アンラベルオペレーション

羊野ruth

chapter.1

 雨を孕んだ鈍色の雲を敷き詰めた空の下、二人の男女の影が行く。




「ヨウ、まだ先へ進むのか」




 朱色の髪をひとつに結わえた少女が虚空を見詰めたまま、なんの抑揚もない声で機械的に数歩先を行く青年に訊ねた。




「ああ。こちらの方はまだ誰も手を付けていないエリアだそうだ。見たところ禁止区域でもない。地形を確かめておきたい」




 ヨウと呼ばれた青年が足を止め、少女を振り返る。しかしやはりその目は相手を映していない。一面灰色の瓦礫に囲まれた辺りの光景を映すだけで、応じる言葉には一切の感情も込められなかった。砂埃を含んだ風に吹かれて埃っぽくなった黒髪が視界に入らないよう、ヘアバンドを軽く上げなおした。




「アルコ、行くぞ」


「了解した」




 アルコが頷き、人間味のない単調な会話を終えれば、二人は再び歩き出す。






 このボックスヤードと呼ばれる世界で生き残り、中央区域にある『扉』に到達しなければならない。


 ボックスヤードで覚醒した者たちには、ユニットを形成し他者と協力関係を結ぶことが許可されている。


 『扉』を開き、その向こうに何があるのか知ることができる者は、他を制圧し、『扉』に到達した者またはユニットに限る。




 ヨウに与えられていたものは、実にシンプルな情報と、数本のアンプル。そして、このアルコという名の少女を含めた、四人の戦闘員。


 こことそう変わらない廃墟と化した建物の傍で目覚めたその瞬間から、脳内に刻み込まれていたこの世界――ボックスヤードと、『扉』に関する情報は、その場に居た全員に共通した認識としてあった。無作為に選ばれ、配置された五人。




 一人、ユニットで動く方が何かと利便性がよいだろう、と言い出した者がいた。それに反対する者は一人としておらず、初対面にも関わらず、その場の全員同意の上、同じ場所で目覚めた者同士で協力関係を結んだのだ。


 用意された戦闘員と協力し、他を制圧し、中央区域を目指さなければならない。そこにあるという『扉』を開けて、向こう側に行く必要がある。その目的のためだけに、来る日も来る日も、どこにあるかも分からない中央区域への手がかりを掴むための探索と、時折遭遇する他ユニットや戦闘員との小競り合いを続けていた。






「ヨウ、誰かがいる。一人だ」




 しばらく進んだところで不意に、変わらない調子で、アルコが再び声をかけてきた。乾いた空気に生臭い匂いが混じり、ここへきて相手がその殺意と気配を隠す気がないことも分かった。




「どこにいるか分か――」




 言い終える前に、真横から瓦礫を薙ぎ倒し派手な音を立て、大柄な男が二人の間に割って入ってくるように襲い掛かってきた。手にしているのはジャックナイフ。アルコに向けてその刃先が振るわれるのを見て、咄嗟に彼女の腕を引いてその体を突き飛ばした。




 次の瞬間。


 脳髄から体の外側へ向けて放たれるような強烈な耳鳴りに思わず身震いした。そして、暗い水底から頭の中身を掬い出されるように感覚が鮮明になる。彩度の低いボックスヤードの光景に生々しい色が付いた気がした。


 砂埃で汚れた手に握り締めた、同じく埃っぽく薄汚れたバールのようなもの。違う、これは最近スタジアムの跡地で拾ったホッケースティックだ。




「……ヨウ、危ない!」




 耳が拾ったのは、切羽詰まった女の子の声と、勢いをつけて駆け寄ってくる重い足音。


アルコのそんな声は聞いたことがなかった。素早く視線を持ち上げると同時に、鋭い風圧が鼻先を掠った。寸前のところで目の前の男が振り上げたナイフが通り過ぎていったらしい。




 処理の追い付かない脳みそを抱えながら、二、三歩後ろへたたらを踏むが、なんとか体勢を立て直し、妙に手に馴染むホッケースティックを握り直した。


 浅黒い肌に所々血で汚れた迷彩服を身に纏ったその男は、全ての感情を削ぎ落した表情でジャックナイフを構えている。ただ標的を殺すことだけを目的として、今か今かとそのタイミングを窺っているらしいことだけが分かる。この男も『扉』を探しているはずだが。




 アルコの様子も気になるが、今すべきことはひとつ。まずは目の前の敵を確実に倒すことだ。


 すう、と深く息を吸い込めば、当たり前のように膨らむ肺と、まだ戸惑っている脳に酸素が十分に巡る。冴えわたる感覚がこれから起こる戦いの手順を見せてくれる。




 まずは一歩、踏み出すと同時に砂利を蹴り上げ相手の視界を潰す。


 二歩、向かって左側。相手の右手に握られたナイフを叩き落とすべく、次を踏み出す前に間抜けな程にカラフルなスティックを振り上げて見せる。するとガラ空きになった腹を狙って負けじと突進してくるだろう。


 三歩、地面を蹴って相手の横面に蹴りを入れてやる。目をやられ頭を強く揺さぶられた男はそれでもナイフを手放さない。見た目を裏切らない程度のガッツはあるが、その手からナイフを叩き落すのは簡単だ。


 振り上げた足が地面に着地するより先に、自分の武器のリーチを活かし手首を叩けば、容易にナイフを落とすことができるだろう。




 一秒にも満たない時間、しかしイメージを見て理解するには十分な時間。


 相手のブーツを履いた足がギリ、と砂利を踏み付け今にも駆け出そうと力を込める。


 時が動き出す。




 一歩、踏み出すと同時に足元の砂利を蹴り付ければ、男は野太い悲鳴を上げて目の痛みに仰け反る。握り締めたナイフを狙って、その隙に二歩目を行き、ホッケースティックを振り上げるが、雑に拭った視界の中でもがく男は、殺意を込めたジャックナイフをこちらの腹を目掛けて突き出してくる。まったくイメージ通りだ。


 上体を捻りナイフの切っ先を軽く躱してやれば、三歩目。地面を蹴って飛び上がり、体の捻りを勢いに加えて、いかつい横面に回し蹴りを食らわせる。男はよろめき呻き声を上げながら後退するが、このチャンスを逃す訳にはいかない。


 辛うじてナイフを握っているその太い手首目掛け、握り締めた派手な棒を薙ぎ払えば、鈍く痛々しい音を立て直撃し、銀色の刃が地面へと叩き落された。乾いた金属音がその場に響く。




 男は痛みを堪えながら、咄嗟に取り落としたジャックナイフを拾おうと手を伸ばす。しかし、それより先に地面を踏みしめた足で刃を遠くへ蹴飛ばすと、手にすることは叶わない距離まで弾かれた。


その未練たらしい敵の動作の隙を突いて、最後に一撃、後ろ首へ叩き込んでやると、男の大きな体が前のめりに崩れ落ちた。






 敵が気を失い動かなくなったことが分かり、急襲が終わると、そこでようやく辺りへと目を遣ることができた。


 今にも雨の降り出しそうな鈍色の下で、同じ色をしたコンクリートの欠片を寄せ集めた小山がそこかしこにあり、原形を留めない程に崩れた建物の跡がいくつか目視できる。乾燥した空気の流れが、時折足元で軽い砂埃を運んでいく。




 ガラ、と何かが崩れる音がしてそちらへ目を遣ると、守るためとは言え、強く突き飛ばしてしまったアルコがいた。彼女は、くすんだ曇天の下では眩しいと感じる色のポニテールを揺らし、瓦礫の山を身軽に飛び越えてやってくる。安堵と困惑の入り混じった表情でこちらを見上げるその様子から、彼女もまた、自分と同じ状況なのだろうとヨウには分かった。




 数分前の自分たちと、今の自分たちは何かが変わった。




「ありがとう、……怪我してない?」


「大丈夫だ、アルコ。悪かったな」


「ううん、私は頑丈だから」




 確かめるよう口にしてみたが、なぜこの少女の名前を知っているのだろう。自己紹介をし合った記憶はない。この世界で目覚めたその瞬間から、最初から知っていたのだ。


 胸の内に奇妙な違和感がじわじわと広がる。それは漠然とした不安にも似ている。つい先程までは微塵も感じていなかった、言い表し難い変化が浮き彫りとなってくる。この変化はなんだ。




 いつの間にか視線が地面へと落ちていたらしいが、顔を上げ、まずは目の前の彼女に訊ねてみることにした。




「アルコ、俺たちは何をしているんだ?」

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