27話 アリス=リデル
暗い森の中を、時折ふらつきながら帰路につくアリス。帰り道、街中を通ればもっと楽なのですがあえて人が誰もいない方を選びました。だって、顔も腫れて鼻血で汚れて、腕からも血を流し、そんな状態で街中を歩いたら嫌でも目立つから。殴られた場所がズキズキと疼くような、あるいは脈を打つような痛みに支配されます。
「・・・。」
痛い、それ以外になにも湧いてきません。悔しさも、怒りも、虚しささえも。
「私が・・・?やったの?」
思い出すのはついさっきのこと。友達を助けに行ったはずなのに、見知らぬ人に殴られて、突然意識がなくなって、気がついたら全てが終わっていました。そのあと、自分の意思とは全く違う行動を取ろうとしました。体が全くいうことを聞いてくれないし、頭の中ではひっきりなしに声がしました。メイベルは友達です。そんな彼女を傷つけるよう唆す声が。
なんとかして行動を抑えるためとったのは、自らに痛みを与えること。正直、考えなしにとった短絡的な方法ですがなんとかなりました。腕にできた傷はそれによるものです。
「あの時も・・・?」
思い出したのは、つい最近片付いたばかりの出来事。とある少女が男たちに襲われていたところを助けたあの日にも似たようなことがありました。さっきとは違い、気がついた頃にはなんともなかったけど、あまりにも似ています。結び付けたい気持ちの反面、否定したい気持ちもあります。
「待って?この声・・・。」
そういえば、話しかけてきた声、妙に聞き覚えのあるような?そもそもアリスの中には別の存在が宿っています。宿主があんな状態で、黙ってはいないと思うのですが、彼女は一体どうしているのでしょうか。疲れてうまく働かない頭でいろいろ考えながら、疲れて重い足を時折引きずって遠い家を目指します。ついたのは、十六時頃です。夏だし、まだまだ空も明るいです。山に囲まれた、こじんまりとした家。
「嘘、でしょ?」
なにもない普通の景色があってはならない光景に映りました。彼女の目に、脳に、何かが悪さをしているのでしょう。アリスが見ているものは、炎に包まれる自分の家。一歩、また一歩。真実を少しずつ確かめるように近づいていきます。実際に燃えているわけではないので熱くはないですが、あまりにも燃え盛る炎が怖くて近づけません。何度も言いますが、家は燃えていません。アリスはありもしない現状に慨嘆しているのです!
「アリス!おかえり!」
窓の隙間をこじ開けて、飛び降りたマルコが駆けつけましたが、明らかに様子のおかしい主に元気のいい声をしまいます。
「・・・どうしたの?」
「なんで!?どうして!!」
アリスにはマルコの姿も見えていなければ声も聞こえていません。
「なんで家が燃えているの!?」
全く別の世界が彼女を苦しめています。当然、混乱するのは当たり前のことで。
「何言ってるの?燃えてないよ?」
こんなに足元をせわしなく周り、体によじ登ろうにも、頭を抱えて苦しそうに胸を抑える彼女にそんな隙はありません。
「私が何をしたの!!?ねぇ、なんでこんなことされなくちゃいけないの!?」
「アリス、落ち着いて!アリスってば!」
小さな獣の呼びかけも号哭に掻き消されてしまいます。泣き伏せたところをなんとか、膝、腕と飛び乗って、肩にまでたどり着いて、音を拾う器官の一番近くで名前を叫びます。
「アリス!!!」
アリスの動きがぴたりと止まりました。
「わ、私・・・あれ?どうなっているの・・・?」
マルコの一声で、視界にかかっていたフィルターはきれいさっぱり無くなりました。我に返ったアリスはさらに混乱します。さっきまで燃えていた家が一瞬で何事もなかったかのように元に戻っているのですもの。声がした方を振り向くと、首を傾げて見上げてくるマルコがいました。ただ、どうにも怯えていて、かける言葉も浮かびません。
「・・・。」
それは、たまたま騒ぎを聞きつけて、たった今アリスたちがようやく見える距離までやってきたダイナも同じでした。怯えてこそいませんが、とてつもなく異様な光景を目の当たりにして迂闊に近寄ることができません。誰も彼もどうしていいかわからず、アリスはしばらく茫然と立ち尽くしたあと、辿々しい足取りで家の中へ入りました。部屋をまっすぐ目指し、ベッドに体を投げ出します。
「はぁ・・・。」
今日は大変目まぐるしい一日でした。ろくな目にばかりあった気がしますが。ちょっと心に余裕ができると、ある疑問が浮かんできます。さっきの幻覚に関すること。
「・・・どうして私は「誰かがやった」って思い込んだの?」
幻覚なのは認めるとして、なぜ家が燃えた原因が「火事などの現象」ではなく「他人の故意によるもの」と決めつけたような発言をしたのでしょう。なんで燃えたかなんて、アリスにはわからないのに。あの時、悲しい気持ちでいっぱいになった反面、家を焼く炎のように、自分の内側から煮え繰り返るような怒りで満たされた感覚もありました。
「・・・ん?」
そばにきたマルコが頬に鼻をすり寄せます。くすぐったいけど、悪い気はしませんでした。
「さっきはありがとう。」
指で軽く頭をつついてやると、枕の空いた場所で丸くなりました。あまりにも自然体で、自分を気遣ってくれるところもあって、癒してくれたり、それで嬉しかったり。だからこそ・・・。
「・・・・・・。」
何か思い詰めた顔で、アリスは目を閉じました。やらなくちゃいけないことはあるけれど、少しだけでいいから眠りたかったのでした。いつのまにか、すっかり眠ってしまい・・・。
アリスはなぜか、自分が夢の中の世界にいるという認識がありました。いわゆる明晰夢です。暗い闇の中でひとりきり。よく見た光景です。こういった場合、たいていいい夢であった試しがありません。あてもなく彷徨っていると、すぐ近くに淡いオレンジ色の光の球が現れました。しかし、いくらそちらへ向かって歩いても向こうがも遠ざかっているのか、ちっとも距離が縮まりません。しまいには追いかけるのを止めました。
「久しぶりね。」
喋ったのはなんと、火の球の方です!しかもその声は長らく聞いていない、あの声です。
「私の名前はリデル。あなたの内側でおとなしくしていた、悪魔擬きよ。」
どんな姿であろうとアリスは嬉しくてたまりません。いや、先に今までの寂しさや不安をぶつけたい気持ちでした。
「突然いなくなって!どこいってたの!?」
だだっ広い空間に叫ぶ声が響きます。
「ずっといたわよ?」
返ってきたのはくすくす意地悪そうに笑う声です。
「・・・このまま黙ってようって思ってたけど、もうしゃべる事もないだろうし、どうせなにも変わらないし。最近、様子がおかしいことに気付いてるわよね?」
やはり悪魔、もといリデルは知っていました。
「あれ、私のせいなのよ。」
アリスは衝撃が隠せません。
「判断が間に合わなかったのは私の落ち度ね。それはそれとして。」
今度は笑い声と声が重なります。彼女は続けます。
「理不尽な痛みを別の何かに換えることによって貴方は痛みから解放されるわ。苛む痛み、苦しみを、全て憎しみに、ね。貴方が敵わない時に私が応じる。別にそれだけでよかった。」
混乱している最中で、ひとつの蟠りが解けました。少女を逃した時もそう。友達を助けた時だって。とてつもない痛みを伴った後、彼女が言っているのと同じようなことを何度も話しかけられたのを思い出します。言葉を反芻しました。
「憎しみだ。この痛みを全て憎しみに換えるのだ。」
そのあとはリデルのいう通りです。アリスの力が到底及ばない相手には人外の力を借りることがありました。ただ、今回はそれだけではなかったようです。
「私達はね、負の感情を餌、力の根源とするの。そして、痛みの代わりに得た憎悪が、悪魔としての私を、私の中の悪魔さえ呼び覚ましてしまった。」
ボオッという音と共に火の球が瞬時にして姿を変えました。巨大で歪な形の炎が、不安定に揺れています。近くなのに、不思議と熱さを感じません。
「長い時を経ても得られなかったものをようやく手に入れて!諦めていた、完全な悪魔としての私を手に入れて・・・もう・・・大人しくしてられない!本物として目覚めた私を外に解き放ちたくて仕方がない!でも私は・・・貴方という殻を突き破って外に出ることができない。」
感情が昂るたびにより激しさを増したり、落ち着くと鎮まったりと炎は感情に左右されているみたいです。真ん中に穴が三つ空いて、顔のような模様を作ります。横に伸びて、笑っていました。
「ならいっそ、貴方の体を奪う事にした。」
笑みを含んだ声に、アリスは頭の中を直接鈍器で殴られたような衝撃をくらい、加えて喉の上で息が詰まっている感覚で苦しくなります。地に足が着いているのに立っている感じ全くがしません。悪魔は容赦なく語りかけます。
「爪の先から内側の一番深くまで、思考、記憶、心も・・・全てを支配する。アリスはね、私の物になるの。・・・いいえ、違うわ。貴方が私になるのよ。」
これが彼女の本性なのでしょうか。返す言葉もありません。なんで、どうして、そんな言葉しか浮かばないし、そんな言葉に納得いくような答えが返ってくるとは思えないし、そもそも、声が出ない!聞こえてくるのはなんて愉しそうな嘲り笑い!
炎は小さくなっていき、視界も暗くなってだんだん狭くもなります。
「あははは!まあ、アリスは元々私の作り物なんだものね・・・。」
最後の声は意識が目覚めていくアリスの耳には届きませんでした。
随分早い時間に起きました。早すぎて、外はまだ真っ暗です。
夢の中で味わった感覚がそのまま残っています。なんとか深呼吸することで落ち着かせましたが、気分は一向に晴れません。あれがただの夢だとは思えませんでした。単に、アリスにとっての疑問に答えてくれた人がいたから夢ではなく現実と思いたいのでは?・・・答えと信じたいかどうかは別の問題ですが。
「・・・・・・。」
無言で、無表情で、ベッドから降ります。部屋の電気つけなくても窓辺からさす光で足元が見えるほど今日は明るく、もしかしたら満月なのでしょうか。鏡に写る自分は、青く仄暗く、まるで幽霊のよう。テーブルに置いてあったナイフを手に取ります。月明かりを浴びた刃の方が綺麗な光で飾られています。しばらく眺めた後、両手に握り、持った腕を伸ばしました。刃の向かう先は持ち主の胸元。
「自分が自分じゃなくなる前に。傷つけるだけの何かになるぐらいならいっそ死んだ方がいいのかしら。」
最初に彼女を自殺衝動に追い立てたのは「虚無」、次に「絶望」でした。更にアリスは一つの確信を得ました。与えられた痛みでああなっても、自らに痛みを与えた場合は逆に収まったことを思い出したのです。
自分なのに自分ではなくなるという虚無と絶望。そして、どう成り果てるかという恐怖を含めた何もかもが嫌で嫌でたまりませんでした。そんなものに比べたら一瞬の痛みなんて。
勢いつけて腕を曲げれば簡単に刃は刺さります。
しかしできませんでした。
「ぐ、う・・・ぅッ。」
力が反対方向にかかります。それに対抗して自らも力を入れますが、いれればいれるほど倍の力で抵抗してきます。呻き声のような声が喉の奥から食いしばる歯の隙間へ漏れるだけ。少しの間格闘していましたが、とうとうアリスが根負けしました。拮抗する力から解放された勢いで手放したナイフが床に転がります。
「なんで・・・。」
せっかく落ち着いた呼吸が乱れ、肩を激しく上下に動きます。今のは「死」へ対する恐怖ではありません。何もない、本当に空っぽの状態で、自ら死ぬにはまさに最適でした。信じられないかもしれませんが、ほんとのほんとに体がいうことを聞いてくれなかったのです。アリスは余計に疑いました。これも、
「どうすればいいの?どうすればいいの!?」
自分の意思で動かした体でさえ止められてままならないだなんて。痛みを伴わなくたって、これは理不尽というものではないのでしょうか。
今度は誰も答えてくれません。時間だけが流れます。やがていつも通りに体の調子が整ったら、アリスは外に出ました。これだけまぶしいのですもの。外がどんな風か見てみることにしました。
「まぁ、やっぱり満月なのね。」
暗い一面の空に、とても小さいのに遠く離れた地面を照らしています。この月を綺麗だと感じる気心もやがて失われていくのだろうと思うと切なくなりますが、せめて今だけは自分の気持ちを大事にしたいアリスでした。ほら、そうするとさっきまでの嫌な気分もちょっとは紛れるかもしれませんし。ひとりぼっちのアリスの元へダイナがやってきました。巨大な獣も、今やすっかり牙を抜かれたみたい。
「月は綺麗だ。我は燦々と輝く陽の光より穏やかな月な光が良い。」
「でも、太陽の光によって月は照らされているらしいわよ?」
アリスの余計な一言に、出会ってはじめて彼が笑いました。
「ふっ・・・要らぬ口をたたけるぐらいには元気になってよかった。」
ダイナは伏せて、丸くなります。犬が寝る時によく見る体勢です。
「寝れぬのなら、少しの間だけ付き合おう。傍に寄り添うことしかできないが。」
「・・・ありがとう。」
いつもは一人を好んでいるくせに、都合の良い時には側にいる人を望んで。後ろ向きな考えばかりが浮かびます。それほどまでに落ち込んでいました。しばし月を眺めた後、なんだかんだアリスは寝てしまい、ダイナが中へ運んであげました。
次の日。アリスはしばらく仕事をお休みすることにしました。勤務中にあんなことがあったら大変だからです。
「なに、これ。」
テーブルに見覚えのないメモ用紙が置いてあります。
「しばらく離れるけど、必ず戻ってくるからね。なんせ、こんな短い足だと君達にとっての近道も長い旅路になるわけさ。」
そのあとの文はなぜか塗り潰されている。字もガタガタで、時間をかけてやっと読めました。あの体型で、よく書けたものだと感心します。
「私が怖くて出て行っちゃったのかしら。」
しかし、何も感じません。寂しさも、悲しさも、怒りも。当たり前のようにすんなりと受け入れてしまっています。メモ用紙をそのままに、アリスは再びベッドに寝転びました。
何も感じないアリスなら出来る。
アリスは・・・。
アリスは引きこもることにしました。
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