chapter.4

 この世界で目覚めた瞬間から各々が数本所持していたアンプル――鮮やかなオレンジ色の液体が入ったアンプルが、頑丈な注射器の中にセットされたもの。ボールペン程度のサイズで、先端を軽く捻ると中でアンプルが開封されると同時に、注射針が出る仕組みになっている。

 これまでは誰に何を言われるでもなく、おおよそ三日に1本のペースで皮下に注射していたが、カタルの言葉で思い返してみれば、飢えや渇きという本能に従って、このアンプルを漫然と使用していた事実に気付かされる。


「そっか。あたしたちがご飯を食べなくても元気だったのは、この注射のおかげだったんだ……。でも、なんで今になって支給を止めちゃうんだろう、誰が送ってくれるのなのかも分からないけど……」


 カタルに続いて、アルコが途方に暮れた調子で話す。

 これまでは、この拠点にしている映画館のロビーの入り口付近に、不定期に人数分のアンプルが数セット届いていたのだ。どこからともなく、誰からも分からないままに。それがこのスクリーンに映し出された更新内容によれば、現在の手持ち分が貴重な最後になるという。

 これまでの状況から、たった数ミリリットルの小瓶の中身が、自分たち生命維持には欠かせない重要な物質であることは間違いなさそうだ。そうなれば、この先に起こることとして考えられることは自ずと限られてくる。


「おそらく、今後は他ユニットとアンプルの奪い合いになるだろう」


 ジンリンがそう口にすると、カタルの顔色がますます悪くなった。

 ヨウはアンプルの残数を確かめるべく、ジャケットの下に隠れていた簡素なウエストポーチに手を入れる。そこには5本のアンプルといくつかの小道具が入っている。


「俺は今、残り5本持ってる。それと最後に打ったのは昨日だ。それは全員同じか?」


 確認のためのヨウの問いかけには、その場にいる全員が首を縦に振る。ポケットから1本のアンプルを大切そうに取り出し、透き通ったオレンジ色を見詰めながら、ヨウの言葉を引き継ぐようにカタルが続けた。


「残り5本……、単純に考えてもう二週間分しかない。なんでこんなことになってんだよ……、俺たちもとは普通に飯食って生きてた筈……だよな?」


 カタルの言う通り、自分たちは食事という行為を知っている。食べ物の知識もある。しかし、その場にいる全員が、何かを食べたり飲んだりした記憶を掘り起こそうとすると、やはり深い霧がかかったように思い出すことができないでいた。

 対照的に、これまでの探索で食料となりそうなもの、またはアンプルの代替品となるようなものが、何一つとして見つからなかったことは明確に思い出せるのだった。


「どうしよう、食べられそうなものもないし水もない。アンプルを使い切る前に、中央区域の『扉』に行けるのかな。というか、みんな行きたい場所は一緒なんだから、出会ったら絶対にアンプルだって奪い合いになるよね……」


 謎と混乱が重なるばかりの混沌とした状況に加え、生命維持の危機という問題が三人に重くのしかかるが、その重圧を理解できなかったらしいジンリンが、いとも簡単に解決策を口にした。


「アンプルは、他ユニットを倒して確保すれば問題ない。中央区域にあるという『扉』も、その向こうを知ることができるのは、他を制圧した者、またはユニットのみだった筈だ」


 何を動揺することがある、とジンリンが問う。今の彼女に感情の動きは見られないが、カタル、アルコ、ヨウ、と順に視線を向けて淡々と語る様は、まるで不可解なものを見詰めて観察するような印象を与えた。

 確かに彼女の言うことは正しく、最も合理的だった。現に、他から奪うことこそが、この世界で生き残る唯一の方法に思える。


 何からくるものか分からない抵抗感を覚えつつ、気が乗らないまま提示された正解にカタルとアルコが頷こうとしたその時。ヨウが腹の底からはっきりと応えた。


「俺は他から奪いたくないし、殺したくない」


 ヨウの濃い青の瞳が、光を灯さないジンリンの黒曜の瞳をまっすぐに捉える。アルコが意外そうにヨウを見るが、そこには幾分かの安堵も含まれているようだった。


「いや、気持ちはわかるけどさぁ……」

「非合理的で、目的に反する発言だ。なぜだ、ヨウ」


 どうしようもない状況でぼやくような、そして諦めろとでも言うような語調でカタルが口を開きかけるが、聞こえているのかいないのか、遮るようにジンリンが問いを重ねる。


「後味が悪いからだよ」


 思うままに、感じたままに答える。


「……よく分からない返答だ」


 彼女は少しの間をおいて、ヨウの言葉を吟味しているように見える。その間にヨウは付け加えて話す。あの時、自分の体の内で突如起こった変化、感情の芽生え。心が動くままに考えを話すことは難しいことではないように感じた。


「まずは中央区域に行って、『扉』がどんなものか確かめるのが何よりも先だろ。地図を見る限りそう遠くもなさそうだ。どんなものかも分からないもののために、誰かをわざわざ殺すのか?」


 ヨウの説得に答えを持たないジンリンは、何も答えなかった。当然、同じ状況下にあるジンリンにも、『扉』が具体的に何を指しているのか分かっていないからだ。

 アルコとカタルも黙ってなりゆきを見守っている。一方はやはり何か言いたげに、もう一方は心配そうに眉を下げて。


 少しの間落ちた沈黙を、先に破ったのはジンリンの方だった。彼女はシートから立ち上がり、代わりにそこへ手にしていたリモコンを置くと、静かにヨウの前まで進み出てきた。瞬きを感じさせない人形のような瞳に、スクリーンの光と共にヨウが映り込む。


「我々の目的は他を制圧し、『扉』を開き、その向こうへ行くことだ」

「同じだよ。俺も『扉』を開けて向こう側へ行く。余計なことをせずに、最短距離でな」


 そうだ、殺しはしたくない。誰かの命を奪いたくない。なぜ今になってそう思うのかは分からないが。

 アルコと向かった探索の途中、襲ってきたあの男。あの大きな男を倒す先を視た時、命を奪うことは手順に組み込まれなかった。今になって、それが「自分」なのだと少し理解することができた。


「お前の言う『余計なこと』の定義が曖昧だが。いいだろう、戦闘を回避し、『扉』の確認を最優先とする」


 これまでとなんら変わらない調子でジンリンが頷いた。


「ヨウの言う通りかもね。アンプルの残りがこれだけ、って考えると不安だけど、その前に『扉』が何なのか調べないと。私たちの目的は『扉』なんだから、アンプルを奪い合うより先にやることあるよね」


 アルコはどこか自分に言い聞かせるように言って、何度か頷いてから、ヨウとジンリンを交互に見比べて小さく笑った。その傍にいたカタルは、握っていたアンプルを再びポケットにしまうと、不満げに、渋々といった様子で一応の同意を示した。


「俺も殺されたくないから賛成だけど、そうも言ってられなくなったらどうするんだよ……。やる時にはやらねえと、俺たちだって命かかってんだぞ?」

「そういうのはやる時に考えればいいだろ」

「それじゃ遅ぇっていうか!お前!そういうのをヘリクツって言うんだよ!多分!」


 呆れたように話すヨウが気に入らなかったらしく、その鼻先に人差し指を突き付けて抗議する。しかし、思わずといった様子で笑みを溢したアルコに毒気を抜かれてしまったのか、結局カタルはむっつりと押し黙った。

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