後日譚 A子の恋愛日誌 1/3

ここまでのお話

 26歳のサラリーマン、畑中伸一は、ひょんなことから「捨てた人格」につきまとわれることになった。

 試行錯誤、紆余曲折を経て、それらを消すことに成功したが、たびたび出てきては日常をにぎやかにしてくれる。

 

**********

-12月第1金曜日 21時13分

-ビレ・パークサイド 715


 浴室の中に立ち込めた湯気が、ゆっくりと宙を流れている。

 湯船に浸かったA子は、頭を浴室の壁にあずけた。


 はぁ。


 ため息が出たことで、自分の陰鬱な気分を再確認する。

「なんでだろ……」

 無意識に出た言葉だった。


 出てしまったものは仕方ない。

 もう全部言っちゃえ。


「なんであんなの送っちゃったんだろ、私」

 初めて畑中先輩と遊びに行った日の夜、送ったメッセージ。

『今日は本当にありがとうございました。先輩として、また明日からよろしくお願いします』

 あの文面は、まだ残っている。

 何度も消そうと思った。でも、消せなかった。

 送って、翌日からは激しく後悔した。

 その戒めとして、残したいのかもしれない。

 あの日、ろくに周りを見ずに、人の足を踏んだり、ぶつかったり、注意力のない自分をフォローしてくれたのだと、今ではよくわかる。


 ずっと優しかったもんなぁ……

 でもあのときは、本当に怖かったんだよね。


 親しみを持っていた先輩が、デートまでしている先輩が、まるで別世界の人のように感じられた気がしたのだ。

 反社の男をにらみつけるだけで撃退し、その後わざわざその男が詫びに戻ってきた。


 あー……

 今思い出しても怖いな……


 ただ、その後職場で顔を合わせるうちに、その恐怖心は消えていった。

 そして、それよりも大きくなっていったのは。

「……好きなのかな」

 声に出ていた。

 一晩をともにしたことは、気持ちの裏付けにはならない。

「酔った勢いで」とは言わないが、「なんとなく素敵だな」と思っていた先輩への憧れは、「好き」とはまた違う。

 頭を浴室の壁に預けていたら、首が疲れてきた。


 だめだ、わからん。


**********


 あらかた髪を乾かし終わり、リビングに移ってスマホを手に取る。

 何となく開くTwitter。

 先日会社で先輩ふたりと話した、そう遠くない神社のアカウントは、フォローしていた。

 何となく、見たくなるようなツイートが多かった。特に、そこで働く人たちの写真は、なぜか見ていて落ち着く。

物捨ものすて神社』


 変な名前。

 捨てたいものを捨てられるとか、そういう御利益があるのかな? やっぱり


 アカウントの固定ツイートを見る。

『物捨神社の公式アカウントです。名前も言い伝えも変な神社に、ぜひ一度お越しください』

 言い伝え。


 このモヤモヤとかも、捨てられたら楽かな。

 場所は……畑中さんちの近くだ!


 性懲りもなく、顔を見たくなってしまった衝動は、見て見ぬふりをしておいた。


**********

-翌日土曜日 13時10分

-物捨神社 参道入り口


 入り口の鳥居はこじんまりとしているが、どこか異様な雰囲気を感じた。

 神社の名前がそうさせるのだろうか。

 敷地の入り口の石柱に、文字が彫られていた。

『物捨神社』

 よくあるタイプの神社ではない。


 そんなにたくさん神社を知ってるわけじゃないけど。


 車の走る音が聞こえてきた。

 乗用車ではない、トラックだろう。

 ゴォッ

 大きめの走行音とともにトラックが通り過ぎたときに、風が起こった。

 エンジンと風の音の中、乾いた音が近くから聞こえた気がした。

 何か、石が転がるような音。


**********


 参道を覆う木々は、美しいまだら模様の木漏れ日を作ってくれている。

 恐らく、多くの人が抱く感想は同じだろう。


 トトロのあの道みたいだな……


 木々のトンネルを抜けて、境内に出た。

 境内はきれいに手入れされていた。

 石畳の上に落ち葉はなく、砂利石は偏りなくならされている。

 正面には大きな建物がある。


 本堂って言うんだっけ?

 あれ? 本殿?

 まぁいいか、大切なのは、神様を敬う気持ちだ。


 そう考えて、手水舎ちょうずやで手と口を清め、散策を始める。

 おみくじやお守りが置いてあるスペースには、誰も立っておらず、案内板が出ているだけだった。

『ご用の方は社務所までお声かけください』


 まぁ、そういうものなのかな?


 神社という場所に足を踏み入れるのは年に数回だが、人がいないことに違和感は覚えない。過去、ほかの神社でもあったことだと思う。

 神社の由来について書かれている立札があった。

 近づいて、読んでみる。

『この神社は明治二年に創建されました。当時この地域の人々が、普通なら捨てない、いろいろなものを捨てる騒動が起こりました。記憶や思いやりを捨てた人もいました。その騒動の鎮静を願って建てられた神社です』


 ふーん。

 へんな神社。


 来る前から抱いていた印象が、いっそう強くなった。

 とはいえ、神社に来た以上、お参りくらいはしておきたい。

 拝殿に向くと、女性の後ろ姿が見えた。


 人いたんだ……

 気づかなかった。


 拝殿の前まで歩みを進めた。

 石段をのぼった先にいたのは、自分より少し背が低い女性だった。

 赤いショートコートに、長いグレーのプリーツスカート。

 賽銭箱の前で、神妙に手を合わせているのが、後ろからでもわかった。

 このまま彼女が立ち去るのを待ってもいいが、それではいかにも「あなたが邪魔だった」と主張することになりそうだ。


 まぁ、いいか。行っちゃえ。

 隣に立てないこともないし、話しかける必要もないわけだし。


 石段をのぼり、彼女の隣に立った。

「こんにちは」

 可愛らしい声で、話しかけてきた。

「どうも、こんにちは」


 どうしよ。

 話しかけられちゃった。

 あんまり得意じゃないんだけどな、こういうの。


 あいさつだけで終わるだろうという希望はすぐに砕かれた。

「よく来られるんですか?」

「いや、初めてで」

「小林香織です」

「A田A子です。よろしく」


 若いな。


「学生さん?」

「はい、K大の2年です」

「え、うそ!? 私行ってた!」

「え! 先輩ですか?」

「そうね。私24だから、在籍は重なってないけど」

 K大は国立で、全国レベルの知名度と言っていいだろう。

「香織ちゃん、でいいよね。よく来るの? ここ」

「はい、ちょっとご縁があって、よく来ますね」

「ご縁?」

「はい、その、親の世代から、ちょっとしたお付き合いがあって」

「へー! そうなんだ」

「あ、よかったら見ます? この神社のパンフレットに載ってるんですよ? そのルーツが」

「へー、すごいね」

「社務所の前に、パンフレット置いてるんですよ! 持ってきますね!」

「ありがと」

 小林香織が小走りで駆けていく。

 その後ろ姿を見ながら、ぼんやりと考えていた。


 ……いらないけどなぁ

 そうだ! 今のうちにあれやっとこう。お祈り。

 あれ? お参り?


 先ほど小林香織は手を合わせ終えたのだから、彼女が戻ってからそれを始めたのでは、彼女を待たせることになってしまう。

 財布を開く前に、決めた。


 よし。

 今日は一番高額な硬貨にしよう。


 財布を開き、500円玉が目についた。


 よし、500円行くか。

 捨てられるなら捨てちゃいたいし、こんな


「あれ? A田さん?」

 聞きなれた声に驚いて振り向くと、すぐ近くに畑中先輩が立っていた。

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