第130話 山へ(3)

「とーちゃーっく!」


 キラキラと光る水面に駆け出したアレックスが、涼しい風にポニーテールを泳がせながらぐんと腕を伸ばして深呼吸する。

 泉に辿り着いた時には、日は既に高い位置まで昇っていた。

 ブナの木陰に敷物を広げて一休み。時折、枯れ葉やどんぐりが落ちてくるけど、それもまた風情がある。自分で片付けないでいい落ち葉には、心穏やかです。

 柔らかい木漏れ日の下でみんなでランチ。ピクニックバスケットの中には、バケットサンボンと朝摘みのベビーリーフサラダ、チーズとソーセージとレバーパテに鶏ハム、人参と玉ねぎと茹で卵のピクルス等が入っている。バケットを適当な厚さにカットし、好きな具材を挟んで食べます。


「シュヴァルツ様、トーマス様、こちらをどうぞ」


 持参した小鍋とオイルランタンでゼラルドさんが作ったのは、スパイスの香り豊かなホットワインヴァンショーだ。


「いただこう」


 シュヴァルツ様は銅製のマグに口をつけると、ほっと息をついた。


「美味いな」


「恐縮です」


 主の賛辞に、老執事は顔を綻ばせる。


「これ、すっごく美味しい! ゼラルドさん、おかわりある?」


「はい、只今」


「オレも飲みたい!」


「あなたにはまだ早い。後で材料の残りでスパイスティーを作ってあげますから、大人しく待っていなさい」


 トーマス様の要望に答えつつ、アレックスを嗜めるゼラルドさん。

 私はブナの木に背を預けて騒がしい部下と使用人を眺めるシュヴァルツ様の傍らで、バケットを大きめにスライスする。

 ベビーリーフとレバーパテと茹で卵のピクルスを挟んで渡すと、彼は大きな口でかぶりつく。


「この卵、酢漬けなのか」


「はい。苦手な味でしたか?」


 ちょっと不安になって振り仰ぐと、


「いや、美味い」


 シュヴァルツ様が穏やかな笑顔を私に向けていた。


「俺は王都に来たから、いくつ卵料理の味を知っただろうな」


 ……まだまだたくさんありますよ。今度図書館でお料理の本を調べて、レパートリーを増やそうかしら。


「あ、あっちででっかい魚が跳ねた! アレックスちゃん、ゼラルドさん、捕まえるよ!」


 トーマス様が二人を呼んで、泉の畔に頭を並べてしゃがみ込んでいる。それを横目に、シュヴァルツ様はサンドウィッチを飲み込んでから、


「いい休日だな」


 雨粒のように降り注ぐ木漏れ日に目を細めた。


「王都に来る前……いや、あの屋敷に住む前は、俺は休みの日に誰かと出掛けるなんて考えたことがなかった」


 独白のような言葉を、私は静かに聞いている。


「俺は他者から敬遠される容姿と態度だったし、それをなんとも思っていなかった。だが……」


 シュヴァルツ様はふっと小さく笑うと、私に顔を向けた。


「今は人と過ごすのも悪くないと感じるようになった。一人の時間も大事だが、誰かと共有する時間も同じ様に大切に思える」


 彼は風に乱れて頬に落ち掛かった私の髪を、そっと指で払う。


「ミシェルの言ったことが解る。ミシェルが俺の世界を広げてくれたから、俺も他者を受け入れる余裕が出来た」


「シュヴァルツ様……」


 黒い瞳の中に、頬を赤らめた私の顔が映っている。


「今日は楽しいな。ミシェルと行った海が楽しかったから、また遠出したいと思ったんだ」


「……私もです」


 はにかむシュヴァルツ様に、心から頷く。これからももっと、楽しいことを増やしていきましょうね。

 見つめ合っていると、胸の奥がぽかぽか温かいのに何故かキュウっと苦しくて、私はドギマギと視線を泳がせた。


「えっと、あの……、デザートにしましょうか! リンゴを持ってきたんです。今、切りますね……」


 緊張して指先が震えてしまう。バスケットからリンゴを取り出した瞬間、シュヴァルツ様はそれを私の手から奪った。

 そして、卵を割る軽やかさでパカッと赤い果実を真っ二つに裂いた。


「ほら」


 片方を口に運びながら、自然な仕草でもう片方を渡してくるシュヴァルツ様。


「ありがとうございます……」


 ……リンゴってナイフを使わなくても半分にできるんだ……。


 私の知らなかった世界が、また広がった気がします。

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