僕の××だって、それほどには大きくないのだから。
もうすっかりいっしょくたに浸されてしまった夢うつつの分別が確かならば、あれはかつて、現実の僕が想像した光景だった。
代表は誰でもいい。僕でもいいし、もっとその器にふさわしい偉い人でもいいし、くじ引きでもいい。とにかく、誰か一人。一対世界。世界中の、富める人も貧しい人も、聖人も悪人もどちらでもない人も、とにかく、中心から端っこの端まで全ての人たち。選ばれたとある一人の号令によって、世界中の人たちに同時に同じ行動をさせることができたなら、どんなことが起きるだろうか。
最初人混みにまみれて突っ立つ自分に気づいたとき、僕は真っ先にその妄想を思い出したのだ。大きなスーパーの駐車場。服装も、まさしくそこに行くときの格好と特に変わらない思い思いの普段着だったと思う。けれどもみんな、同じあたりの頭上、大画面のスクリーンをを見上げている。ざわざわとはしていたけれど、その一つ一つは呼吸か、せいぜいほんの一言の囁き声くらいで、会話をする者はいなかった。もう、開始が間近に迫っている。
……ふと、僕は悟った。
どうやらここは、万事オーダー通りに設られた世界というわけでもないらしい。
ここには確かに、田舎育ちの僕では体感したことがないほど大勢の人間がいる。だがやはりどう見ても、まだだ。まだ地球上の全員には、これでは遠く及ばないのだ。
惚けているうちに、大号令も下されてしまったようだ。簡単なダンスをするらしい。上手くいっていた、のではないだろうか。案外あっさりとできるものなんだな。せっかく夢がかつての自分の夢想を叶えてくれようとしているというのに、僕が抱いた感想はそれくらいしかなかった。もう興味がなかった。悪いけど、こんなんじゃただの大運動会に過ぎないのだ。僕はただ一人隊列を縫って、駐車場の出口へと歩き始めた。
僕の想像力は少なくとも、最初現実でこの光景を思い描いたときよりかは豊かになっていた。どれほどの条件を満たそうとも、全人類の手足を一斉に借りることなんて不可能に決まっていた。
不意に、僕の海馬の隙間にUSBメモリのように差し込まれた記憶。「金は出す」。代表に選ばれた男の、情熱に溢れた声。そういう問題じゃないんだ。誰がいくら払おうたって、間接的な、男の預かりしれぬ場所で金といざこざが積み重なることは避けられないのだ。
例えばこれまで国や世界に無視され続けてきた貧しい男が、突然媚びへつらって協力を訪問してきた役人の面に石を投げつける。何故。例えばその石を投げつけられた下っ端の役人が、低頭で男の前から去った帰り道、舌打ち混じりでその辺に転がる缶を蹴っ飛ばす。何のために。障害者への対応。戦争状態にある国と国との遺恨。伝達の不具合。政治にほぼ関心のない僕ですらここまで想像できるのだ。実際に起きる問題はもっともっと山積みになるに違いない。仮に見事全人類を集められたとしても、その最後の最後でテロリストがネットワークをジャックするなりなんなりして、洗脳にやってくる。悪いことの方が多いに決まっている。それでも僕は、今ここに立っている僕も、そのあらゆる諍いの先で待つ結末にもしかすると、気恥ずかしくて、控えめで、けれどもどこまでも喜びに満ち溢れた至高の笑顔を、人類は初めて獲得できるんじゃないか。
そんな傲慢な希望を捨てられずにいるらしい。
深く広く、そうして想像すればするほどにうずうずするけれど、そうだ、僕の文章によって創造される世界はそもそも、こんな壮大な事件を始めるのには向いていないんだ。
僕にとってはこの「描けるか否か」という方が、この光景が多少なりとも理の通せるファンタジーであるか否かという課題よりももっと分厚い壁であった。……そしてもっと、はっきりと答えの出せる問い。
…………「できない」
曲がりなりにも空想を具現化してもらって、よくわかった。やっぱりこの空想は、僕の手には掬っていられない味をしていたんだ。
ハリウッドあたりに、任せておこうか。なんて。
歩くか。歩いておこう。道なりに行って尽きるか同じところに帰ってくるまで歩くから、その道中でハリウッドの風景がうっすらとでも見えたなら、そのままそこまで自分で相談しに向かおう。けれどももしできなければ、もう、誰かに代わりに行ってきてもらうことにしよう。
なんて。なんて。そんなんじゃ見つけられっこないよな。
わかっていた。僕はもう、諦めているんだ。
海沿いを歩いた。決定的な虚しさはあったけれど、その穴もまるごと含めて、僕の心は穏やかだった。素敵な旋律が、ゼンマイを巻いてもらったように頭の中に浮かんできたから、流れてくるままに歌った。どんなメロディだっただろう。桜が舞い散るような三連符だなという感じがあった。もしかするとどこかで聞いたことのある曲を思い出していただけだったのしれない。ともかく、懐かしい気持ちになるメロディだった。
いつの間にか、雨が降り出していた。その頃には頭の中の音楽は、ショパンのノクターンに切り替わっていた。要は紛れもない既製品になったのだけれど、特に構わなかった。道路沿いの側溝を鍵盤のようにして空で指を動かしていたら、触れたとおりの音が鳴ったから、ジャズピアニストになったつもりでアレンジに興じた。音を出してみて、あ、ちょっとこれは違うなと思うこともあったけれど、そんなところも含めて楽しかった。
お馴染みのメロディを五周ほど変奏した頃になると、今度は二階建ての階段を降りていた。小さな女の子が水着を着て、「おかあさーん!」と僕の先をとたとた行っている。どうやら僕と顔馴染みだったらしく、全て降り切った後に彼女は、振り返って僕に挨拶をしてきた。それで僕は、ほとんど飛び降りるようにして彼女に抱きついた。柔らかで、すべすべな肌をしていて、余すことなく舐めてしまいたいほど愛おしかった。僕のいやらしい心を全く知らない彼女は、自分を抱きしめる力の強さに少し驚いたようになりながらも、無邪気に笑ってくれた。
窓際の席で、テレビでポジティブキャラとして売れている芸人が、いつもの派手な服を着ていつもと同じ表情で、でもちょっぴり参ったような笑顔で雨降りの外を眺めていた。
水たまりを踏んでぐじょぐじょになった不快感もひねくれて醜い自分への嫌悪感も、まだひどく生々しく残っていたのに、久々に綺麗な夢を見たと、僕はそう思った。
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