ターナー兄弟と霧の森の王

雨笠 篁

行け!キリコー三人組

 そこは都内でも有数を誇る高級住宅が立ち並んだ長閑な住宅街。一軒一軒が広大な面積を誇る住宅の向こう側には雲を貫く巨大なビルディングが頭を覗かせ、一際巨大な電波塔がその奥に聳えている。

 平日昼間、それも通勤通学時間帯を過ぎたこの時間では、住宅街に響くのはガソリン車の排気音のみ––––否。

 その他にもう一つ、街の静寂を崩す声が。


「う、うわあああああああああっ!」

「遅刻遅刻ぅ〜ってか?」

「ハァ……メンド」


 それは奇妙な三人組だった。

 一人は、縁なしの眼鏡をかけた小柄な少年。

 そしてもう一人は、うねった黒髪を目元まで伸ばした男。

 最後に彼ら二人よりも頭一つ以上背の高い、長髪の青年。

 閑静な筈の住宅街を絶叫しながら全速力で駆け抜ける、見た目も年頃もまるで異なる三人組。そんな彼らの唯一の共通点は、三人が同じ学校の制服に身を包んでいることだった。

 つまり。


「やばいよやばいってぇっ!こんな日に遅刻とかあああああぁ!」

「あー、今日卒業式だっけ」

「ならそんな焦んなくても別にいいんじゃねーの?、関係ないだろ俺らには……ふあ〜あ」


 彼らは現在、籍を置く高校の卒業式に遅刻しているところだった。

 小柄な少年は焦燥に駆られ。

 うねった黒髪の男はいかにも他人事な風に。

 長髪の青年はつくづく億劫そうにそう呟いた。

 先頭を走る少年は後方をダラダラと走るそんな二人の言動に、ピキリと額に青筋を這わせる。


「いいからもっと急げよお前らっ!こんな大事な日に遅刻するなんて後々僕の評価に関わるだろうが!」

「だったらお前だけ先に行けばいいだろ。ぶっちゃけ俺ら卒業式とか興味ねえし」

「そうそう、それに元々評価なんてあってないようなもんだろ?俺らには」


 ふっ––––と揃って肩を竦める二人。

 その態度に、少年は額に浮かべた青筋をはち切れんばかりに膨らませて、首だけグリンと後ろに向ける。


「一緒にするな!僕はいつもお前らが問題を起こすからその巻き添えを食っているだけだ!それにお前らを連れて行かないと結局僕の責任になるんだよ!僕には部長として、お前たちを監督する義務がある!」

「いや学校の部活の部長ってそういうもんじゃないと思うが」

「それに前見て走れよ、きしょいな」


 少年の剣幕にも、全く悪びれる様子のない二人。

 ぶちん、と、何かが切れる音がした。


「巫山戯るなっ!元々部活になんて興味なかった僕を強制的にお前達の怪しげな部活に入部させて、あまつさえ部長まで押し付けたのはどこのどいつだ!お前らだろ!それなら少しは僕のことを敬ったらどうだ!」

「教師の評価や学校の内申がどうした。いつまでそんなものに囚われている。そんなもん奨学金借りるときにしか役立たないぞ」

「そうそう、それに一般受験する俺たちには最早無用の長物だな」

「僕は内部進学するから内申は必要だし、お前達とは違って奨学金も借りるんだよ!黙ってろ!それに今日だって大体遅刻したのも、お前達が急に昨日の夜中呼び出すからだろ!ゲームの頭数揃えるためだけにド深夜に人を呼び出すなよっ。常識を持て常識を!」

「だってなあ、こいつとばかり対戦してたんじゃ流石に飽きるだろ。クッパばかり倒していてもそのうち味気なくなるもんだ」

「それにたまには雑魚初心者を一方的にボコボコにして自信つけたいだろ?それと前見ろって」

「お前らの歪んだ思想に僕を付き合わせるな。なんだその『当たり前だろ?』みたいな真っ直ぐな表情は。それに!人をまるでクリボーみたいに言うのは––––」


 とその先を荘園が最後まで言い切ることはなく。

 少年は目の前に現れた電柱に全速力で突っ込んでいった。

 少年が最後に見たものは、視界に散らばる無数の星––––のように砕け散った眼鏡の欠片だった。


「だーから前見ろって言っただろバーカ」

「ほら、もっと急げよブチョー。こんな大事な日に遅刻するぞ」


 そして電柱の下で突っ伏した少年の横を、二人は脇目も振らずに走り去った。

 それこそ、ジョギング中にアスファルトの上で乾涸びたミミズをひょいと跨ぐ程度の、至って自然な動作で。

 遠ざかる二人の背中の後ろには、血だらけの顔に怒りすぎて不恰好な笑みを貼り付けた、怨嗟に塗れた少年の姿が、そこにはあった。

 

◇◇◇◇◇


「だから謝ってるじゃねえか部長」

「いい加減機嫌直せよな」

「………」


 あれから無言で走り続ける少年に、流石に居心地の悪さを感じた男と青年は後ろから声をかけるも、少年が後ろを振り向くことはない。

 そのことに後ろを走る二人は顔を見合わせ、どうしたものかと肩を竦める。

 一方少年の内心はというと、


 ––––こっ、殺す。殺す、絶対殺す。今は無理でも……いや物理的には一生不可能だとしても、いつか必ずこいつらに死ぬほどの目に遭わせてやる。社会的にも精神的にも追い込んで徹底的に潰してやるっ。今は無理だとしても……今は無理だとしてもっ!

 と、呪詛の言葉を一心不乱に脳内メモに殴り書きしていた。


「お〜っと不穏な空気」

「何考えてるか丸分かりだな」


 と、歪な笑みを浮かべながら全身からドス黒い漆黒のオーラを滾らせる少年から、二人が距離を取ったその時。


「………」


 ピタリ、と少年の足が止まった。


「おっと……なんだよ、急に立ち止まんなよ」

「どうした、突然」


 咄嗟に身構える二人だったが、立ち止まった少年の意識と視線は二人ではなく、明後日の方角を向いていた。

 剣呑な––––普段二人が向けられているものとはまた別種の、しかし見覚えのある視線を放つ少年に、二人は嫌な予感を覚えた。


「おいおい」

「なあ、お前まさか––––」

「……いや、なんでもない」


 先を急ごう––––と、何かを振り払うように少年は一歩を踏み出して、


「––––––っやっぱ二人とも先に行っていてくれ!」


 堪え切れなくなった風に、少年は突然二人に背中を向けて駆け出した。

 目的地とは正反対の方に走り去る少年を呆然と見送った二人は、再び顔を見合わせると、大きな溜息と共にその場にへたり込んだ。


「クッソ〜またかよっ」

「急げって言ってたのどこのどいつだってーの」 


 急な態度の変化。

 突飛な行動。

 それに––––先ほどの顔ときた。

 この先待ち受ける展開が分かりきっている二人としては、最早頭を抱えるしかなかった。


「どうするよ、お前」


 長髪の青年が、長い前髪をかき上げながら立ち上がり、隣の男に問いかける。


「……どうするもこうするも、放っておく訳にはいかないだろ。それに––––」男は懐から出した萎れた箱からタバコを取り出すと、素早く火をつけて大きく吸い込む。そして吸い込んだ煙を青年に向けて吐き出すと、にたりと笑って言った。「お前ももう、やる気満々じゃねえか」

「はんっ、クソくだらねえ卒業式に出るよか幾分マシってだけだ」


 吐き捨てるようにそう言って、しかし一転、青年は獰猛な笑みを浮かべる。


「そんじゃ行くか」

「ああ。ったく––––」


 男も呼応するように立ち上がり、肩を竦めて言った。


「––––世話のかかる部長だぜ」


◇◇◇◇◇


 三人が走り抜けていた住宅街の程近く。繁華街にも近い、雑居ビルが立ち並ぶ裏通り。この時間帯は人通りが殆ど無いその場所で、複数の男女が言い争っていた。


「いやっ……やめてっ離してくださいっ。私達そんなつもりで来たんじゃ––––」

「そんなつもりじゃねえならどう言うつもりで来たんだよ。お姉さん達さぁ、普通こう言う場所に連れてこられたらどうなるかくらい、想像つくでしょ〜?」


 言い争っていたのは、五人の男女。

 否、既に言い争いの範疇を越え、揉み合いにまで発展していたその言い争いの只中にいたのは、小綺麗な格好をした二人の女性と、その二人を建物の壁際に取り囲むように並んだ三人の男達だった。

 二人の女性は見たところ授業終わりの大学生、その周りの男達はいかにもといった風態のチンピラ達だった。


「て、言うか〜、お姉さん達も本当は期待してたんじゃないの?」

「ち、違いますっ。私達はただ本当にお茶だけって!」


 肩に置かれた男の指先が、黒髪の女性の肩を撫で回すように動き、その悍ましさに黒髪の女性は咄嗟にその手を払い除ける。

 手を払い除けられたドレッドヘアーの男は、飼い猫に手を噛まれたような不快感を覚え、軽薄な笑みを消し去ると底冷えするような声で呟いた。 


「おいおい、見てみろよ周りをよ。ここにお茶屋があるように見えるか?こんなとこまでのこのこ付いてきたのはどこのバカだよ」


 言うように、女性達が周囲に目をやると、周りにあったのはバーや風俗店がテナントとして入る雑居ビルや、その間に林立するネオン色豊かなホテルばかり。

 女性達がいるのは、そんな通りに面した、二階より上がホテルと繋がった、見るからに怪しげなバーの目の前だった。


「………っ」


 今更ながら自分達が引き込まれた場所に、女性達は己が置かれている状況を再認識させられ、恐怖に立ち竦んだ。そんな絶望的な状況において茶髪の女性は、ふと隣で震える友人の顔を見て、後悔と罪悪感に奥歯を噛み締めた。

 彼女は数十分前、嫌がる友人の静止を振り切って、男達の誘いに乗ってしまった自分自身を心底恥じた。そしてせめてこの友人だけでも逃すために、男達にバレないように背後でスマホを操作しようとして––––その腕を掴まれる。


「おーっとっと?何しようとしてるのかな〜?それに、ここ俺らの知り合いがやってるバーだから、誰か呼んでも店の中入れないよ?」

「そんな……」

「ハハッ、マジでお前の言う通りちょろかったな」

「だから言ったろ?桐谷大の女は皆、おめでたい頭したボンボンだから引っ掛けるの簡単だってよ」


 男達の絡みつくような笑い声が、急に遠くに感じた。

 一縷の望みを絶たれた女性達は、これから己の身に降りかかる凄惨な行為を思うと、恐怖のあまり声すら上げられずに、肩を掴まれ薄暗いその店の中に引き込まれる。


「はーい、二名様ごあんなぁ〜い」


 スモークガラスの店の扉が開くと、中からはむせかえる程のタバコと甘い煙の匂いが立ち込め、次いで店内にいた男達の舐めるような視線が向けられる。

 三人の男だけではない。店内には同じように柄の悪い人間が二十名程いて、その全員が下卑た笑みを浮かべている。中には女の姿もあったが、彼女達が女性二人に向けるのは、憐憫の眼差しではなく、巣にかかった獲物でも見るような目だった。

 そこに女性達の味方になってくれるような人物は、誰一人としていない。


 助けは、呼べない。

 呼んでも、助けなんて来ない。

 そんな正義の味方、現実にいる筈などないのだから。


「助けっ––––」


 それでも女性の喉は確かに震えて、咄嗟に助けを求めた。

 望みなどどこにもないことを知りながら、それでも縋る思いで彼女が絞り出したその声は––––


「おいッ何やってんだあんたら!」


 しかし確かに、届くべき人間に届いた。


 突然の闖入者に、チンピラ達も、助けを呼んだ筈の女性達も一瞬、呆気に取られる。

 何故ならそこにいたのは––––声を張り上げながら女性の肩に回されたチンピラの腕を掴んだのは、助けを求めた女性達よりも背の低い、制服を着た少年だったのだから。


「……あん?誰、君?」

「その人達嫌がってるだろ、早くその手を離せ」


 少年は頭一つは高いドレッドヘアーの男に向かってそう凄みつつ、男の腕を掴んで女性から引き離す。


「ん〜何?君この子達の知り合いかなんか?」


 腕を掴まれたドレッドヘアーの男は他の男達に目配せしつつ、先程とは打って変わって爽やかな声と笑顔で、目の前の少年に向き直った。


「違う。だけどその人達は助けを求めてた。あんたら、この人達に何するつもりだ」 

「なるほどなるほど。だったらさーあ?––––」


 ドレッドヘアーの男がそこまで言うと、いつの間にか少年の後ろに回り込んでいた別の男二人が、後ろから少年を一瞬で羽交締めにする。

 と、ドレッドヘアーの男はすかさず少年の鳩尾に蹴り込みを入れた。


「普通こう言う時はスルーすんのがルールって知ってる?」

「がハッ」


 少年は苦悶の声を上げ、膝から崩れ落ちそうになるが、少年を羽交締めにしている男達がそれを許さない。崩れかけた少年を再び立ち上がらせ、再度ドレッドヘアーの男が少年の腹を蹴飛ばしたところで、漸く少年は解放された。

 否、それはただドレッドヘアーの男の暴力から解放されただけ。

 地面に転がった少年には、別の男達による止めどない暴力が向けられる。蹴られ、踏みつけられ、いたぶられ、弄ばれる。 

 目の前でボロ雑巾のようになっていく少年の姿を見下ろしながら、ドレッドヘアーの男はケタケタと手を叩いて笑った。


「何こいつ、正義の味方のつもりかよっ。ハハッウケる……と、おっとっと、どさくさに紛れて何逃げようとしてんだよ」

「きゃっ、ちょっ離してっ!」

「逃すわきゃねーだろ、おい、お前らも見てないで早く店の中連れ込めって––––」


 男達の隙をついてその場を立ち去ろうとした女性達を捕まえ、ドレッドヘアーの男は店内で見物を決め込んでいた仲間達に視線を送る。


「う、うわあああああああああっ!」

「なっ––––こいつっ」


 しかしそれをさすまいと、少年は雄叫びを上げ、ドレッドヘアーの男の腰にしがみつく。


「早くッ早く逃げてお姉さん達!少し走れば交番があるからっ!そこまで行けばもう安全だからっ、だから早く––––」

「な––––にしてんだてめえっ!しがみついてんじゃねえよクソガキが!早く離すのはテメェの方だろうが!離せオラっ離せってんだよこのッ」


 男は自分の腰元にしがみつく少年の背中に拳を振り下ろす。

 幾度も振り下ろされるその拳に、少年は苦痛に顔を歪めるが、それでも歯を食いしばって痛みを耐える。


「いやだっ、離さないっ!ぐっ、離す……もんか!」

「ハア、ハア……なんなんだよお前一体、なんでそこまでしやがる!」


 ドレッドヘアーの男はついには自分の方が殴り疲れ、息を切らしながら自分の腰にしがみついたままの少年に問いかける。問い––––そう、疑問である。

 男にはいきなり現れたこの少年が、何故ここまでするのか理解できなかった。

 見たところ少年と女性達に面識はないようだし、ここで女性達を助けても少年には何のメリットもない筈。

 それなのに何故––––と男の抱いた疑問に、少年は口の端に血を滲ませながら答える。


「こ……困ってる人は、助けるもんだからだ!」

「は、はああ?お前、おかしいんじゃねえの?」


 素っ頓狂な声をあげて、男は恐怖にも似た動揺を覚えた。

 本当に、たったそれだけの理由でこの少年は見ず知らずの女性二人を助けに来たというのか。明らかに自分よりも一回り以上は体の大きい男達しかいない中に、何のメリットもない、どころか既にここまでボロボロになってまで、たったそれだけの理由で。

 そんな人間、いる筈ない。

 少なくともそのような生き方とは無縁に人生を送ってきた男には、少年のその行動を理解できる筈もなかった。

 故にドレッドヘアーの男は少年の存在に戦慄し、急に目の前にいる自分より圧倒的弱者である少年に、悍ましさすら感じた。

 そうして手の止まったドレッドヘアーの男に代わるように、別のチンピラが道端に落ちていた鉄パイプを手に持ち、振り上げる。


「チッ、もうめんどくせえからお前死んどけよッ」

「––––––っ」


 これまで暴力に耐え続けていた少年だったが、流石に鉄パイプを振り下ろされたらひとたまりもない。数瞬後に自分に振り下ろされるその凶器の威力に固唾を飲み、されど決して手だけは離すまいと、ぎゅっと瞼と腰に回した腕に力を込める。

 そして––––次瞬。


「ッつ、誰だテ––––メェ……ら?」


 少年が覚悟した衝撃は、されど来ず。

 代わりに、少年の背後でチンピラの呻き声が聞こえた。


 え––––と、少年が恐る恐る背後を振り返ると、


「ひっひっひ。そこで『君たちは僕が守る〜』とか言えないのが、つくづくお前らしいな」

「まーったくお前は、そうやってすぐに突っ走る癖直せよ。実際、俺らが問題起こさなくても、お前から問題に突っ込んでいったんじゃ意味ねーだろ」


 振り返って、少年はへたり込む。

 そこには、見知った二人の姿があった。

 うねった黒髪の男は、ボロボロになった少年の姿を可笑しそうに見下ろしながらそう言って、横に立った長髪の青年は、チンピラの振り上げた鉄パイプを掴んで立っている。


「お前……ら……」

「すげえだろ、それで素なんだぜそいつ。生まれながら正義の味方なお人好しなんだよ、ゾッとするだろ?」


 言いながら長髪の青年はチンピラから鉄パイプを取り上げると、ぐにゃり、と軽々とその鉄パイプを捻じ曲げて、まるで肩についた糸屑でも捨てるかのようにその鉄パイプを放り捨てた。


「なっ……!」  


 それを見ていたチンピラ三人組は驚愕に口を歪め、無意識に後退りする。

 青年に鉄パイプを取り上げられた男は殊更恐怖し、顔に脂汗を浮かべた。実際に手に持っていたからこそ分かる。目の前の青年が簡単に捻じ曲げたのは、紛れもなく鉄製のパイプだった。アルミなどの軽い素材ではない、確かな耐久力のある重厚な鉄の塊。それがあんなスプーンでも曲げるように捻じ曲げられるなど、一体どんな膂力をしているというのか。

 いや、確かめるまでもない。

 その青年は、少年より頭一つ背の高いチンピラ達よりも更に、もう頭一つ分背が高かった。

 学生服に覆われた胸板も男達より一回りは分厚く、腕や足に至っては少年の腰と同じ太さがあった。

 肉体に裏打ちされた確かな筋力がそこからは窺え、まるで現実離れした肉体を持ったその存在が学生服を着ていることが、更に目の前の光景が現実か判断させ難かった。


「だ、誰だてめえら!こいつの仲間か!」


 だから舌を絡ませながらも、そうして虚勢を張ったドレッドヘアーの男は、チンピラ達の中では胆力がある方だった。そしてそれは確かな経験による冷静さ。これまでの路上での喧嘩などから培われた、暴力に生きる人間だからこそなせることだった。

 しかしそれ故に、ドレッドヘアーの男はいち早く察知する。

 目の前に立っている長髪の青年よりも濃密な危険性を孕んだ、うねった黒髪の男の存在に。 


 匂い––––とでも言うのか。

 青年が発する匂いがあくまで純粋な力の匂いだとすれば、男の放つ匂いは澱みきった暴力の匂いだった。自分達と同じ、いやそれよりもっと濃厚な悪寒すら感じる匂いが、その男からはした。

 と、向けていた視線がうねった黒髪の男に気付かれる。 


「ん〜仲間っていうか……なんというか、まあ、腐れ縁みたいなもんだ」


 歯切れ悪くそう言ううねった黒髪の男に、チンピラの一人が男ににじり寄って、怒声を上げる。


「ハンッ、お前らもこいつみたいに正義の味方でも気取って助けに来たってか?ならどうするよ、警察でも呼ぶってか?」

「ああ、安心しろって。俺らはそこの七三眼鏡君とは違って正義の味方じゃねえからな。そんな面倒臭ぇことしねえよ」


 鼻先が付きそうなくらいに顔を寄せて凄むチンピラに、男は肩をすくめてそう言った。

 男の横で長髪の青年が、笑いを堪えきれない口元を覆って頷く。


「そうだな、正義の味方じゃあない」

「ああ––––俺らはただ、クソ野郎の敵ってだけだ」

「––––へ?」


 じゅうぅ、と、嫌な音がした。


「い、いぎゃああああああっ!」


 男の目の前に立っていたチンピラが、突然悲鳴を上げて蹲る。

 いや、誰だって蹲るだろう。

 眼球に突然、火の付いたタバコを押しつけられたのならば。


「てってめえ何しやがる!」

「ばっ––––待てっ!」


 ドレッドヘアーの男の静止も聞かず、もう一人のチンピラが反射的に男に飛びかかったのは、怒り半分、動揺半分といったところだったろう。突然隣に立っていた相方の目が潰されたのだ。その行動は至極自然である。

 だがだからこそ、ドレッドヘアーの男は漠然とした悪寒の理由を理解した。

 理解させられた。

 こいつは––––こいつらは、関わってはならない類の人間だったのだと。

 見ず知らずの人間のためにボロボロになれる人間が、まともな訳がない。

 鉄パイプをスプーンのように捻じ曲げる人間が、まともな訳がない。

 人間の眼球に躊躇なくタバコを押しつけられる人間が、まともな訳がないのだから。

 故に、ドレッドヘアーの男は仲間を引き止めようとして、手を伸ばしたその先の視界から、瞬間、チンピラの姿が消えた。

 否、消えたのではない。

 押し潰されたのだ。

 長髪の青年が真上に掲げた右足の踵を、脳天に落とされて。


 グリュっ、と。


 アスファルトの地面と、頭蓋骨がぶつかる音。

 明らかに何かが砕けたような音がしたにも関わらず、しかし青年はアスファルトと足の間に挟んだチンピラの頭から足を浮かすと––––ゴリっ、と再度足を踏み下ろした。


「はーい、悪人征伐完了」


 ヘラヘラ笑いながら、青年は踏み潰したチンピラの頭から足を下ろす。

 ピクリともしなくなった仲間の姿を目にして、ドレッドヘアーの男は急に動悸が激しくなっていくのを感じた。後退りしようとして、脚が絡んで盛大に尻餅をつく。自然、ドレッドヘアーの男は二人を見上げる形になり、二つの視線が自分に落とされる。


「あ……あぁ……」


 そこでドレッドヘアーの男は気付いてしまった。

 自分に向けられる視線が、何の感情も含んでいないことに。

 敵意も、害意も、興味も、関心も、意識すら含まれない視線。否––––それはそもそも視線ですらない。ただ眼球の方向がこちらを向いているだけ。彼らの目には、彼らの意識には、自分は存在すらしていない。道端の雑草にいちいち目を向ける人間がいないように、彼らにとって自分とはその程度の価値しかない存在だった。

 誰しもタバコも捨てるし、踏み潰すだろう。雑草相手になら。

 じゃあ自分は。

 同じ雑草の自分は、一体どうなるのか––––と、ドレッドヘアーの男が思い至ったところで。

 ゆらり、と視線が揺れて、二つの影が自分に伸びた。


「ひ、ひぃっ、やめ––––」

「––––きゃっ!」


 ドレッドヘアーの男が漏らしかけた悲鳴に、女の悲鳴が重なる。

 悲鳴が上がった方を見れば、先ほどの女性二人が、店の中にいた仲間達に捕まっていた。

 するとゾロゾロと、店の中から仲間達が出てきて、少年達を囲むように並ぶ。


「––––兄ちゃん達、うちの店の前で何やってんだ」


 そして最後に、店の中から姿を現した人物。

 その人物の姿を目にして、ドレッドヘアーの男は張り詰めていた緊張が一瞬にして氷解するような感覚を覚えた。今まで裸で猛獣の檻に入れられ、捕食される瞬間をただ座して待つだけだったところに、拳銃を与えられたような、圧倒的安心感。


「せ……先輩」


 ドレッドヘアーの男が『先輩』––––と呼んだその男こそ、彼らチンピラのリーダーを務める人物であり、ドレッドヘアーの男達は皆彼のカリスマ性の元集まったに過ぎない。そしてそのカリスマ性とは、つまるところ彼の強さに終始する。

 先輩は強いのだ。ドレッドヘアーの男の知る限り、誰よりも。

 所詮彼らの生きる世界は暴力の世界。そこでの善悪は結局のところ全て強さによって左右される。その評価軸によって判断される世界で、先輩は正に最強だった。

 売られた喧嘩は全て買い、気に入らない人間は全て叩き潰す。格闘家だって、体格的に優れた外国人相手だって、複数対一人の状況だって、凶器を出されたところで先輩は勝ち続けた。

 そんな人間が出てきたことで、そして数による絶対的アドバンテージを得たことで、ドレッドヘアーの男の恐怖はいつの間にか霧散していた。

 先輩は青年達に近付くと、胡乱な目つきで二人に視線を這わせる。

 こうして並んで見てみると、一般人からすれば規格外なほどに巨躯と言って差し支えない先輩よりも、青年は更に拳数個分は背が高かった。しかしそんな怪物と相対する先輩は身に纏った余裕を崩すことはない。

 先輩の揺るぎないその態度に、ドレッドヘアーの男は冷静さを取り戻し、かえってこの先あの学生達に待ち受ける未来を思って憐憫さえ覚えた。

 ここまでやってしまったのだ。最早彼らが五体満足で家に帰ることはもう無いだろう。

と、前途ある若者達の未来が潰すことに対する、僅かながらの罪悪感にドレッドヘアーの男が目を瞑りかけた––––その時。


「そうやっていきがりたいのは勝手だがよ、場所と相手は選んでやらねえ––––あがああああああっ!?」


 ありえない光景が、目の前に映し出された。

 学生達相手に凄みを効かせていた筈の先輩が、持ち上げられていた。

 顔面を長髪の背年に片手で掴まれ、地面から爪先が離れる高さまで。


「こいつで合ってるんだよな?」


 チンピラ達が絶句し、持ち上げられた先輩が痛みと驚愕に悶える中、大の大人を––––それも体重は優に三桁はあろうかという巨漢の男を片手で持ち上げている長髪の青年は、脱力した様子で隣の男に尋ねる。

 うねった黒髪の男はそれに、手にしたスマホの画面を確認して頷いた。

「ああ……え〜っと、ああ、これだこれだ。秋山博成、三十一歳。獅子座のAB型。趣味はダーツに乗馬。学生時代からカツアゲに喧嘩といった問題行為を起こし、補導歴は中高だけで数十回。現在は半グレ団体『ブレイキングドラゴン』(笑)のリーダーを務め、都内で経営する数軒のバーでの薬物売買に、婦女暴行、詐欺、恐喝に傷害の数々–––––ところが父親と兄が警視庁のお偉いさんってことで、これまで逮捕すらされてねえクズの中のクズだな」

「ど……どおじて俺のこと……」


 先輩は驚愕に、顔面を覆う指の隙間から目を見開いた。

 咥えタバコの男がつらつらと語ったのは、確かに先輩の––––秋山博成の正確な情報だった。だが秋山が驚いたのは何もその情報自体にではない。ここらの裏社会に一度でも足を踏み込んだ人間ならば、自分のことを知らない人間はいまい。

 だから彼が驚いたのは何故自分のことを、今日ここで偶然出会っただけの学生が知っているのか、ということについてだった。それも、誰も知らない趣味に至るまでを正確に。

 するとその疑問に、咥えタバコの男はスマホをポケットの中にしまいながら答えた。


「あんたら二週間前、この店に女子高生連れ込んだだろ。何したか詳しく聞く気は無いが、生憎その女子高生はウチの生徒でな。で、今も精神をやられて学校に登校出来ていないそいつの友人達に、依頼されたんだよ」

「い、依頼だと……?」

「ああそうだ」肯定して、男は顔を秋山に寄せて呟くように言った。「全部取り返してほしい。友達の撮られたビデオや写真含めて、痛みも、苦しみも、味わった屈辱全部、お前らから耳揃えてってな」

「本当だったら今日潰すつもりはなかったんだがな。うちの部長が偶々お前らと出会ったのが運の尽きってことだ。ま、たまには部活らしいこともしとかないとってことで」


 男に続けて、青年がカラカラ笑いながらそう言う。

 自分の頭を鷲掴みにする指に万力のような力が込められる最中、秋山は青年の口にしたある言葉に目を見開く。


「待て、待て待て待てっ!ぶちょ、部長だと⁉︎お前らまさか部活かなんかだってのか⁉︎」


 まさかそんな––––ありえない。

 こんなことをしでかす連中が、自分達に正面から喧嘩をふっかけてくるようないかれたことを、ただの部活動でやっているとでもいうのか。

 だとしたら、最早イカれているどころの話じゃあない。

 理解できない。理解したくもない。

 なんだこいつは––––なんなんだこいつらは。

 混乱する秋山よりも先に、ドレッドヘアーの男が記憶の底からとあることを思い出す。


「お、おい待てよ……。その服、桐高の制服じゃねえかっ。それに七三の眼鏡に、咥えタバコ、長身ロン毛って、まさか……まさかお前ら最近噂のっ––––」


 しかし言い切る前に、ドレッドヘアーの男に秋山の巨体が投げつけられ、二人は絡み合いながらガラスを突き破って店の中に転がり込む。

 突然二人が飛び込んできた店内からは、女達の悲鳴が上がった。

 呆然とそれを眺めていたチンピラ達は、皆一様に錆びついたブリキ人形の如き動きで、ギギギと青年たちに顔を向ける。

 秋山を片手で投げつけた青年は、投げつけた姿勢のまま肩を揺らし、顔を上げると共に盛大に名乗りを挙げた。


「ふっふっふ、いかにも!俺達は桐谷高校社会風紀研究部––––依頼さえあれば愛と勇気と学区内の平和を守る、人呼んで桐高ガーディアンズだっ!」

「いや誰も呼んでねーだろ」


 青年にツッコミを入れつつ、男はコキコキと首を鳴らしながら周囲を見渡す。

「一、二、三、四––––二十人か。よし、俺が五でお前が十五だな」

「バーカ。俺一人で十分だってーの」


 と、そこで初めて二人は視線と共に、意識を周囲のチンピラ達に向ける。

 視線を向けられた刹那––––二人の学生の意識の中に自分達が初めて存在したことを知覚したチンピラ達は、大地が揺れる感覚を覚え、すぐさまそれが自分の体が震えているのだと理解した。

 先ほどまでは、単なる雑草程度の認識に過ぎなかった。それ故に、踏み潰されるもされないも、この二人の気まぐれでしかなかった。

 言い換えればそれは、まだ先程まではこのまま見過ごされる可能もあったと言うことだ。

 だが今自分達は、明確に彼らの意識の中に存在してしまった。

 潰すべき––––敵として。

 その事実に、チンピラ達が脱兎の如く逃げることを決意する正にその瞬間、パラパラと砕け散ったガラスを体から落としながら、店の中に投げ飛ばされた秋山がよろけながら出てきた。


「ガフッ……お前らが最近ここらを荒らし回ってるって話題の三人組だってのか」

「荒らし回ってるってのは人聞きの悪い––––俺らは正当な対価と引き換えに悪人退治してるだけさ」

「ちなみにお前らは十万な」


 肩を竦め大仰にそう言う男に、皮肉げにそう笑う青年。

 そんな二人の様子に、秋山はむち打ちのようになった首の痛みも忘れ、建物の外壁に拳を叩き付ける。


「十万……?十万だと……?俺らを潰すのに、たったの十万?」


 拳の下からは砕けた外壁がパラパラ落ち、秋山は顔を伏せってぶつぶつと譫言を足下に落とす。

 そして秋山の胸に去来した感情は、先程までの動揺や恐怖を吹き飛ばすほどの憤怒であった。


「ふっっっざけんな!」


 秋山はそう怒声を上げて、血走った目を二人に向ける。そのまま手近にあった大ぶりのガラス片を手に取ると、怒りのあまりガタガタ震える手でその尖った先端を二人に向け、声を張り上げる。


「殺すぶち殺すっ––––お前ら何やってんだ!早くこいつらをぶち殺せ!」


 その殺意の篭った怒号に、チンピラ達は逃走の意思を無くして二人の方に固唾を飲んで向き直る。彼らは理解していた。秋山の手にしたガラス片が向けられているのが、二人の学生だけでないことを。

 もしもここで背を向けて逃げ出そうものならば、秋山は迷うことなく逃げ出した者を背後から突き刺すであろうことを。

 退路を経たれ、進路を経たれ。

 選択肢を失ったチンピラ達は、ガタガタと震える足のまま、震える声のまま悲鳴のような怒号と共に学生達に向かっていった。数の暴力という、一縷の望みに賭けて。

 それを迎え打つ形となった二人の学生は、揃って獰猛な笑みを浮かべると、背中合わせに拳を構えた。


「さあて、それじゃいつも通り––––」

「––––悪者退治の時間だな」

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