悲しき恋

お白湯

悲しき恋


「どうやら僕は壊れてしまったらしい…。」


 男の部屋には実用性の高いナイフからアンティークナイフまで、様々なナイフがずらりと並んでいる。

 薄暗い部屋の中で男は木の机と椅子に座り、鏡に向かい1人で話していた。


「君が望んだ永遠も叶え終わったはずなのに、君はこんなにも素敵なのに…。何故なんだろう…。」


 男は少し小さいゴシックナイフを右手に持ち、机の上に刃先をコツコツと当てている。

 それは一種の癖のようであり、溜まった鬱憤を晴らすかのようでもあった。


「君は美しかった。僕の望んだ通りの良い目をしていた。君も僕を愛していたのが分かったよ。」


 男は依然として鏡を見ながら話す。

 男を映す鏡の隅には人影が壁に寄りかかっていた。


 男が先程からずっと見ていたのは、鏡に映った自分とその人影だった。


「分からなくなってしまったんだ。君の永遠を望むうちに、君がなりたかった美しいままで居続けたいと思う心に…僕は魅了されてしまった…。」


 男はナイフで机を突く事をしながらも左手で頭を抱えると、涙を浮かべ独白を続ける。

 それはまるで懺悔のようだった。


「愛はあったはずだ。ベットの上の君と今の君は、何一つ変わりはしないのだから。君は…君は…。」


 男は振り返る事はせず、ずっと鏡に映っている人影を見つめ、それを『君』と呟くのである。

 そして、男が頭を掻きむしる音と机を突く音の他には何も無い深夜だった。


「僕だって分かっていたさ。君の心臓や子宮を眺めても愛が見える訳じゃない。そうさ、神父や神学者の脳みそを見たって、神なんていやしなかった。」


 男が鏡越しに見続けていた人影に、通り過ぎる車のライトが窓から当たり、見えてきたのは女性の亡骸だった。

 その亡骸は、先程切り刻まれたかのように、おびただしい鮮血を流して様々な臓器が露出させられていた。


「この手で柔らかい臓器の感触を感じる度、心が安らいだ。紛れもなく君と共に居られる事が分かる瞬間だったよ。」


 男の表情が一瞬だけ柔らかいものになったような気がしたが、それもつかの間だった。

 男の笑みは消え去り、また後悔のような涙を溜めるのである。


「悲しいんだ。君が腐ってしまうとか、この世から居なくなってしまったとか、そんなことではないんだよ。これ以上にない絶望を覚えてしまったんだ。」


 男は右手のナイフを机に置くと両手で頭を抱え俯く。


「何度も夢を見た。ナイフで君の命の灯火を、じわりじわりと消していく夢を見たんだ。その夢はとても幸福で、僕にはもったいないぐらいのものだった。その夢だけで充分だったんだ。その手触りの心地良さだけが憧れだった。」


 鏡で亡骸を見つめる男の表情はみるみる青ざめて変わっていく。


「でも、僕は君といる間に変わってしまったらしい。僕は気付いてしまったんだ。いつものようにナイフを血で染めても、君への愛をまるで感じないんだ。陽の光を避け、夜に溶けるように生きてきた僕なのに、君が欲しがった永遠よりも、君と見た眩しい朝陽の方が今は鮮烈に、僕の記憶の中にはある。それだけが今ではもう悲しい。僕はどうも異常なようだ。」


 男は目から、ぽたりぽたりと悲嘆の雫が机を濡らしていた。


「どうやら僕は壊れてしまったらしい…。」


 机の上のゴシックナイフが血の味を覚えた頃、そこには深夜の静観さだけが漂っていた。


 朝になると男の部屋に、警察がやってきて事件は動いた。

 鑑識や解剖医の話からすると男女共に自殺だったようである。


 その他にも押し入れから腐敗処理された死体がいくつも発見された。

 床下からは遺棄されて何年も経つものもあったようだ。


 そして、押収されたナイフ達は男の手には小さい柄のものが多かったようだった。

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