第207話 夜会の準備(3)

「シュヴァルツ様は手拍子に合わせて指示通りに動いてください。ミシェル殿はシュヴァルツ様に合わせてステップを。それでは、まずは左足を大きく踏み出して……」


 タンタンタンと一定のリズムを刻む手の音に乗せてゼラルドさんが合図を出す。シュヴァルツ様は言葉通りギクシャクと左足を前に踏み出した。それに呼応するように、パートナーである私は自分の右足を下げる。

 これが、基本ステップの一歩目なのだけど……。


「え? わわっ!」


 思いの外シュヴァルツ様の一歩が大きすぎて、私の足が下げきれない。それに気づいた彼は慌てて足を止めようとするけど、勢いが殺しきれなかった。彼の普段の軍用ブーツではない真新しいダンスシューズの靴底は、私のつま先を捉えてしまっていた。


「ひゃあ!」


 片足を床に縫い留められた私の体はバランスを崩す。あわや転倒か、と思った刹那。逞しい腕に背中を支えられた。


「大丈夫か? ミシェル!」


「は……はい」


 シュヴァルツ様は仰け反った私の体を引き起こすと、床に膝をついた。


「怪我はないか? 骨が折れては?」


「な、なんともないです! ちょっと掠っただけですから」


 靴に触れてくる彼の指に、私は恥ずかしくなって咄嗟に足を引いた。本当に、私の足には擦り傷一つありませんよ。シュヴァルツ様はほっと息をつくと、立ち上がって家令に目を向けた。


「ゼラルド、やめよう。俺にダンスは難易度が高すぎる。このままではミシェルのつま先がなくなるぞ」


 ……怖いこと言わないでください。

 真剣に訴えるシュヴァルツ様に、ゼラルドさんは困り顔だ。


「しかし、格式ある夜会でダンスの一曲も踊れないとなると、ガスターギュ家の威厳が……」


「そんなもん知るか。俺は出世にも権力にも興味はない」


 シュヴァルツ様は、元々引退したがってましたものね。彼にとっては社交界も夜会も煩わしいだけかもしれない。でも……。


「あの……、シュヴァルツ様」


 ムッと頬を歪めていつもより怖い表情のご主人様に、私はおずおずと切り出す。


「私にダンスを教えてくれたのは祖父なのですが、その祖父が言っていました。『ダンスは楽しいものだ』って」


 意外そうに眉を上げたシュヴァルツ様に、私は微笑む。


「ステップを覚えるのは後回しにして、まずは踊ることを楽しみませんか? 音楽に乗って体を動かすだけでいいんです」


「う、うむ……」


 まだ煮えきらない将軍。それを離れた場所で見ていたアレックスが「あ!」と思いついたように二階へと駆け上がっていく。そして、屋根裏部屋から何かを取り出すと、大階段の手摺を滑り降りてきた。


「こら! お行儀の悪い!」


 すかさず叱咤する家令に「ごめん」と舌を出し、庭師は黒いケースを掲げた。


ナタリーお嬢様前住人が習い事で使ってた物。まだ置いてあった」


 開けてみるとそこには、艷やかな光沢のバイオリンが一挺。


「ほう、これは……」


 興味深げに呟いたゼラルドさんは、取り出したバイオリンを構え、弓を持つ。弦を弾くと澄んだ音色が響いた。


「値の張る品ではありませんが、十分良い音ですな」


 巧みに弓を動かし、しっとりとした曲を奏で始めるゼラルドさん。バイオリンまで弾けるのですね……。彼の引き出しの多さには驚かされてばかりです。

 そして、今流れているのは、舞踏会では定番の曲目だ。


「シュヴァルツ様」


 作法は気にせず、私の方から手を伸ばす。

 戸惑う指を握り、音楽に合わせてただ体を揺らす。

 ……私が祖父にダンスを習ったのは、十年以上も前のこと。

 背の低い私に合わせて少し腰を屈めたシュヴァルツ様。その身長差は幼い私と祖父との懐かしい日々を彷彿させる。

 目が合うと照れたように微かに口角を上げる彼に、私の頬は熱くなる。

 バイオリンの調べに包まれ、私達は暫し自由なダンスを楽しんだ。

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