ダブルダブル 巻之一

未村明(ミムラアキラ)

プロローグ (1)

 物語は、どこから始めることもできる。


 祇園精舎の鐘の声、と始めてもいい。

 寿永四年三月二十四日、と始めてもいい。

 あるいは——


 地球の中心から延びる一本の直線が、地表の一点に立って空を見上げるあなたの足の裏から頭へ突きぬけてどこまでもどこまでも延びて行き、無限のかなたで天球を貫く一点、天の頂、天頂。※1


 と、始めてもいい。

 あるいはまた——


 寒い冬が北方から、狐の親子の棲んでいる森へもやって来ました。

 或朝洞穴から子供の狐が出ようとしましたが、

「あっ」と叫んで眼を抑えながら母さん狐のところへころげて来ました。

「母ちゃん、眼に何か刺さった、ぬいて頂戴早く早く」と言いました。

 母さん狐がびっくりして、あわてふためきながら、眼を抑えている子供の手を恐る恐るとりのけて見ましたが、何も刺さってはいませんでした。母さん狐は洞穴の入口から外へ出て始めてわけが解りました。昨夜のうちに、真白な雪がどっさり降ったのです。その雪の上からお陽さまがキラキラと照していたので、雪は眩しいほど反射していたのです。雪を知らなかった子供の狐は、あまり強い反射をうけたので、眼に何か刺さったと思ったのでした。※2


 と、始めてもいい。


 全国の新美南吉ファンのかたがたにはまことに申し訳ないが、そのファンの先頭集団に筆者も入っているのだから、それに免じて、どうか許してほしい。

 まことにまことに、純粋な文学愛好者であり続けたかったら、野生動物のドキュメンタリー番組など観るものではない。

 きつねは、春に仔を産み、秋には別れるのだそうだ。

 つまり、母と子の姿が並んで見られるのは春、夏、秋のいずれかの季節だ。

 初雪の日に母さんぎつねと子ぎつねが同じ巣穴で暮らしているということは、ない。

 あり得ない。


 がーん。


 というわけで、

 もし、初雪の日に、一匹のきつねがとぼとぼと歩いていたとしたら、少なくとも彼はもう、子どもではない。

「このお手々にちょうどいい手袋下さい」

なんて言ってしまうようなあどけない坊やでは、もはやない。


 というわけだから、

 彼がめざしているのは、帽子屋ではない。

(南吉の子ぎつね坊やに手袋を売ってくれるのは、帽子屋さんだ。手袋屋さんではない。筆者もついさっき青空文庫で確認するまでまちがえていた。)


 帽子屋でないとしたら、何の店か。

 櫛屋はどうだろう。

 それ、そこに、のれんが出ている。十三や、と。

 九(く)と四(し)で十三という、洒落だ。

 京都の四条と東京は上野に同じ名の店があるが、いま見えるこの店はもちろん、そのどちらでもない。


 のれん——では叩けないので、戸にしようか。筆者の好きな、細い木の桟の引き戸だ。

 時代考証? そんなものはどうでもいい。

 その戸を、ほとほとと叩く。


 少年と青年のあいだくらいの姿だ。


 店主が戸を少し引き開けると、夕闇にほの舞う雪を背に、すっと水色の水干が立っている。

 ひどくもじもじして、目を伏せている。

 その目をやっと上げたとき、瞳が、きら、と金色に光ってしまうので、店主は

 (ははあ)

 と思うが、何も言わない。


 髪の多い、ひとなので、と若者はつっかえつっかえ言う。

母者人ははじゃひとが」

 そうつぶやいて、赤くなる。

 店主はまたもや(ほほう)と思うが、やはり何も言わず、笑みをかみ殺して、櫛を見せる。


 飾り櫛ではなく、梳き櫛。

 しかも、桃の木。

 それを若者が選んだとき、あるじの推量は確信に変わった。


 誰に聞いてきた、と問いたいのをこらえる。

 若者がさし出した銭に、てのひらを向ける。要らぬ、と。

 若者の目が見開かれるのへ、かんでふくめるように言う。


「その女子衆おなごしゅを一度、連れておいで。いちばん似合う飾り櫛を見立ててあげるから。

 この梳き櫛の代も、そのときに」



※1 木下順二『子午線の祀り』冒頭

※2 新美南吉『手袋を買いに』冒頭

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