第80話 海へ(朝の砂浜2)
柔らかい砂に足を取られながら、私達は大急ぎで岩場へ駆けつける。
といっても。砂煙を巻き上げて猪の突進の如き走りを見せるシュヴァルツ様と私では速度が違いすぎて、私が辿り着いた時には、シュヴァルツ様はもう倒れていた人を不安定な岩場から担ぎ下ろしているところだった。
乾いた砂浜に仰向けに寝かされたのは、初老の男性。白髪の多い髪は海水に濡れて乱れているが、立派な口ひげは綺麗に整えられている。土色に血の気の失せた細身の身体は、三つ揃えの
シュヴァルツ様は屈み込んで男性の首筋に指を当てたり、口元に掌を翳したりしている。
「い、生きてるんですか?」
恐る恐る訊いてみると、
「呼吸はない」
彼は冷静に返して、横たわった男性の胸に耳を当てた。難しい表情で顔を上げると、男性の胸に両手を当てて、規則正しいリズムで押し始める。
繰り返すこと数回、突然男性ががはっと大量の水を吐き出した!
溺水した男性が、息を吹き返したのだ。
「ミシェル、水を持って来い! そこの路地を入ったところに井戸があった」
「は、はい!」
咳き込む男性の顔を横に向けて吐瀉物が喉に詰まらぬよう対処するシュヴァルツ様に指示され、私は街の方へと急ぐ。将軍が言った通り、砂浜を上がってすぐの路地の先は洗濯場になっていて、公共の井戸が設置されていた。昨日街を散策した時に見つけていたのだろうけど、私は全然気づかなかった。
シュヴァルツ様は以前、「水場の確保は野営の基本だ」って語っていたことがあったけど……。日常生活の中でも、しっかり有事に備えているんだ。
バケツに水を汲んで砂浜に戻ると、シュヴァルツ様は流木の枝で薪を組んでいた。ナイフを火打ち石に滑らせ火花を飛ばし、薪に火をつける。
「お待たせしました」
駆け寄ると、男性は意識を取り戻したのか、薄目を上げてぼんやり空を眺めていた。
「傷口を洗ってくれ」
シュヴァルツ様は男性に断りもなく燕尾服のジャケットを開き、ベストとシャツをナイフで切り裂く。引き上げた当初は海水に濡れていて気づかなかったけど、初老の彼の脇腹からは真っ赤な鮮血が溢れ出していた。
私はひゃっと叫びそうになるのを、既で飲み込んだ。
「お、お医者様を! 助けを呼んできます!」
どうみても、素人に対処できる傷ではない。街へと踵を返しかけた私の手首が、氷のような指先に掴まれる。
「ひぇっ!?」
私はとうとう引きつった悲鳴を上げてしまった。
「おやめ、ください。どうか、人を呼ぶのは……」
掠れた声で懇願したのは、溺水して重傷まで負った老紳士自身だった。
「シュ、シュヴァルツ様……」
涙目で顔を向けると、将軍は静かに頷いた。
「止血をする。手伝え、ミシェル」
「は、はい……」
どうやら選択肢はないようだ。
シュヴァルツ様が焚き火でナイフの刃を炙っている間に、私は狼狽えながらも砂にまみれた男性の腹部を水で洗い流す。顕になった傷口は斜めに裂けたような形で、呼吸にお腹が動くのに合わせ、鮮血を噴き出させている。
「
熱したナイフを手に宣言するシュヴァルツ様に、男性は「お願いします」と頷く。ジュッと肉の焼ける音と男性が歯を食いしばって呻く声に、私はいたたまれずに目を逸らした。
ナイフが離れた後も何度も大きく息をついて痛みに喘いでいた男性は、やがてよろめきながらも立ち上がる。
「ありがとうございました。
海で流されたのだろう、片方しか履いていない靴と靴下履きの踵を揃え、折り目正しくお辞儀をする。
え? ええ? 血が止まったとはいえ重傷で、しかもさっきまで心臓まで止まっていた人が、どこに行くの!?
私は咄嗟に引き留めようとするけど、
「うむ、息災で」
シュヴァルツ様が鷹揚に送り出しちゃったので、反論できなくなる。
というか、今まさに息災じゃないですよ、この
「あの、せめてこれを」
私は自分の肩に掛けていたストールを外し、男性に渡した。濡れたままの身体や服は、いかにも寒そうだったから。
初めて私の顔を正面から見た彼は、驚いたように目を見開いて、
「失礼ですが、どこかでお会いしたことが?」
……へ?
「いえ、多分初対面です」
「そうですか……」
男性は諦観したようにシワの多い目尻を下げてから、もう一度私達に恭しく別れの挨拶をした。
「お二人に光のご加護を。このお礼はいずれ必ず……」
「生きていたらな」
シュヴァルツ様はにべもない。
ふらふらと身体を揺らしながら海岸線に消える男性を見送って、私は緊張に強張っていた肩の力を抜いた。
「あの方は、何者でしょうか?」
「さあな」
疑問ばかりの私に、シュヴァルツ様はさして興味なさげに首を竦めた。
「さあなって……何も知らずに助けたのですか?」
てっきり、私が水を汲みに行っている間に、事情を聞いていたのかと思ったのだけれど。
「知らん。不用意に関わらん方がいいだろ」
将軍はあっさりと、
「あの男の傷、刃傷だったぞ」
「え?」
「それにあの男、軍人だ」
「ええ!? なんで解るんですか?」
「見れば解る」
私には解りませんよ。
朝市が立ち始め、海岸沿いの道に人が増え始めると、シュヴァルツ様は焚き火の始末をして、背中にナイフを仕舞って歩き出す。シャツの裾にに隠れて見えないけど、ズボンのウエスト部分にナイフを収める鞘をつけているみたいだ。
「そのナイフ、いつから持っていたんですか?」
火打ち石までありましたよ。
「いつも持ち歩いている」
「遊覧船に乗った時も?」
「使わずに済んで良かったな」
しれっと嘯くシュヴァルツ様。
……ご主人様には、まだまだ私が知らないことが多そうです。
「それにしても」
彼は 足を止めると、悪戯っぽく私を振り返る。
「ミシェルと居ると次々と事件が起きて飽きないな」
感心したように言われて、私は頬を膨らませた。
「それは私の台詞です!」
──そして、料理長が「これ以上はっ!」と泣いて懇願するほど旅荘のモーニングビュッフェを堪能してから……。
私達は港街を後にしました。
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