#10 帰郷
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シャロンはペンシルベニア州にある祖父の家を訪ねた。そこは、幼いときに両親が離婚して以降、母親と暮らした思い出いっぱいの場所。優しい祖父と緑豊かな裏庭が、シャロンの心の傷を優しく癒やすのだった。
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いつもと道はちがっても、切れめなく飛び込んでくる木々の緑が目にやさしい。それに、鼻孔の奥にすうっと入り込んでくるこの香り。コンクリートにアスファルト、排ガスと人いきれでできたマンハッタンに住んでいると、心はすすけ、くたびれてしまう。でもこの地に戻ってくると、みずみずしく膨らみ、たちまち生気を取り戻すような感じがする。
おじいちゃんの家が見えてきた。というより、私の家。私を助け、育て、喜怒哀楽を与えてくれた心のよりどころ。マイ・スウィート・ホーム。
古びた小型トラックの横にレンタカーを停め、シャロンは前庭に降り立った。トランクからキャリーカートを出そうとしていると、「おかえり、シャロン」と聞き慣れた声がした。
「おじいちゃん、ただいま!」
カートを置き去りにして、シャロンは祖父のもとへとかけ寄ると、ぎゅっと抱きしめた。この匂い、このあたたかさ。何も変わっていないのがうれしい。
「元気だった?」
「見てのとおり、二本の腕に二本の足、白髪残しのはげ頭だよ」
「おじいちゃんたら!」シャロンは祖父の頬にキスをした。
ふたりは体を離し、あらためて再会を喜び合うかのように見合った。
ジェフ・バークスは、孫娘の表情がいつもより生き生きしていることに気づいた。首もとには茶色の石がチラチラと輝いている。
「ネックスレスなんて、どういう風の吹きまわしかな」
「あ、これ?」
シャロンはうつむいて、ブラウンダイヤのヘッドを手に取った。
「なんだかわかる?」
ジェフはヘッドを手にとって顔に近づけ、じっと見つめた。
「ネックレスの飾りとしては、めずらしい色だな」
「ひまわりをイメージしてあるの。私の目に合うように」
「なるほど」ジェフはほころんだ孫の顔を見つめた。
「いい男なのか。これをくれたやつは」
「いい人よ、とっても」
「そうか」
この娘は生まれたときから
ジェフは心のなかで祈りを捧げた。神よ、どうかシャロンを幸せにしてやってください。もし今度の男もろくでなしだったら……おお神よ、たとえあなたであっても私は許しません。
「さあ、荷物を取っておいで」
ジェフはやさしくシャロンに言った。
*
その日の夜、食卓にはバースデーケーキ代わりのアップルパイ、ポットロースト、デビルドエッグ、ケイジャン・ローストポテト、茹でたインゲンとブロッコリーが並んだ。すべてシャロンの手づくりだ。
ふたりはワイングラスを掲げ、それぞれに祈りの言葉を贈った。
「おじいちゃんの健康に」
「可愛い孫娘の幸せに」
シャロンは自分のワイングラスを軽くジェフのグラスにぶつけ、「誕生日おめでとう、おじいちゃん」と微笑んだ。
「ありがとう、シャロン」ジェフはしみじみと言った「おまえの母さんに感謝しなきゃな。世界一の孫を残してくれて」
「おじいちゃんこそ、世界一よ。でなきゃ、毎年こんなふうに帰ってこないわ」
「いつまで世界一でいられるかな」
「ずっとに決まってるじゃない」
ジェフはにやっとしながら首を左右に振り、シャロンの首もとを指さした。
「え、キースのこと?」
「そのキースという男は、おまえの世界一になれそうかい?」
「いやだ、おじいちゃん。まだそういう関係じゃないの」
シャロンはキースのことを想った。彼はまた連絡すると言った。信じていいんだろうか。もし連絡をくれたとしても、私たちは遠く隔たった場所にいる。いったいどんな関係が築けるというんだろう。
「どういう人なんだね」
心を覗いていたシャロンの目が、ふたたびジェフに焦点を合わせた。
「ハリウッドで映画監督をしているの。かなりの売れっ子みたい」
ジェフの表情がにわかに曇った。
「ハリウッドにろくな人間はいない。それに、おまえは女優にでもなるのか?」
「ちがうの、お客さんとしてうちの店にきてくれたのよ」
「それでも、ハリウッドの人間であることに変わりはない」
「たしかにお金持ちだし、私たちとはかけ離れた世界に生きてるわ。でも、悪い人には思えないの」
うわべだけ繕っていたルービン教授とは明らかにちがう。キースが欲得で私に近づく理由は何ひとつない。私はただの花屋の店員。きれいな女性をそばに置きたいのなら、ステファニーでこと足りる。うまく言えないけれど、あの人からは誠実なものを感じるのだ。私を見るときの目、頭にしてくれたやさしいキス、そしてこのひまわりのネックレス……。
「それに、まだお付き合いしているわけじゃないしね。だから心配しないで、おじいちゃん」
「おまえがそう言うなら」
ジェフはポットローストの牛肉をひと切れ口に運んだ。
「いつ食べても、いい味だ」
*
翌朝、シャロンとジェフは裏庭にいた。両親が離婚し、母親とともにここで暮らし始めて以降、シャロンにとっては遊び場であり、心の安らぐ場所だった。〈
「ここにいると、本当に落ち着く」
「姿が見えないと思ったら、おまえはたいていここにいた」
「ふふ、そうだったわね」
隅のほうで、ハエトリソウが真紅の口をあけている。細長く伸びた緑のトゲがそのまわりを覆い、まるで小動物がエサを与えてくれるのを待っているようだ。小学生のころ、まっさきにシャロンが植えたのが、この奇妙な植物だった。
「あなたたちの兄弟は、マンハッタンでも元気にしてるわよ」
シャロンは貝のような捕虫器の内側にそっとふれる。それは静かに口を閉じた。
そのとき、ジェフがぽつりと言った。
「いつまでこの植物たちが元気でいられるか……」
「何言ってるの。おじいちゃんはまだまだ若いんだから、しっかり手入れをしてよね」
「いや、そういうことじゃない」
祖父の重たげな口調に、シャロンは「なんなの?」と聞き返した。
「まだ噂にすぎないが、シェールガスの掘削計画が持ち上がっているらしいんだよ。この近くを掘るらしい」
「そんなのダメよ。だって、水が汚染されちゃうもの。このまえも水道水が引火したとか火災が起きたとか、ニュースでやってたじゃない」
「だが現実には、あちこちで掘削が始まってるんだ。まるでゴールドラッシュみたいに。こんな人の少ない田舎町では、大きな力には勝てっこない」
「ダメよ、絶対にダメ」
〈先のことを考えれば、重要な資源さ〉
キースの言葉がふいによみがえった。重要な資源だろうとなんだろうと、環境を破壊したらなんの意味もない。そこで暮らす人たちの生活を脅かす権利など、誰にもないはずだ。
でも、キースはなぜあんなことを言ったんだろう。世間的な意見を口にしただけなの? それとも、あの人も〈大きな力〉の側に立つ人間なんだろうか。
「とにかく、何か進展があったら連絡してね。私はおじいちゃんの、この街の人たちの、この緑の土地の味方なんだから」
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