第5話 悪魔に魂を売る
新入社員達が寺で座禅を組んでいる頃、菊軽はデスク上で頭を抱え込んでいた。
――今までと同じ人数だと販売にこぎつけるまで三年以上はかかる。
――格樹さんに報告しよう。
菊軽は立ち上がり、同じオフィス内にある格樹のデスクに向かった。
「格樹さん」
菊軽は格樹に話し掛けた。
菊軽に限らず、この会社では格樹の事を「格樹さん」と呼ぶ。
父親である社長も同じ苗字なので、苗字で呼ぶと失礼に当たる。
そこで、下の名前で呼ぶのだが、必ずさん付けで呼ぶ。
社長の息子なので、丁重に対応しなければならない。それは、役職や年齢が上の者でも変わらない。
格樹の事を呼び捨てにできるのは、社長くらいのものである。
「何でしょうか? 部長」
「新作の開発期間について算出してみたのですが、三年はかかります」
「今までの調子ですと、そんなものでしょうね」
「そんなものでしょうねって……」
菊軽は絶句した。どうやら既に想定済みらしい。
格樹はパソコンを操作して、インターネットブラウザを立ち上げ、社内のイントラネットにアクセスした。
そこで、会議室の予約状況を確認する。
「部長」
「はい」
「今、会議室には予約が入っていないみたいですし、社長も交えて一緒にお話ししましょうか」
春の暖かい太陽の光が差し込む会議室。
その中央にある二つの長い会議机が、長辺を合わせてくっついている。
それらの机を囲むようにして、社長、格樹、菊軽がオフィスチェアに座っている。
社長が奥側、格樹と菊軽が入口側である。
「なるほど、これだけ工数がいるのか」
「はい、今まで通りですと間に合いません。かと言って、間に合うように人を大幅に増やすと予算に無理が生じます」
菊軽は重々しい口調で社長に報告した。
「その事についてだが、エヌデストウルに依頼して、できるだけ多くのスタッフを集めてくれ」
社長が菊軽に指示を出した。
エヌデストウル(N社)はD社の下請け企業であり、現在も何人かのスタッフが、ここに常駐している。
主な業務内容はプログラミングやCGの作成、デバッグ、テスト等である。
N社は請負であり、派遣ではないので、仕事を依頼して、その成果物――プログラムやCG、テスト結果等――をD社が受け取るのが基本的なスタイルである。
「わかりました」
――丸投げとは言わんが、N社に大量の業務をお願いする事になるのか……
菊軽は眉を八の字にして、ため息をついた。
「ついでに後もう二つ」
「何でしょうか、社長」
「一つは、できるだけ人件費を抑えること」
「……はい」
N社にますます申し訳ないと菊軽は思った。
「それと、もう一つについてだが……」
社長は何やらもったいぶっている様子だ。
「エヌデストウルのスタッフに直接、業務の指示をしても構わん」
「な……」
菊軽は絶句した。
――これは違法行為では?
社長が言っている事は、偽装請負であり、これは菊軽が思っている通り、違法行為である。
なぜ、違法なのか。
理由の一つは、本来、請負だけで完結しなければならない業務を、クライアントがあれこれ指示する事によって、使用者の責任があいまいになってしまう事。
これによって、労働者の雇用や安全衛生等の面で、まともな保証ができなくなってしまうのだ。
例えば、クライアントの口出しが原因で請負労働者が事故を起こす場面を想像してみるといい。
請負労働者からしたらたまったものではないだろう。このような事が原因で、クライアントと請負の間でトラブルが起こり得るのは、言うまでもない。
違法である理由は他にもある。本来、派遣として扱わなければならないところを請負にする事によって、労働者の給料が不当に安くなりかねない事である。
派遣の場合、労働力に対して対価が支払われる。
一方、請負は成果物に対して対価が支払われるので、残業代という概念が無い。
なので、請負と称する事によって、残業代を支払わずに働かせる事ができてしまうのだ。
社長の狙いは、これだろう。他にも請負労働者を自由に動かす事で、効率化を図る狙いがあるかもしれない。だが……
「社長、いくら何でもまずいです」
「違法だと言いたいんだろ? 有名な自動車メーカーや電機メーカーでもやっている事だし、某所にある通信研究所群に至っては、やりまくりだぞ。別にいいではないか。こうでもしないとやってられん」
社長が強い口調で言うと、菊軽は心の中で、本当にそれでいいのだろうか、と思いつつも、「……はい」と弱々しく答えた。
――悪魔に魂を売らなければならないのか……
菊軽は、ますます暗い気持ちになった。
「ところで、格樹」
「何でしょうか、社長」
「お前は、今言った事も想定していたのかな?」
「だいたいは想定していました。けれども、今おっしゃった内容からしますと、思っていたよりも少しばかり厳しいのかな、と思いました」
「そんなところだろうな。これからは、もっとしっかりやれよ」
「はい」
菊軽は「何が少しばかりだ。違法行為に手を染めなければならない時点で既にやばい」と心の中で言った。
企画開発部のオフィスにて、菊軽はデスク上にあるパソコンのキーボードを叩き、N社宛てにメールを打っている。
内容は企画開発部に常駐する人材の募集である。
D社の下請けであるN社はIT企業。主な業務はソフトウェア開発である。
様々なIT企業の下請けを担っており、依頼された様々な成果物をクライアントに収めている。
自社内で業務を行う事もあれば、他社に常駐して業務を行う事もある。
そんなN社のオフィス内のデスクにて目を丸くしている者がいる。
鼻の下に
ソフトウェア開発部マネージャーの
「これだけの人数をよこせと? 工数、多すぎないか?」
菊軽からのメールを見た鍋見は驚きを隠せない。今までとは明らかに規模が違う。
「単価、安くないか?」
今までと比べて妙に安い単価も気になる。
「安い値段で沢山働かせろという事か……」
鍋見は、ぼそぼそとつぶやきながら腕組みをした。
N社はD社の企画開発部に六人の常駐スタッフを送り込んでおり、鍋見は彼らの管理をしている。例えば、勤怠管理や人材の調達等である。
D社に常駐しているスタッフだが、六人全てがN社の正社員というわけではない。
六人の内、N社の正社員は二人だけで、残りの四人はテキヤシース(T社)という会社の社員である。
T社はIT系の人材派遣会社であり、主にシステムエンジニアを他社に派遣している。
人材派遣には登録型派遣と常用型派遣の二種類がある。
登録型は、派遣会社にスタッフとして登録、相応しい派遣先を探してもらい、派遣先が決まったら、そちらに赴いて就業、仕事がなくなったら解雇され、再び仕事を探してもらう、というスタイルである。
派遣といえば、多くの人が、この登録型を想像するだろう。
常用型は、派遣先を探してもらい、決まったらそこに派遣されるという点では同じだが、派遣元に正社員か契約社員として採用され、派遣先の仕事がなくなっても、派遣元に社員として雇用されたままの状態で次の派遣先を探してもらう、という点で異なる。
選考をクリアし、社員として採用してもらうというハードルがある分、常用型の方が登録型と比べると条件がいいように思える。
しかし、常用型の場合は思うように派遣先を選べない、似たような職場で似たような業務を続けるので昇給が見込めない等のデメリットがある。
常用型は派遣先の仕事がなくなっても、派遣元での雇用が続くのだが、仕事が見つからない場合はどうなるのか。
この場合は待機となる。自宅待機か、それとも派遣元での仕事を手伝うのか、あるいはスキルアップ目的の研修を受けたりするのか、それは派遣元によって異なる。
待機中でも派遣元からは給料がもらえる。ただし、派遣元によっては、基本給が通常の六割になってしまう場合がある。
思わしい事ではないのだが、次の派遣先が見つかる見込みのない社員を、派遣元が解雇してしまう事がある。
待機が長く続いた場合になりやすいのだが、酷い場合は待機にならずに、という事もある。
かつては特定派遣という事業があり、これは常用型派遣のみを行う派遣事業である。
少し前までT社は特定派遣を行っていた。
しかし、派遣法改正により、特定派遣が廃止されたので、T社は一般派遣――常用型も登録型も扱う事業――と同様に許可をもらい、今日に至っている。
特定派遣が廃止された背景には、前述のような雇用の不安定さがある。
一般派遣よりも要件が緩いので、資力の低い会社が事業を始めて、業績が悪化したら、すぐに解雇する事があったのだ。
T社は比較的安い単価でスタッフを働かせる事ができるので、N社は好んで派遣を依頼している。
N社に派遣されてD社に常駐している四人は、全て常用型派遣――表向きT社の正社員――のスタッフである。
今でもT社は常用型派遣が事業の中心である。
「そういえばゲーム中のマップを設計できる人も募集していたな。テキヤシースに派遣を依頼するだけでは、人数的にもスキルのバリエーション的にも厳しいかな。ケケナカン辺りにも求人を出すか」
鍋見は他社からのスタッフ募集も検討している。
ちなみに、ケケナカン(K社)は一般派遣の会社である。
登録型派遣事業を行っており、これがメインである。
請負を派遣扱いしても構わないというD社社長の意向は、波紋を広げ、複数の企業を巻き込む事になる。
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