第29話 引っ越し

 引っ越しの日程が決まり、それを長良に報告していた。


「来週ですか! あ……来週ですか…………」

「予定があるみたいだな」

「す、すみません…………」

「いやいや大丈夫。元から手伝ってもらおうと思って言ったわけじゃないから」


 長良はずっと前から引っ越しの手伝いをすると言っていたのだが、どうやら予定が合わなかったらしい。

 分かりやすく落ち込んでいる彼女に政木も苦笑いをする。


「場所はどこなんです?」

「前に一緒にここがいいって言ってたところだよ。長良の家からも近いだろ?」

「寒い時期は近いと助かります~!」


 そう言った彼女はストーブの前でのんびりみかんを食べている。

 猫みたいに丸まっている様子から見ても、寒さに強いとは言えなさそうだ。


「また引っ越しが終わったら連絡するから。間違えてこっちの家に来ないように」

「わたしはそんなポンコツじゃあありません‼ また子ども扱いして~」


 恨みがましく長良に睨まれた政木だったが、笑ってごまかす。


「でもこの家とももうお別れなんだな……」

「寂しいですか?」

「どっちかといったら楽しみかな。でもちょっとだけ寂しい気持ちもあるよ」

「じゃあ……一緒に住みます?」

「な、なんでそうなるっ⁉」

「冗談です冗談」


 からからと笑う長良。政木の顔は真っ赤だ。


 長良とこの家で過ごす最後の時間も、ドラマチックなことは何も起きない。

 ただいつも通り談笑しただけだった。





 政木が引っ越した先は、以前に住んでいたところよりもさらに都心に近づいたところだ。

 場所は長良の希望で山手線の駅近く。かつ『トリミングV』の事務所から近いところにした。


 2LDKで家賃は30万円。そのうち一室は既に防音室に工事済みである。


 1部屋は寝室。もう1部屋の防音室は仕事部屋。リビングは食事や客間になる予定だ。

 もちろんトイレとお風呂も別になっていて、マンションの6階にあるからセキュリティ面もほとんど心配がない。


「広いですね先輩!」

「さっそく来たな……」


 長良は引越しの次の日にはやってきていた。

 そしてすべての部屋を開けては確認をしている。何の確認なのかは不明だ。


「ここに住むんですね~。家賃30万って、独身にはなかなか手が出せない値段ですね」

「まあ家が職場みたいなものだからな。仕事道具をケチれん」

「相変わらず真面目ですね~……」


 腕組みをして頷く政木に、長良はあははと苦笑い。

 目の前にいる男がどうみても仕事大好き人間にしか見えなかった。


 長良は一通り講評を述べていくと、リビングに戻って「ふぅ」と息を整えた。


「じゃあ、わたしは一回シャワーを浴びてきますね」

「おう。……………………シャワー?」

「はい。いま結構歩き回って、汗をかいてしまったので」

「それで…………シャワー?」

「はいっ!」


 いや、そんな笑顔で言われてもな……と政木は思った。

 男女2人きりのこの空間で、女性にシャワーを貸すわけにもいかない。倫理的に……というよりかは常識的に。


「さ、さ、さすがにシャワーはやめたほうがいいんじゃないか? タオルを貸すから、それで汗を拭けば……」

「せっかくですからシャワーをお借りします!」

「い、いや、だから……」

「あ、お部屋を暖めておいてくださいね! 風邪ひいちゃうので!」

「…………」


 もはや何を言ってもダメそうだったので、諦めるしかなかった。

 せめてもの抵抗で政木は防音室に入り、外からの音も全部シャットアウトした。







「ふぅ、いいお湯でした~」

「すっかりくつろいでるよな……」


 長良は最初からお風呂を浴びに来るつもりだったのではないかと思うほど準備が良かった。部屋着の着替えを持ってきていたし、どこからか牛乳パックが出てきた。


 カーペットに寝そべってクッションを背もたれに牛乳を飲む長良。ホカホカと満足げだ。頬が緩んでいる。


 しかし政木が気になるのは長良の準備が良かったことではなかった。


 それよりも長良の格好――具体的には長良の部屋着。そのパンツの丈が短いのだ。


 膝から先は余裕をもって出ていて、太もももちらりちらりと顔をのぞかせている。真っ白な肉付きの良い太ももやピンクの綺麗に整えられた爪など、普段は見ることがないところまで見えてしまっている。


「ぼ、僕はそろそろ配信してこようかな~」

「じゃあ先輩のベッドでくつろいでいてもいいですか?」

「い、いいわけないだろ‼ 平然とボケで返してくるな‼‼」


 しかしすぐに進路変更。ゲリラ配信はまたの機会に。


 政木は食卓用の机に移り、長良と距離を取る作戦に出る。視界に入らなければどうということはない。

 だが長良も偶然、エアコンの熱風を求めて食卓の方までやって来た。政木の隣の席、ちょうどエアコンの風が当たりやすいところに移動してきた。


 その距離、ゼロセンチメートル。


「ち、近っ」

「うーんこっちの方が、暖かいは暖かいですけど」


 だが長良はまだ物足りないという顔をする。


「うーん、やっぱりこの格好じゃ寒かったですかね~……」

「あ、当たり前だろ! ハーフパンツに半袖って、冬の服装じゃないだろ‼」

「やっぱり先輩のベッドを借りてもいいですか? 布団にくるまりたいです」

「ダメなものはダメ! ほら、ご飯食べたらすぐ帰る‼」


 政木がかたくなに拒否すると、長良も面白くないのかぷくくくと頬を膨らませる。


「ダメなものはダメだからな」

「…………」


 政木がくぎを刺すが、長良は何かを考えている様子。

 それからパッと窓の外を指さした。


「あっ、あそこにUFOが!」

「そんな適当な嘘で注意を引いて、その隙にベッドまで行こうとしてもダメ」

「あっ、先輩の登録者15万人行ってる!」

「え、嘘⁉」

「今だっ!」

「あ、ちょっと‼」


 長良は一瞬の隙を突いて寝室に移動。ベッドにダイブして毛布を巻き取る。


 厚手の毛布に顔だけ出してくるまる長良。丸々と太った猫のようだった。


「おい、こら、出てこい‼」

「でーんでんむーしむし、かーたつむりー」

「お前はカタツムリじゃないだろ‼」


 それからしばらく問答を繰り返した政木と長良。

 結局出てきたのはご飯になってからだった。


 ……布団に長良の匂いがしっかりついてしまって、夜に悶々とさせられる政木だった。

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