第23話 胸に……刻みました

 人差し指を突き立て、目の前に眠る少女の頬を押す。だがもちろん、その程度で目を覚ますわけもなく、少女の寝息は静かに続いていた。

 身長はあのクスタカ村の子よりは断然大きいが、ローゼよりは小さくて平均的。まとまりのないぼさぼさの長髪を見るに、あまり見てくれに気を使っているようには思えない。髪一本一本の毛先が四方八方に向いていて一貫性がないのを見るに、本気で手入れされていないのが予想できる。

 だが寝巻は別に汚れているわけじゃない。土埃を被っているわけでもなさそうだし、何より瘦せこけていない。身だしなみは及第点だが、貧困層の人間ではなさそうだ。


「ねぇるの……まだ……ふにゃ……」


 へなへなの寝言をほざきながら、幸せそうな笑顔を見せる彼女。その夢の中からの伝言は、まさに奇妙奇天烈なものだった。


「見つけたぁ……主人公……っはぁ……」

「……何言ってんだ?」


 いや、寝言に返事は縁起が悪い。やめとこう。


「————」


 その時、部屋のドアに小さな衝撃が二発加わり、静寂に新たな音が現れる。その衝撃は、ノックというにはあまりにも弱々しく、なるべくこちらを刺激しないようにという、ささやかな優しさが感じ取れた。


「……起きてる?」


 こちらの様子をうかがうその声音は、恐らく……いや、間違いなくローゼだ。どうやら、人任せにしちまった戦後処理は、一段落ついたらしい。


「あぁ、起きてるよ」


 変に負い目を感じてしまった俺の口調は、どこか生意気で調子づいた雰囲気を孕んでいた。まるでいじけた子供みたいで、情けないし恥ずかしい。これが退行現象ってやつか。


「そう……一つ、報告があって」

「…………何だよ」

「戦後処理、終わった。洗浄作業と被害は明日算出するって」

「……そうか。悪いな、手間かけちまった」

「い、いいの。気にしないで…………」


 話の用件は済んだ。だがローゼの気配は、まだドアの先に居座り続けている。やがてミシッという木材の軋む音が聞こえると、その気配が僅かに、本当に僅かにこちらに迫った気がした。

 五感の情報が音に限られた今の状況では、聴覚は限りなく鋭敏にはたらく。そのおかげか、軋む音と近づいた気配は、きっとローゼがドアに寄りかかったために感じたものだと、俺は結論付けることができた。


「……あ、あのさ」


 ほら、やっぱりまだローゼはそこにいる。


「ミルシアちゃん、無事だった。今は私の部屋でぐっすり眠ってる。いきなり知らない大都会にやってきた初日がこれだもん。そりゃあびっくりするよね。明日になって、やっぱり帰るとか言い始めるかも」

「…………」

「明日は仕事終わらせたら、すぐにミルシアちゃんの学徒申請に行きましょう。役所はてんてこまいかもしれないけど、とりあえず話だけ通しておけば、魔法学校に通えると思うから、一応ね」


 ローゼの話す内容には、特に深い意味はない。明日の予定を若干明るめに話しているだけだ。そんなこと明日の朝にでもできるし、現に今までの俺の扱いはそうだった。

 だが、ローゼの狙いはそこではない。問題なのは、まだ俺が寝ておらず、一日を閉じていない今だから、明日のことを話しておきたいのだ。まだやるべきことがあると、俺に自覚させるために。明日へと、俺を進ませるために。

 気が参っているからか、こんな時ばかり相手の考えていることが読めてしまう。都合のいい時だけ、誰かの言葉にすがろうとするのか。慣れ親しんだ人の言葉に頼るのか、俺は。


『————』


 その時、背中におぞましい殺気が走る。だがそれはもちろんまやかしで、存在しない俺の空想。この押し入れの女性の発見で忘れられていた認識の怨霊が、再び俺の意識に接触を試み始めたようだ。


「……なぁ、俺にあると思うか?」

「…………え?」


 とうとう聞いてしまった。俺はローゼに頼ってしまった。目の前の暗雲を取り払う手段を、他人に求めてしまった。自らで解決しなくてはならない致命的な問題の解決を、人に委ねてしまった。

 だけどもう、俺にはこうするしかなかったのだ。綺麗事を言っている余裕などなかったのだ。立ち止まるために降ろした錨を、誰かに引っ張り上げてもらいたかったの

だ。


「人の命が消える瞬間を覚えられない、守れなかったことも覚えられない俺が、この先どうやって人を守れる? 死の現実を受け止められない俺は、どうすれば騎士になれる? こんな、こんな俺が……」


 こぼれてくる言葉は不安の体現であり、脆弱な精神の表れ。今まで夢を追うばかりで、人の死に直面することを考えていなかった、ましてやその現実を忘れて逃げた男の、誇りも誉れも糞もない惨めな自分。これが俺の正体なのだ。ドア越しで姿を見られていないことが、唯一の救いだろう。


「…………」


 何度めかの静寂を享受する宿舎の部屋。再びその空間を震わせる権利を持つのは、ここではローゼだけ。

 俺はひたすら、幼馴染の返答を待った。


「……あのさ」


 数秒の間が挟まれる。


「私は、あなたの記憶を思い出させてあげることもできないし、どうしてあなたが覚えていないのかもわからない」


 申し訳なさが滲み出るローゼの声。こいつはいつもこうだ。何も負い目を感じる必要はないのに、そうして一緒に苦しもうとする。人の苦しみや悩みに対して、自分のことのように考えることができる。すごいやつだよ、本当に。昔と全く変わらねぇ。

 だけど、流石に今回は——


「——でも、私は信じてる。あなたが、人の死を忘れたくて忘れたんじゃなくて、もっと何か別の理由があることを。あなたが、誰かのために戦おうとしたことを」

「っ…………」


俺は全意識を奪われる。脳天に巨大な雷が落とされ、まるで戦斧に頭を切り分けられたかのような衝撃が走った。

 切り開かれて生まれた空間には、ローゼが俺に向けてくれた『信頼』の念が、優しく丁寧に注がれていく。絶望と後悔によって枯れ果てていた俺の心身に、静かに染み渡る。


 『信じる』


 たったその一言だけなのに、自然と涙が湧いてきた。


「だからさ……思い出せるまでは頑張ろう。それでもし、本当に人の死に耐えられないのなら、その時は任せる。苦しいなら見送るし、克服したいなら手伝う」


 ……驚いたな。俺がこんなにも薄っぺらい人間だったなんて、知らなかった。

 少し望みの言葉を言われただけで、こんなにも救われるなんて。何も解決してないのに、信じてくれるだけでいいだなんて。

 ありがとう、とは返せなかった。一度口を開いたら、もう耐えられない気がしたから。


「どう? 一応、解答にはなった?」

「…………あぁ」

 だから今は、嚙み締めておこう。この記憶を刻み込んでおこう。これだけは何があっても、絶対に忘れないために。


「じゃ、お休み。ハイム」


 そう告げると、ドアの向こう側に合った気配が遠のいていき、やがて完全に消えた。今回のローゼの魂の授業は、これにて閉講だ。

 今日はもう寝よう。明日は市街地の清掃だ。罪滅ぼしの欠片にすらならないが、一番頑張らなくちゃいけないのは俺だろう。全力でやってやる。


「で、問題はこいつか……」


 平静さを取り戻した俺の最初の関門は、この不審者の扱い、か。とにかく、まずは起こすか。寝起きで悪いが事情聴取と行こう。


「おいあんた。起きてくれ。おい」

「んにゃぁ、んんっ……ほへ?」


 とんだ阿保ずらをかまして、不審者が目覚める。


「あれ? もうこんな夜……で、ここはぁ?」

「寝ぼけてるのか? ここは『創天の騎士団』の宿舎だ。おまえがいていいところじゃねぇ」

「そうて……へ?」

「おいしっかりしろ。ここは『創天の騎士団』の宿舎で、俺はこの部屋に住んでいるハイム・ハルベリンだ」

「……………へ?」


 相当熟睡していたのか、全く会話が成り立たない。いや、目が大きく見開いてるから、話の大きさに驚いてるって感じか。


「いや、そんなに驚く話じゃねぇだ——」

「——ハイム・ハルベリン!」



 瞬間、静寂を破るハイパーボイスを放ち、不審者が立ち上がる。聴覚への強襲によって俺は僅かにスタンし、その一瞬の隙に俺の両肩を掴んだ。


『なっ——』


 完全に油断していた。こいつが何者かもわからないのに、胸の内にあった優しい感情に流され、メリハリをつけぬまま、無条件にこいつを信用してしまっていた。

 居合に負けたような感覚の中、俺は心の片隅に『死』を覚悟し、歯を食い縛る。

 ——しかし、勝者であるはずの不審者は、俺の前身を舐め回すように見ながら、何かぶつぶつと口ずさんでいる。


「短い金髪に細身の身体。口調に名前に組織名も記憶の通り。でも何で私の家に……ま、まさか明晰夢⁉ な、ななっ、ななななな、なら、ならならなら!」


 前例のない奇妙な恐怖を醸し出しながら、不審者の目はみるみるうちに輝き始める。物理的にじゃない。何かこう、内から伝わって来る感動というか、感激というか、そういうものが目に現れている。

 ……………………ん? 感動? 感激?


「おい、お前何を考え——」

「——ハイム! 私ずっとあなたに会いたかったんです! 紙とペンありませんか⁉ 夢の中でもいいので、サインして下さい!」


 どうやら事態は、俺の想像を遥かに超えたもののようだ。

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