第16話 イシルは巣立つ

聖女認定の儀の後の話。12話の頃の話です。



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「イシル、ここよ。いらっしゃい」

 木の上から声がする。大聖女エリアが次期大聖女イシルを呼んでいた。

 イシルも迷うことなく木登りをし、エリアが座っている大きな枝の横に腰掛けた。


 大神殿の奥庭に生えている大木がエリアのお気に入りだった。野原の中にぽつんと立ち、日がさんさんと当たっている。何本もある枝は、何人か並んで座っても問題ないほど太く、分かれた枝が座っている人をいい具合に支えてくれる。

 風がイシルの髪をもてあそんだ。


「大神殿には慣れた?」

イシルは乱れた髪を直しながら首を横に振った。

「毎日を過ごすだけで精一杯です」

 残ったおくれ毛を寄せて、エリアはイシルの頭を撫でた。

「あなたはよくやっているわ。がんばっているわね、イシル」

 イシルの瞳が潤み、パチパチと瞬きをした。



「ご両親に手紙は出したの? 次期大聖女に選ばれましたって」

「いえ」

イシルの表情がこわばった。


 エリアはイシルと両親の事情を知っていた。だがあえて話を出した。イシルが抱え込んだままなのはつらいだろうという配慮だった。


「両親は、妹ルルーとレティオール街に引っ越してから連絡をしてきません。私は両親のいるところを知りません」

『レティオール神殿に連絡すれば、手紙くらいつないでくれるとは思うけれど』

イシルは心の中で続けた。


「父と母は、コトーの家を出たときにわたしを捨てました。住むところも仕事もなく、頼る人もない状態でわたしを放り出しました。それまでわたしを家に縛り付けていたのに」

 イシルは目を瞑って頭を振った。エリアは黙って聞いていた。


「わたしは、いてもいなくてもいい存在でした。使用人でもなく、家族でもなく。いえ、給料を払わずに便利に使える使用人と考えていたのかもしれません。

 ルルーが聖女になってあの家を離れるのでなければ、わたしがコトーの家にずっと住んで両親の世話をし、ルルーは持参金をいっぱい持っていいところにお嫁に行く予定でした。その方がルルーは幸せになれるからって。

 わたしは労働力として当てにされていただけです……わたしの幸せなんて、一度も考えてもらったこと、ない」


 イシルの声はだんだんと小さくなり、涙がぽろぽろと頬を転げ落ちた。

 エリアはポケットからハンカチを出して、イシルの涙をぬぐった。そしてイシルの頭をそっと自分の肩に寄せた。

「がまんしなくていいのよ。言いたいこと、なんでも聞くわ。なんていったって大聖女ですもの」

 エリアはイシルの耳元でささやいた。


「わたし、ルルーがずっとうらやましかった。

 父も母も、ルルーのことだけ見てた。ルルーのことだけ気にしていた。

 わたしががまんしてがまんしてやっとお願いしたことは、わがままだと言われて叶えてもらえないのに、ルルーはちょっとしたことだって全部叶えられた。わがままなのはルルーよ。

 家のことだって、しろと言われるのはわたし。服だってルルーはわたしの何倍も買ってもらって、誕生会だってルルーだけ、プレゼントもルルーだけ。お小遣いもルルーだけ。

 それなのに、父も母も、プレゼントをくれるのはルルーだけだって言う。お金がないから綺麗な花を摘んでプレゼントにしたら、こんなものってゴミ箱に捨てられた」

 エリアは、イシルの髪をそっと撫でていた。


「わたしは愛されたかった。父にも母にも、おまえが好きだよと言って欲しかった。ルルーがいつも言われている言葉が欲しかった。

 一度も言ってもらえなかった。

 それでも、家族だと思っていたの。あの日まで」

 イシルの声は途切れたが、エリアはじっと続きを待った。


「みんながレティオール街に行くと聞いたとき、わたしも一緒だと思った。まさか放り出されるとは思わなかった。

 それでも、何か連絡がくると思っていたの。家族と離れたのは初めてだったから。父も家族は一緒にいるものだと、そう言って他の町の学校にわたしを出さなかったから。

 何もこなかった。戸締りしろと言われて、それっきり」


 イシルの口から、ため息が一つ漏れた。

「わたしは家族ではなかったの。父と母にとって、一緒にいるべき、心配すべき家族ではなかったの。

 そうわかったから、わたしは父と母に愛されることを諦めた。一人でフルプレヌ町で暮らし始めたときに」

 イシルの顔があがった。その瞳は涙に濡れていたが、強い光を放っていた。その目はエリアに向かっていた。


「ルルーから両親は変わりないと聞きました。

 わたしは父と母に心を寄せるのをやめます。わたしの居場所はここと、フルプレヌ神殿です。両親のところではありません。

 両親はルルーと一緒に生きていけばいい。わたしは、わたしが望むように生きていきます」


 笑顔になったイシルの涙に濡れた頬を、エリアはすでに濡れそぼったハンカチのましなところを探して拭いた。

「イシル、わたしはあなたのことが大好きよ。

 今からあなたは、わたしの娘よ。きっとわたしの子どもたちも歓迎するわ」

 エリアがイシルを抱きしめ、イシルの肩に顔を埋めた。

「大好きよ、わたしの小さな娘」



「エリアさまー、イシルさまー、お茶の用意ができました。降りてきてくだーい」

 エリアの侍女神官ミリアムが下から叫んでいる。

 野原には布が敷かれ、その上に小さなテーブルが置かれていた。

 イシルの侍女神官ジュリアは、テーブルの上の四つのカップに茶を注いでいた。美味しそうなケーキも添えられている。


 ミリアムもジュリアも、真っ赤に泣き腫らしたイシルの目を見ても、何も言わなかった。


「はい、手を拭いてくださいね」

ミリアムは木から降りたエリアとイシルに、濡れた布巾を渡した。二人はいたずらが見つかった子どものように首をすくめて、手を拭いた。



「二人ともあなたより大きいから、妹ができたってすっごく喜ぶわ。

 夫と一緒に工房で働いているの。とても素敵な銀細工を作るのよ。今度見てやって」

「え、いいんですか?」

「もちろん。休暇に一緒に行きましょう。みんな大歓迎よ」

 お茶のおともは、エリアの子ども自慢だった。それをミリアムもジュリアも、ニコニコしながら聞いている。

「ほんとに素敵に作品を作るんですよ。二人とも作風が違って、それもまた良くて。

 それにね、お顔も性格もいいんです」

 ミリアムはエリアの家族によく会っているようで、ミリアムの口からもエリアの子どもの自慢が飛び出していた。


 大神殿の建物に戻るときに、エリアはそっとイシルの目を右手で覆った。まだ少し腫れていた目は、大聖女の癒しの力ですっきりとした。

 エリアもイシルも、お茶の道具を抱えたミリアムもジュリアも、何事もなかったのように仕事に戻っていった。



 * * *



 エリアの二人の子どもは、新しくできた妹に舞い上がった。工房に遊びに行くたびに、猫可愛がりした。

 エリアの夫フェランは、職人かたぎの、口は重いが気持ちは優しい人だった。イシルが遊びに行くたびに、彼のとっておきらしい飴をこっそりと持たせてくれた。



 フルプレヌ町に戻れば、デザラ菓子店の夫妻がイシルを子どものように可愛がってくれる。町には学生からの友達も何人もいる。

 ノブルム神官夫妻もイシルに親身になってくれ、神官アリオとは、結婚の約束をしている。



 イシルは血の繋がった家族から独立した。もう家族として寄り添うことはない。

 代わりに、イシルを好きだと言ってくれる多くの仲間を手に入れた。その中には家族だと言ってくれる人たちもいる。


 イシルは、子どもの頃から欲しかった愛は手に入れられなかったが、それよりも大きい純粋な愛をいっぱい手に入れた。その人たちは、イシルからの愛も、しっかりと受け取ってくれるのだった。



 ~ 番外編1 終わり ~



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