第2章 心理の考察

第6話 捜査資料

 佐木は開いた車の窓から、ゆっくりと流れる風景に向かって紫煙を吐き出した。隣の運転席には、ボディビルダーのような体格の良い男が座っている。野崎だった。

 Yシャツの襟やスーツの脇が若干きつそうな野崎に対して、佐木の白のYシャツと濃紺のスラックスはかなりダブついている。全くサイズが合っていなかった。

 通勤の車列の流れが少しスムーズになり、佐木のタバコもようやく最後の1本になりそうだ。僅か数キロをなかなか進めずにいたが、やっと目的地に近づいてきた。佐木は野崎に、その目的地の少し手前で止めてくれるように指示する。


「昨日に引き続き、ありがとうな。突然、無理言って悪かった」

「いえ。全く問題ありません。俺にできることだったら、いつでも何でも言ってください」


 野崎は涼しい顔で答えたが、昨日、佐木が彼に頼んだことは、コンビニにタバコを買いに行くお使いのようなものとはまるで違う。かなり面倒くさく、注意が必要な案件だった。それを完璧に、しかもスピーディにこなしてくれたことに、佐木は心から感謝していた。

 今日も、こうして朝から佐木の足代わりをした後、その案件のために野崎は時間を奪われることになる。それなのに嫌な顔一つせずに、さらに何でも頼んでくれとまで言ってくれるのだから、佐木からすれば野崎様様だった。


「頼りになるよ。あ、それからちゃんと報酬ははずむから。こないだも、かなり儲けたんだ」

「ああデイトレですね。それで生活できるんだから、ザギさんは本当に鼻がいい。でも、報酬は要らないです」

「いやいや、そう言わずに受け取れって」

「昨日も言いましたよ。俺は、あなたに報いるために生きると決めたんです。古臭いとか固いとか言いたければ言えばいいですが、金は受け取りません」

「でもなあ、ちょっとくらい」

「要りません」


 野崎は少しばかり眉間に皺をよせて、きっぱりと言った。

 昨日も、ほぼ同じ会話をした。野崎は穏やかな男だったが、頑固でもあった。一度要らぬと言ったら、どんなに宥めすかしても絶対に受け取らないだろう。

 以前から、野崎はいつでも自分を使ってくれと言っていたので、つい彼に頼みごとをしてしまったが、まさか礼は要らないと言われるとは思わず、少々困惑していた。


「俺はザギさんのお役に立てればそれでいいんです」

「……ったく、鶴の恩返しのつもりかよ」

「むさ苦しい鶴ですみません」

「全くだ。美女に化けて出直して来いってんだ」


 佐木が悪態をつくと、ほとんど無表情だった野崎がうっすらと笑った。

 やがて車はゆっくりと減速し、路肩に停車した。


「到着です」

「じゃあ、後はよろしく」

「はい」


 低音の返事に頷き、佐木は車を降りた。そして、黒のセダンが再び走りだすのを見送った。何も不安は無かった。全幅の信頼を寄せて、佐木は野崎に実働の全てを任せていた。





「遅いです! 20分の遅刻ですよ、佐木さん」


 のそのそと歩いて来た佐木に、鳥居がムッとした顔で言った。


「すみませんねぇ、俺が先について待ってると、ここの怖い人たちに声かけられちゃうでしょ? 違う部屋に連れて行かれたくないんで、わざと遅れたんだよね」

「違う部屋って、取り調べ室ですか?」


 鳥居は肩をすくめた。

 車を降りた佐木が、2分ほど歩いてやってきたのは、花師事件の特別捜査本部が置かれている警察署の前だった。

 今朝、近藤から呼び出された。解剖の報告書を見たいなら来いとのことだった。佐木は出向くことを渋ったが、書類の持ち出しはできないと言われては仕方がない。部外秘の書類を、近藤がこっそり見せてくれるというのだから、駄々をこねてはいられなかった。それで、せめて署の玄関前まで迎えに来てくれと頼んでいたのだった。


「てっきり、先輩が待ってると思ってたよ」

「近藤さんは、防犯カメラの映像をチェック中です」

「へえ」

「掲示板では何か新しい情報はありましたか?」

「無いよ。ってか、鳥居ちゃんはチェックしてないの?」

「防犯カメラのほうで手いっぱいなんです!」


 鳥居がギロリと睨みつけてきた。彼女は佐木に対してあたりがきつい。昨日の今日では、まだ不信感は拭えないようだ。


「なるほど、徹夜でチェックしてたんだ」

「……どうして徹夜だと?」

「昨日と同じスーツだし、しわ入ってるし、目の下に少し隈できてるし、お疲れの様子だから」


 鳥居はふんとそっぽを向いてしまった。

 署内は運転免許更新の手続きに来た人が列を作り、総合受付では茶髪の若い女性がスマホを落としたと言って悲壮な声で訴え、その横では紺のストライプの入ったスーツの男が早くなんとかしてくれと喚いていた。男は、こっちで話を聞くからと警官に連れられていった。また、カウンター越しに税金泥棒だの無能だのと罵る男もいた。相手をしている年嵩の警官の顔は、まるで能面のようだった。内心の怒りを押し殺しての対応なのだろう。


「盛況だね」

「通常です」


 年嵩の警官に、佐木は一瞬睨まれた。来署者の対応中でも、異相の人間に目がいくとは恐れ入ると佐木は苦笑した。そしてエレベーターの前で立ち止まった。奥の部屋に連れて行かれるストライプスーツの男の声がまだ聞こえてきた。

 そして、同じ方向へスマホを落とした女性が泣きながら歩いていった。落とし物を扱う会計課の方へ行くようだ。


「可哀想にねぇ。可愛いのに」

「気の毒だと思いますけど、可愛いは関係ないと思います」

「涙全然出てなかったけど、本当に可愛かったよ?」

「佐木さん、女性をジロジロ見るのはやめてください! いやらしいです!」


 ピシャリと言われてしまった。

 そしてエレベーターがくると、さっさと乗れと鳥居に目で威嚇され、距離を取られ、その後はずっと無言で近藤のいる部屋まで案内されたのだった。


「おはようございます」

「おう、来たか」


 こちらに背中を向けている近藤は、モニターから目をそらすことなく続ける。4分割された画面には、それぞれ別の防犯カメラの映像が映し出されていた。

 そこは、資料の入った段ボールやファイルが山積みになっている部屋で、近藤の他に人はいなかった。長机の上には、ノートパソコンが2台置いてある。部屋の奥には小さなソファがあった。近藤のスーツの上着と、外したネクタイが無造作にひっかけられていた。


「まったく、目がしょぼしょぼしてかなわねえ。一体どいつが花師なんだか……」

「写ってるとも限りませんしね」

「やる気を削ぐようなこと言うんじゃねぇよ」


 遺体発見現場近くの防犯カメラに、容疑者の姿が写っていることが考えられるが、今のところ収穫はないようだ。

 近藤は映像を一旦停止し、佐木を振り返った。


「お? 珍しくスウェット以外の服着てるじゃねえか。警察署だから気を使ったのか?」

「鳥居ちゃんの好感度を上げようと思ったんです。効果ないみたいですけど」

「お前が女の気を引こうとするなんざ、珍しいこともあるもんだ」

「とっくに三十路を過ぎた寂しい独り者ですからね、出会いは大事にしとかないと」

「私は心底興味無いんですけど!」


 勝手に肴にされた鳥居は仏頂面だ。彼女は、少し強引に近藤をキャスターチェアごと横にスライドさせ、隣の椅子を引っ張ってくると、パソコンの前に座った。停止された映像を再生させる。近藤の代わりにチェックをするようだ。


「鳥居は諦めろ。こいつは真面目でガードも固いからな。もう、かちっこちなんだわ」

「お二人ともいい加減にしてもらえませんか。仕事の邪魔です」


 鳥居の声は静かだったが、先ほどまでよりぐっとトーンが低かった。少しふざけ過ぎたかと、佐木と近藤は目を見合わせて苦笑するのだった。

 しかし佐木は放っておけず、鳥居の後ろから手を伸ばし再び映像を停止させた。


「何するんですか!」

「ああ、ごめんね。いや、俺のせいなのは分かってるけど、カッカしてると大事なもの見落とすからさ、コーヒーでも飲んできたら?」

「結構です! 佐木さんが黙りさえすれば大丈夫です」

「でもさ、ついさっきこの画面の端で自転車と歩行者がぶつかりそうになったの見えてた?」

「……え?」


 鳥居が慌てて巻き戻すと、左上の画面の隅で佐木の言ったとおり衝突しかけていた。結果としては何事も無く両者は去っていったのだが、こんな目立つ動きを見落としてしまったことがショックだったのか、鳥居は呆然としてしまった。


「ね? ちょっと休憩しといで」


 佐木が肩をポンと軽く叩くと、思い切り振り払われてしまったが、鳥居は黙って立ち上がり部屋を出ていったのだった。

 近藤がニヤニヤ笑いながら肩をすくめていた。


「やたら構うじゃねえか。本当に気に入ったのか?」

「そんな風に見えちゃいました? まあ、それはさておき、先輩見せてくれるんでしょう?」

「ああ、ほらよ」


 近藤は捜査資料のファイルを佐木の前に置いた。あとはご自由にどうぞ、とソファに腰掛けた。

 早速、佐木はファイルをめくり、ざっと目を通してゆく。


「4人目の被害者は、木島佳乃24歳、会社員」


 これまでの被害者の特徴を踏襲して、20代、細身で小柄、黒のロングヘアーで整った顔立ちだった。細いひも状のもので絞殺後、鋭利な刃物で首、四肢を切断。腸がほとんど取り除かれている点も、前回と同様だ。そしてこれもまた同様に強姦の跡はなかった。

 佐木は添付されていた写真を眺めて、ほおほおと一人で頷いていた。解剖中の写真を長机に何枚も広げて満足げに微笑んでいた。


「切断面、相変わらずきれいですねえ」

「はあ?」

「ほら、刺身も切り方一つで味が変わるって言うでしょ。切れ味のいい包丁で切った刺身は味もいい。職人だね。丁寧で、几帳面だ。自分が信じるものに対しては、常に真摯な態度で取り組むタイプ、なんてね。ここにも美意識が現れている」

「言いたいことは分かるが、食いもんに例えるのはやめてくれ……」


 近藤はげえっと舌を出していた。

 何をデリケートぶってるんだかと、佐木は鼻で笑ってさらに文書をみてゆく。


「ああ、なるほど。切り離した後に、更に断面をきれいに切りなおしているのか。そりゃそうか、骨もあるし一発でこうはいかなねえよな……こだわるねえ。ほお、腸を結束。なるほど、それなら腸管の内容物をぶちまけることもなくきれいに取り除ける……いやあ、丁寧な仕事してますねえ」

「執刀した小野田先生によると、回を重ねるごとに練度が上がってるってさ。で、ザギよ。お前さっき、きれいだって言ったよな」


 近藤が鋭く指摘すると、佐木は薄ら笑いを浮かべる。


「言いましたっけ?」

「とぼけるな。昨日も言ったが、お前が不正侵入してるってこたぁ、分かってんだ。前3件の写真も、もうとっくに見てるんだろうが。……ったく、悪趣味野郎が。絶対に流出させたり悪用すんなよ」

「お目こぼし、どうもです」

「花師関係の画像だけだろうな? 他の事件のデータや、警官の個人情報には手をつけんなよ」

「あ、そっちは全く興味ないんで要らないです」

「クソねじ曲りやがって」

「ホントに困ったもんですよねえ。妙な性癖に目覚めちまって」

「他人事みたいに言うんじゃねえよ」


 近藤は大げさに溜息をついた。

 佐木が遺体写真の収集を始めた頃には、彼が犯罪に関わっているのかと勘違いして、思わずぶん殴ったことがあった。

 非番の日に、アポなしで佐木の家に遊びにいった時のことだ。

 少々挙動不審だったので何をしていたのかと問えば、エロ動画を見ていたと言う。ふざけて見せてみろと、止める佐木を押さえつけてパソコンをいじったら、無残な遺体の画像が現れて度肝を抜かれたのだ。

 懇々と説教すると、佐木は殺人犯の心理を知りたいのだと言った。知ってどうすると尋ねたが、彼は淀んだ目をしてただ笑うだけだった。

 なんとなく察しはついた。佐木が懲戒免職になるきっかけとなった事件が、彼をそうさせているのだと。

 6年と半年前、ある男の無軌道な行為が、佐木の人生を暗転させてしまった。

 公務執行妨害と殺人未遂。それが佐木の罪状だった。

 近藤は今でも、あの事件さえなければと悔しさに歯噛みしてしまう。佐木の腕に手錠をかけた時の感触を忘れることはできなかった。


 近藤の視線の先には、鼻歌まじりでニヤニヤと書類と写真を眺める佐木がいる。

 かつての彼は正義感の強い、真面目な警官だった。幼女誘拐事件の話をしたのは、痩せ衰え生気を失っていった彼に、昔を思い出して立ち直って欲しいと思ったからだった。思惑どおり佐木は警官の顔に戻った。彼のヒントのおかげで、犯人逮捕にもつながった。鋭い洞察力や観察眼は失われていなかったのだ。

 その後も、捜査に少しでも関わることで生きがいを感じて欲しくて、何度か話を持ち込んだ。警察官としては褒められたことではないが、近藤は友人として彼を放っておけなかったのだ。

 しかし今回ばかりは、近藤は少し不安だった。

 佐木は気力を取り戻しているし、捜査にも協力してくれる。事件解決に向けて真剣に取り組んでいる。だが佐木は、近藤の知らない顔を隠しているような気がしてならなかった。

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