第36話「よかったら」

「今日はよかったら私たちと同じホテルに泊まらないか? その間に、準備をすすめられるから助かるんだが」


 とリチャードは提案した。


「ホテルですか?」


 礼音は驚いたものの、


「わかりました。お世話になります」


 すぐに彼の厚意を受け取る。


(断っても押し切られそうな気がする)

 

 という直感に従ったのだ。


「やったわ! ディナーもいっしょね!」


 とエヴァが手を叩いて喜ぶ。


「ディナー?」


 彼女の言葉が引っかかり、礼音の心にいやな予感が走る。

 ドレスコードなるものがあるらしいとは、彼も耳にしたことはあった。


「俺、服なんて持ってないですよ?」


 念には念をのつもりで、礼音はおそるおそる言ってみる。


「貸せる服くらい持っているから、何の心配もいらないよ」


 リチャードはおだやかに微笑む。

 ドレスコードに関して否定はしなかったので、彼はやはりかと思う。


 うれしそうにニコニコしているエヴァを見て、行くのはやめたいとは言い出せない。


「テーブルマナーとかも知らないんですが」


 それでもできないことをできるとは言いたくなかったので、礼音は申告する。


「ワタシだって日本のマナー知らないんだから、お互いさまじゃない?」


 とエヴァは言った。


「そうだな。個室にすれば気兼ねはいらないだろう」

 

 リチャードはうなずいてスマホで指示を出す。


「個室? そんなのがあるんだ?」


 礼音はエヴァに聞く。


「ええ! 静かでゆっくり過ごせるステキな空間だったわ!」


 彼女は経験談を語る言い方をする。


「そうなんだ」


 礼音は利用したことがあるのだと解釈した。

 同時にすこし気が楽になる。


(三人しかいないならまだいいかな?)


 と思うからだ。


 自分だけできないとなると気後れしてしまうが、アメリカ人の祖父孫も日本のマナーに精通しているわけじゃない。


 つまりお互いさまだと割り切ることができる。


(いつの間にかふたりとも通訳なしで、俺と日本語で会話しているわけだが)


 と内心引っかかる点はある。

 だが、気にしはじめたらきりがないだろう。


 【アルカン】に初めて行く前の自分に言っても、とうてい信じないような展開が目白押しなのだから。


「個室を三人で抑えておいたよ。部屋も私たちと同じ階の別の部屋でかまわないね?」


 とリチャードが確認してくる。


「ええ」


 ダメだと言っても無駄な気がしているので、礼音は素直にうなずく。

 それにひとり違うフロアに放り出されるよりは、安心な気はする。


 何かあれば相談にいける距離に知り合いがいるというのは、礼音にとって大きなことだった。


「ではこれからホテルに移動しないか? 服のこともあるしね。手に入れづらいサイズじゃないとは思うのだが」


 とリチャードは話す。


 たしかに礼音は日本人として平均的な体格なので、合う服が調達できないという心配はいらないだろう。


「そうですね。どんなホテルなのか、興味はありますよ」


 と礼音は微笑む。

 そしてホテル暮らしに興味を持って、ネットで検索した経験を思い出す。


(まさか本当にそんなホテルに泊まる日が来るなんてな)


 と我ながら信じられない。


 もちろんホテルで暮らすわけじゃなく、新居に荷物が運び込まれるまでのつなぎに過ぎないのだが。

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