鯨よりも深く

押田桧凪

 夏が来た、と知覚するのはいつどんな時だろう。風鈴の音が、心地よく聞こえた時。近所の家が打ち水で、玄関先の道を水浸しにしているのを見かけたとき。

 はたまた水道管が熱せられて、蛇口を捻ると、生温い水が出てきたとき。


 私は答える。


 海のにおいを嗅いだとき、と。



 ✤ ✤ ✤



 周りに広がる長閑な田園風景なんてくそくらえってカンジで、私はこの町が嫌いだ。

 東京の郊外。キラキラしたザ都会イメージの裏の顔。

 通学『路』とはお世辞にも言えない、あぜ道を、私は一人で歩く。


 だから、嫌。同じ小学校の友達は皆、公立の中学校に進学するっていうのに。教育熱心な両親を持った私は、同学年の中で唯一、中高一貫の私立中学に通うことになった。

 毎日、電車で片道1時間半かかる通学。それから、全く新しい人間関係。田舎から出てきた私は、学校ではスコシ浮いていた。

 一緒に帰る友達もいないし。


 愚痴はおりのように心の底に溜まっていき、毎日この道を歩くたびに再び、感情の対流が起こって。不満が湧き上がり、また愚痴る。その繰り返し。


 まっすぐに続く道を抜けると、綺麗に区画された住宅地が見えてくる。住宅地といっても、もともと山だった所を切り崩した、高台のような場所だ。まあ、あぜ道と違って電信柱が立ってるだけマシか。大切だよね、ライフライン。

 そう思いながら、いつものように帰っていると。


 ざざざ、と一瞬にして、その場の風が巻き上がり、螺旋を描くように、私の周りの落ち葉がくるくると回転し始めた。ざわり、と首の後ろがあわ立つ感覚が走る。


 ……え?


 大気を刳り抜いたような円柱空間が、地面から天を貫くように、屹立きつりつしはじめていた。そして、その中に、私は立っている。

 この円柱内には膜のような、薄い壁一枚で外界と仕切られた空間になっており、その範囲はおよそ私の半径2メートルといったところだろうか。

 それから、私は宙に浮いた。ぐわん、と不安定な体勢だからか、視界が揺れる。

 くるっ、くるっ。


 ───は、待って。どういうこと?


 まるで夢見るような浮遊感に包まれ───というか、実際に浮いているわけで。これが飛ぶ、という感覚なのだろうと自問自答した。いや。そんなことより、どうしよう。どうすんだ、これ。あ、あ……。


 ヒューヒューと風が足元を吹き抜けていく。下を見るのが、怖い。ただ、景色がいつもと違って、ジオラマ模型のように、家並みが小さく見える。言いようもない、底知れぬ恐怖がせり上がってきて、息が詰まりそうだった。


 あ、そうだ。私、高所恐怖症です。気付けば、足が震えている。うん、そんなの当たり前。そして、私は浮いている。……そんなの当たり前、な筈がない。


「ねえ誰か、助けてくれなさる? この天変地異ともいえる状況。神様、見てますか」


 俗世を知らぬ平安貴族のような、か弱い物言いが、思わず漏れる。しかし、残念ながら夕日の暮れなずむ、この時間帯は人通りがまばらであり、田舎なので通行人は当然ゼロ。私の周りには、誰も──。


「あ、猫」


 どこからやってきたのか知らないが、のこのこと、そぞろ歩きをしている猫が、私の前に姿を現した。ひどく眠そうな目をしている。

 ねこ、こい。心の中でそう念じながら、甘い声をかける。


「ねこちゃんっ、ハイ。きてきて、こっちこっち!」


 にゃっ。


 相変わらず猫と言うのは俊敏なもので、透き通ったつぶらな瞳をこっちに向けて、それを一度見開いたかと思えば、短く鳴いて逃げていった。空中に舞う、私を残して。


「ちょっと待って、逃げないでよ! 私だってイミわかんないんだから!」


 猫に対して愚痴る隙の、ほんの一瞬。恐怖に身を強ばらせていた、その緊張をふっと解くと。ひゅん、と。いとも簡単に、自由落下した。

 崩れ落ちた瞬間に、ゴリ、と鈍い音をして、コンクリに腰を強打する。


 っつぁ。つう。まさに、痛。

 切実に、痛い。


 ──いや、なんで?


 なんで、私はこんな痛い目に遭わないといけないの?なんていう、やり場のない怒りが込み上げてくるが。それをも通り越して、ただただ意味がわからなかった。私の身に起こった現象が、理解できなかった 。


 ──どうしてこうなった。


 なにこれ。クラスでも浮いてんのに、ガチで浮くのやめて。本当に。浮くオブ浮くみたいな。私が発生させたの? さっきのアレ。

 別に憧れてる訳じゃないから。中二になったからって、謎の力に目覚めるのやめてほしい。



 ✤ ✤ ✤



 翌日の学校での昼休み。

 昨日の忌まわしい記憶を振り切るようにして、私は平和な学校生活を送っていた。うん、今まで通り。大丈夫。給食を食べ終えてから、一息ついていると。


「ちえ〜、なんか用があるって人が来てるよ、たぶん違う学年のひと」


 背後から夏帆に呼ばれ、振り向く。

 あそこの女子、呼んでくれないって感じで、なんか聞いてきたんだけどー、ちえも知らない人だよね? と笑いながら訊いてくるのを、うん、と受け流し、私は視線を移す。

 廊下に面した教室の入り口から、ひょろりとした風貌の男子生徒が、立っているのが見えた。

 周りから異様な視線を向けられていることをうっすらと感じ、扉へと急ぐ。いや、知り合いじゃないよ、彼氏じゃないよ、と内心弁明しながら。


「はい。一重ひとしげ 千重ちえです」


 背は中ぐらいで、血色感のない白い肌。パサパサした唇。日陰で育った感じを全面に押し出した様なイメージ。


「あっ、突然ごめんね。はじめまして、だよね? 僕は模型部の部長の、遠嶋とおじま とうといいます」


 小さく、丁寧にお辞儀をして挨拶をすると、何かを察しかのようにポケットからハンカチを勢いよく取り出して。クシュンっ、と音を上げると同時に、その中に抑え込んだ。

 へへ、照れたようにと頭を掻きながら笑顔を向けてくる。


 模型部? 

 私は曖昧に首を傾げる。


「それで。何の用でしょうか」


 訝しく思い、どこか威圧的な聞き方になってしまったかもしれない。目線を少し下げる。


「うん。えっと、本題に入るのは、ちょっとここではアレだろうから……」


 私が廊下で男子と話しているのを気にしていると思ったのか、周りを見回して、気遣うようにそう言った。

 別にいいんだけどな。皆、男女が居合わせるだけで、冷やかして弄ぶほど頭がワルい子どもみたいな年齢じゃないし。きっと、そういうのは小学生まで。


「じゃ、放課後でどうですか」


 部長って言ってたから多分、先輩だろうと思い、一応敬語を使う。こちらから誘うような提言の仕方。なんだか、ぎこちない。


「ありがとう。えと、模型部の部室わかる? 吹き抜けになってるところ。B棟2階の生物実験準備室で待ってる」


 そう言ってから、じゃ、と手を挙げ、ふらっと立ち去っていった。



 ✤ ✤ ✤



 終始、浮世離れしたような雰囲気を纏う人だった。でも、とにかく遠嶋さんは──というか先輩は、初対面の印象としては、礼儀正しい、優等生といった真面目な感じがした。あの不健康そうな肌の色を除いて。


 それから、男子のハンカチ。

 うん、コレだけでポイント高いよね。


 女子力ある、っていうかさ。


 私のイメージでは小学校の時、男子たちは手を拭かずに「空気乾燥だよ」なんて言って、手を振っていた。単純にハンカチを持ってきていないからだろう。

 それ雑菌を撒き散らしてるだけだからやめなよ、と公衆衛生上の観点から至極真っ当な注意をしてあげたら、逆ギレされたことがある。私の中の、苦い思い出の一つ。


 でも今の時代、多様性だったり、ジェンダーニュートラルだったりが叫ばれてる中で、「女子力」って何? って感じだけど。 「主夫」っていう言葉もあるぐらいだし。例えば、英語でいうところの housewife は現在は、海外では死語になってる。homemaker というのが一般的だと、英語の授業の時、先生が言ってた。これも時代の変化。


 まぁ、そんなことは置いといて。


 最大の疑問──模型部。


 模型部って確か、去年の終業式の表彰台に立っていたような気がする。文化部としては異例の全国大会出場だったから、今でも鮮明に覚えている。たしか、ペットボトルロケットの大会だったと思う。


 そんな部長が、どうして私に。いろんな考えを巡らせながら、復習するように、先輩との会話の一部始終を脳内でリプレイする。


 そんなことをしているうちに、午後の授業はつつがなく終わった。

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