれる。仕事用のぱりっとしたスーツが美しい。


「お、おはようございます……」


 僕はぺこりと頭を下げて、挨拶あいさつを返した。

 玄関先でばったり会ってしまったせいで、僕の心臓はバクバクと高鳴っていた。好きな人の顔が目の前にある、それだけで顔が熱を帯びてしまう。

 星乃千夏さん。

 隣に住んでいるシングルマザーで、まだ若いのに女手一つで娘を育てている。きっと想像出来ないくらいに大変なことばかりなはずなのに、いつも明るく振る舞っている。子供と同じくらいに元気で、まるで満開の花みたいな女性だ。

 そんな姿に、僕はいつしか惚れていた。視界に入れば釘付けで、目が合うと鼓動がドキドキ止まらない。

 初恋だった。

 だけど僕との関係は部屋が隣同士というだけで、深い付き合いは全然ない。朝や夕方に玄関先で会ったり、時々すれ違ったりするくらいだ。僕のことだって「最近越してきた学生さん」くらいにしか思っていないだろう。

 それに、僕には告白するような勇気はない。思いを伝えたところで結ばれないだろうし、千夏さんだってこんな一人暮らし始めたてピチピチの、社会のことを何も知らない学生相手じゃ嫌だろう。そもそも僕はまだ高校一年生で、結婚出来る年齢じゃないのだから。


「あれ~?ゆーとさん、おかおまっかっかだよ?おねつある?」

「ふぇっ!?」


 くりくりの可愛かわいい瞳で覗き込んでくる子供――梨々花ちゃん。登園用の水色のスモックを身にまとう幼い姿は、純真無垢という言葉がよく似合う。千夏さんに似て外巻きの癖っ毛で、子供らしくツインテールにしている。

 そんな梨々花ちゃんに心配されて、僕はのけぞり慌てふためいてしまう。

 別に熱なんてないけれど、千夏さんの目の前で指摘されたのが恥ずかしかった。これじゃあ僕が好意を持っているって、意識しているってバレバレみたいじゃないか。


「い、行ってきますっ!」


 誤魔化ごまかすことすら出来ず、そそくさとその場を去る。

 この気持ちは胸の中だけで留めておくつもりでいたのに、もし気付かれてしまったら大変だ。これから会う度に、まともに顔を合わせられなくなってしまう。


「うぅ……」


 引っ込み思案で一歩踏み出す勇気がない、そんな自分を変えるためにも家を離れたのに、何一つ成長していない。

 僕は自分の気持ちにふたをして、足早に学校へ向かっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る