第69話 海へ(遊覧船2)

「では、そろそろ懐かしい陸地に帰還しますよ。ごゆるりと最後の航海をご堪能あれ」


 船長の合図で船首甲板にテーブルが用意され、ワインやオードブルが振る舞われる。帆を下ろしたので船の速度も緩やかだ。

 大海原でピクニック気分を味わうのが、この遊覧船の趣向らしい。

 観光客は銘々にグラス片手に談笑している。大きな波が来ると皿が床に転げ落ちるのはご愛嬌だ。

 まだ本調子でないシュヴァルツ様と私がマストの下の日陰で座っていると、一人の女性が声をかけてきた。


「あら、船酔いかしら?」


 絹のサマードレスに鍔広帽。私と同年代の彼女は、ひと目で貴婦人と解る出で立ちだ。


「キャンディをどうぞ。気休めだけど少し楽になるわよ。あなたにも」


 彼女はガラスの小瓶から琥珀色の飴玉を二つ取り出して私達にくれる。


「ありがとう」


「ありがとうございます」


 口に含むと、懐かしい甘さにほっとする。


「ねえ、あなた達は旅行者? どこから来たの? わたくしは……」


 彼女が雑談を始めようとすると、


「ロクサーヌ!」


 甲板の方から声がして振り返る。


「何してんだ? こっち来いよ」


 高価そうな麻シャツの青年に呼ばれて、彼女は「またね」と軽く手を振って去っていく。


「あいつら誰だよ?」


「わたくし達と同じ乗客よ。船に酔っちゃったみたいだから、キャンディあげたの」


 青年はこちらを一瞥し、


「でかい図体して船酔いかよ、情けない。見掛け倒しな男だな」


 ……むぅっ。


「失礼じゃない! 聞こえるわよ!」


 連れの暴言をロクサーヌと呼ばれた彼女がすかさず嗜めるが、青年は益々せせら笑う。


「聞こえたからってどうだっていうんだ。ロクサーヌ、君もあんなみすぼらしい庶民にほいほい声を掛けちゃダメだよ。品位が落ちる」


 カッチーン!


「ちょ……」


「やめておけ」


 思わず立ち上がって抗議に走ろうとした私の腕を、シュヴァルツ様が引き止める。


「言わせておけばいい。怒っても腹が減るだけだ」


 現在お腹が空っぽなシュヴァルツ様が、飄々と語る。


「でも……」


 船酔いなんて体型も性別も関係ないし。ましてやシュヴァルツ様は天下の大将軍、みすぼらしくも庶民でもない。別に庶民でも全然悪くありませんが、私も一応子爵令嬢だし!


「シュヴァルツ様の地位が不当に貶められるのは嫌です」


 唇を尖らせる私に、将軍は苦笑する。


「不当も何も、船酔いでクラゲになっているのは事実だからな」


 気だるげに首を竦める彼は、やっぱり大人だ。……ムキになってる自分が恥ずかしくなる。

 よく見ると、甲板にいる乗客は身なりの良い者が多い。多分、この遊覧船は平均より少し裕福層向けなのだろう。ロクサーヌ達は男女六人のグループらしく、服装的に貴族子女だ。

 今日のシュヴァルツ様と私の服は、私の自作だ。

 ……もっと見栄えのいい既成の服を用意するべきだった。

 膝を抱えて勝手に落ち込んでいると、不意にすっくとシュヴァルツ様が立ち上がった。


「……なんだ、あれは?」


 え? 何?

 見上げると、眉を吊り上げ、見たこともない険しい表情で船尾の方を睨みつけるシュヴァルツ様の顔。


「シュ……」


「ここにいろ、ミシェル!」


 彼が船板を蹴って駆け出したのと――


 カッ!!


 ――船体右側面に鉤縄が掛かったのは、ほぼ同時だった。

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