29.熱

 疲れたから帰って休むと、大きな欠伸をしながらレイチェル様が部屋を去り、お見送りをしますと言ったイルゼさんが綺麗な一礼だけを残してその後をついていく。


 部屋に残されたのはわたしと不機嫌そうなリアム様だけで、そのリアム様はというと寝台の端に腰を下ろしたままずっと口を開かない。

 伝えたい事が沢山あるわたしは、その沈黙の中で、何から口にするべきかをずっと考えていた。


 ありがとうもごめんなさいも、伝えたい。

 伝えたい想いを潜める代わりに、他の言葉は全て捧げたいと思った。


「リアム様、あの……」


 肩越しに振り返ったリアム様が、寝台の端、座っている隣の場所をぽんぽんと叩く。呼ばれているのだと気付いたわたしは、上掛けを避けると寝台を膝で歩いた。促されるままにリアム様の隣に座り、床へと足を下ろす。

 庭に出ていた時のドレス姿で横になっていたからか、スカートに皺が寄ってしまっている。そっと手で伸ばして少しでも整えようとしたけれど、全部は綺麗にならなかった。


 ゆっくりと息を吐いて、止める。

 まずはお礼を伝えなければ。


「リアム様、助けて──」


 言葉は最後まで紡ぐことが出来なかった。

 リアム様の両腕がわたしを抱き締めていたから。わたしの肩に顔を埋めるように背を丸めて、深くて長い息を吐いた。


「……間に合って良かった」


 その声が、腕の強さが、温もりが、鼓動が。

 わたしを想っているのではないかと錯覚させるほどに、熱を帯びているようで──心が切ないと訴えかけてくる。胸が苦しく痛む事を隠しながら、わたしはゆっくりと口を開いた。


「……リアム様のおかげです。ありがとうございました」

「こんなのはもう勘弁してくれ。お前を閉じ込めておきたくなる」


 顔を上げたリアム様の金瞳が色を濃くしてわたしを見つめている。琥珀にも似た美しさから目を離す事なんて出来なかった。

 何かを伝えなくてはならないと分かっているのに、震えた唇は役目を為さない。

 そんな様子を見て、リアム様は低く笑った。わたしの頭にぽんと手を乗せてから、そっと体を離していく。


「体の調子はどうだ? リンの奴は説明もしないで帰ったからな」

「は、はい。呪いの糸が緩まっていたそうで、少しの間なら日光に当たっても良いようにレイチェル様がして下さいました」

「そういうのは俺に言っていくべきだろうが、あの蜘蛛女」


 盛大な舌打ちをするリアム様に、先程までの熱はない。それにどこか安堵しながら、わたしは笑みを零していた。


「お疲れのようでしたので、失念されていたのかと」

「いや、あいつの事だ。わざと言っていかなかったんだろう」

「そうでしょうか。……リアム様、助けに来て下さってありがとうございました」


 改めて口に出来た感謝の言葉に、リアム様は目尻の下がった金瞳を細めながら小さく頷いてくれた。その優しい眼差しにわたしの鼓動は高鳴るばかりで、鼓動に押されるままに言葉を紡いだ。


「わたしの呪いを守るという、あの絡みついていた糸が急激に解けたのも……リアム様のおかげです。リアム様に勇気を頂けたから、前よりもずっとピアニー様を恐れずにいられたのだと思います」

「別に俺のおかげではないぞ。俺が着いた時にはもう、お前はクソ王女に真っ向から向かっていただろう。お前に注いだ俺の魔力を辿った時に伝ってきた。恐怖や痛みを乗り越えようとするお前の気概が」

「……負けたくないと思いました。そう思えたのもリアム様と過ごした時間があったから。わたしに勇気を下さったのはリアム様です」

「……そうか」


 わたしの思いを聞いて、それ以上はリアム様は何も言わなかった。ただ微笑みを浮かべている。

 穏やかな時間の中でも、リアム様を見れば目に入るのは片方が折れた角だ。痛々しささえ感じて、わたしはスカートの布地を指先で掴んでいた。


「ですがわたしの元に来る為に、リアム様の角が……」

「角は角、それ以上の価値はない。頭の上に飾られておくよりも立派な使い道だっただろう?」


 くく、と笑うリアム様の様子から後悔なんて読み取れない。些事さじのように笑っているけれど、きっとこれから奇異の目で見られてしまうのだろう。

 暗い気持ちが胸を渦巻きそうになる中で、レイチェル様の言葉が頭をよぎった。


『全てを分かっていて、それでも君を選んだんだ』

『君がそれを言ってしまったら、本当に無駄になってしまうからね』


 リアム様が悔やんでいないものを、わたしが引き摺るわけにはいかない。そう思ったわたしはリアム様の手を両手で包んだ。ぎゅっと握り締めながら、隠した想いをそっと込めた。


「ありがとうございます、リアム様」

「ああ」


 短く応えたリアム様が手を握り返す。その刹那、ぐいとその手を引かれたわたしは、リアム様の胸に飛び込むように体勢を崩していた。掴んでいたはずの手はいつの間にか解かれて、リアム様の両腕がわたしの背と腰に回る。

 間近に香るパルファムにくらりと眩暈がした。


「その様子だとリンから聞いたんだろう? 角は鬼人族の誇りだとか何だとか」

「……はい」

「そういった考えがある事は否定しないけどな。お前を見捨てて角を選んで、それこそ誇りが失われるだろうよ。俺は後悔していない」

「……辛い思いをされないですか? 他の鬼人族の方に何か……」

「好きに言わせておけばいい」

「リアム様の体に不調をきたしたりは……」

「問題ない」


 わたしが懸念している事全てが短く否定されてしまう。その声に揺らぎなんてない。

 そう言うのだから大丈夫だと、それは分かっているのに。心配してしまう気持ちが心の中から消えてはくれなくて。

 わたしは両手をリアム様の背に添えて、自分からもそっと体を寄せた。


「……わたしもリアム様のお力になりたいと思うのです。何かあれば遠慮なさらず仰って下さいね」

「お前は……」


 盛大な溜息が降ってくる。

 何かまずい事を言ってしまったのかと体を強張らせた、その瞬間──


 顎に長い指が掛かったかと思えば、くいと上を向かされる。どうかしたのかと問うよりも早く、わたしの唇はリアム様に奪われていた。


 吐息も熱も全て奪う口付けはまるで嵐のよう。噛みつかれては心が震えて息継ぎだってままならない。

 背に回した両手で、軍服の布地にぎゅっと縋った。


「……お前の危うさは心臓に悪い」


 唇が離れても距離が近い。呼吸を整える事に精一杯のわたしは、熱に滲む視界にリアム様を映す以外に出来なかった。


「俺以外にはそんな事を言わせないが」

「……リアム様?」

「まだ回復していないだろう。食事をしたら長湯でもしてゆっくり休め。一人で眠れなかったら俺の部屋に来ればいい」

「それは、いえ……えっと……」


 ぼんやりとしていた思考が、紡がれる軽口に一気に晴れていく。うまく言葉も返せずにいるわたしを見て、リアム様は可笑しそうに肩を揺らしながら体を離す。


「しばらくは屋敷の中から出ないでほしい。屋敷には呪術避けの魔法陣が常時展開されているが庭は盲点だった。身に着ける魔護具アミュレットがあった方がいいな。リンに頼んでおくか」

「あ、はい……ありがとうございます」


 お屋敷の中に魔法陣があったなんて知らなかった。

 その事についても伺ったりしたいのに、まだ動揺から抜け出せないでいるわたしは、お礼を言うだけで精いっぱいだ。


「何かあればいつでも俺を呼べ。不安になったとかそんな理由でも構わない」


 語りかけるような声が優しすぎて、胸の奥が苦しくなる。疼きにも似た切なさを吐息に逃がして、頷く事しか出来なかった。


 リアム様はわたしの額に唇を落としてから、「また後で」と言葉を残して部屋を出て行ってしまった。



 もう既に心を奪われているのに、それ以上を捧げたくなる。

 恋がこんなにも切なくて、渇くものだなんて知らなかった。


 リアム様と入れ替わるようにイルゼさんが入室してくる。くすくすと笑ったイルゼさんに顔の赤さを指摘されたわたしは、誤魔化す事も出来ずに上掛けの中に潜り込んだ。


 

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