第147話 アレックスの決断(1)

「うぅ、冷たいっ」


 汲みたての井戸水で雑巾を絞った手が真っ赤になる。かじかんだ指先に吹きかける息も白い。

 晩秋の王都は、今朝、初霜が降りました。

 私がガスターギュ家に来たのは春の終わり、そろそろ新しい季節が始まろうとしています。

 経験豊富な庭師が来たお陰で、堀っぱなしだったお堀も見栄え良く庭全体の水捌けを考えた造りに改良され、植物を傷めず、もっと巧妙にカモフラージュされた罠が増えました。

 ……お屋敷の要塞化待ったなしです。

 それだけでなく、庭木には霜よけの藁や布が掛けられて冬支度も万全です。

 勿論お庭だけでなく、お屋敷も冬仕様に変わります。

 ゼラルドさんと手分けしてカーテンを夏用から厚手の冬用に交換し、寝具も綿入りの物にしました。

 窓を拭きがてら二階から庭に目を遣ると、納屋の前で仲良く薪を割っているアレックスとジムさんが見える。


『ミシェル。オレ、手紙を書きたいんだけど』


 ……アレックスにそう言われたのは、屋敷にジムさんが来てすぐのこと。


『母さんに親父はちゃんと立ち直ったよって知らせたいんだ。そうすれば、きっと帰ってきれくれるから……』


 そんな年少者の健気な頼みを断れるはずもなく、私はアレックスが手紙を書く手伝いをした。

 しかし、王都外の郵便事情はあまり良くない。手紙は他の物資と共に商業組合ギルドが街を巡って届けてくれるのだけれど、小さな村だといつ届くか判らないし、経由地で紛失したりもする。かといって、直送便を雇うのは費用が掛かり過ぎる。

 ということで、シュヴァルツ様にご相談したところ、軍の物資輸送便に載せて近くの駐屯地まで運んで、そこから直接アレックス母の実家まで届けて貰えることになりました。

 遠い赴任地から郷里の家族に手紙を出すことはよくあるので、軍部の郵便制度は整っているのだそうです。シュヴァルツ様曰く、「そういう手続はトーマスが得意だ」とのこと。軍の重鎮と事務処理能力の高い部下って、最強のコネクションですね。私達身内まであやかりまくりです。

 ……もうとっくに手紙は届いているはずだけど、返事が来たという話は聞いていない。

 返事が来ても来なくても、春先には一度父と一緒に母の郷里を訪ねようと思っているというアレックス。

 子には子の、親には親の事情がある。たとえ血が繋がっていたって、それぞれに意思を持つ別の人間だ。解り合えないこともあることは痛いほど知っている。

 でも……。


(アレックスの望みが叶うといいな)


 一生懸命な人は、報われて欲しいと願う。

 眼下には、柄の長い斧を杖代わりに肩で息をするジムさんと、それを楽しそうに見上げるアレックス。

 薪割りで疲れたのか、急に咳き込むジムさん。娘は苦笑しながら父の背中をさするが……何かに気づいて瞳を大きく見開いた。


「おやじ!?」


 引きつった叫びが窓越しにも聞こえてくる。

 ジムさんが口元に当てた手の隙間からは、赤い液体が滴っていて……!

 認識した瞬間、私は身を翻し駆け出していた。


「ミシェル殿、廊下を走っては……」


 途中すれ違った老執事の苦言に、私は頭だけ振り返る。


「ゼラルドさん、来てください! ジムさんが……っ」


 言い終わる前に、執事も走り出した。

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