形見分け

いちはじめ

形見分け

 家の中は、もぬけの殻も同然だった。床や壁に残った家具の痕跡だけが、以前人が住んでいたことを静かに物語っていた。

 この家は先ごろ亡くなった父から譲り受けたものだ。遺言により、この家屋と土地は長男である彼が、死亡保険金や貯金、そして株式等は妹が受け取った。

 先月義弟から、つまりは妹の夫から妻の為に形見分けをしてほしいと電話があった。彼は、妹も何か形見がないと不憫だろうと、二つ返事で了承したのだが、義弟の思惑は別のところにあったようだ。家の中のものを一切合財運び出し、換金できるものは換金したようだ。本当に形見として、妹の手に渡ったものが何かあったのかさえ疑わしい。

 いやはやここまでとは、と彼は苦笑した。

 義弟は小さな会社を経営している。このところの不景気で、会社の資金繰りが大変らしいことは耳にしていた。元々金に対する執着心を隠そうとしない男だったので、このようなことも、さも有りなんと合点がいく。

 父も彼をそう理解していたのだろう。意識がしっかりしているうちにと、二年前に遺言状をしたためたのだ。義弟もその内容に感謝していたはずだ。しかし法要の席での義弟の言葉を、彼は今も鮮明に覚えている。

 ――お義父さんが生前贈与してくれていたら、資産は倍ほど違っていたのにな。株式市場が暴落しているこの時期だなんて間が悪い。

 形見分けとは、資産ではなく親の愛情を分け合うことだ、と義弟は理解できないのだろう。彼はため息をつきながらがらんとした家の中を歩いた。

 彼の両親は、子供たちが家を出ると、都会の喧騒から離れた静かな場所で暮らしたいとこの家を買ったのだ。母が他界した後も、父は一人この家で暮らしていた。だから彼には、この家に特別な思い入れはないのだが、だからと言ってすぐに売却する気にもなれなかった。売ったところで、家の解体や整地の費用等を差し引くと、大した額は残らない。それよりも別荘として利用してもいいか、と思案していたところだ。

 この家の北側の部屋は書斎になっていた。

 父は本が好きで、書斎がある家に住むのが夢だ、と昔話していたことがあった。六畳間のささやかな書斎には、家の佇まいからは不釣合いなほどの、豪奢な作り付けの本棚が備わっていた。しかし本棚に本はなかった。

 ――これも義弟の言う形見分けなのか……。

 彼は空の本棚をなぞりながら、父が読んでいたであろう本に思いを馳せた。

 すると彼は、奥の棚に古びた百科事典全集があることに気が付いた。彼はその全集に覚えがあった。彼がまだ年端のいかぬ頃、父が買ったものだ。思わず手に取り、ページを開いてみた。恐竜の頁に、色鉛筆で書かれた落書きがあった。それは彼が書いたものだった。これは父のひざに乗り、ページを開いてもらうと次から次へと質問をして、父を困らせていた時の百科事典だ。

 彼は目頭が熱くなるのを感じた。

 そしてその下の棚には、少年少女向けのSF全集が並んでいた。これにも見覚えがあった。親離れする前、確か中学一年生の時に買ってもらった、最後の誕生日プレゼントであったように記憶している。

 父がどんな気持ちでこれらを手元に残しておいたのか。それを思うと彼はとうとう涙を止めることができなくなった。

 ひとしきり涙を流した後、彼に一つの疑問が浮かんできた。本棚を埋めていた本は、義弟が持ち出したはずだが、何故これは処分されなかったのだろうか。他に残っている本がないところを見ると、値が付かないものを仕分けして残した、という訳ではなさそうだ。

 ――まさか義弟が意図的に残したのか……。

 首をひねりながら、彼はSF全集からお気に入りだった一冊を、懐かし気に引き抜いた。その時、本からはらりと一枚の折りたたまれた真新しい紙が落ちた。果て、何だろうとそれを拾い上げてみると、それは手紙であった。

 その手紙にはこう書かれていた。


『お義兄様へ。この状況を見てさぞや心を痛められていることと存じます。こちらもやむを得ぬ事情がありまして、お察しいただけましたら幸いです。

さてこの二つの全集ですが、お義父様のお気持ちを察するに、さすがの私も処分する訳にはまいりませんでした。お義父様の形見としてここに残しておきます。

なおこのSF全集は、私も子供の頃に夢中になって読んだ覚えがあります。この手紙をその中で一番のお気に入りに挟みました。因みに、お義兄さんのお気に入りの作品はどれでしたか?』


 ――形見分けか……。


 次の法要では、この本を肴に義弟と一杯やるのも悪くない、と考え始めた彼であった。

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