21.幻華蝶
ある日の夜、眠りに就く前の事。わたしの部屋の入口で、わたしはいつものように就寝の挨拶をリアム様に告げた。頷いたリアム様がわたしの背に片手を回す。これからを予感して、わたしの胸がどうしたって高鳴ってしまう。回数を重ねたって、慣れてはくれない。
唇が重なる。
ゆっくりと慎重に、魔力が注がれ始める。
リアム様は背中と後頭部に回した腕で、ぐいと強くわたしの体を引き寄せる。その力強さに促されるように、わたしはリアム様の背に両手を回していた。
魔力が注がれると、胸の奥に広がる熱が全身へと波紋のように広がっていく。指の先までその熱に満たされていくのは気持ちがいいのに、これ以上は少し怖い。溢れた魔力に酔いそうになるその直前で、全てを分かっているかのようにリアム様が魔力を注ぐのをやめてくれた。
唇が離れて、震える吐息が漏れる。吐いた分だけ息を吸おうとした時──リアム様はまた啄むような口付けを落とした。
髪に指先を絡めるように頭を撫でられて、降り落ちる口付けを受け入れれば胸の奥はずくずくと甘い疼きに支配される。何かに縋りたくて、背中に回した手でリアム様が羽織るガウンを握りしめると、応えるように抱き寄せてくれた。
ゆっくりと唇が離れていくけれど、唇には未だに熱が残っているようだ。この熱はわたしだけが感じているものなのだろう──そんな熱を感じてしまってはいけなかったのに。
このキスは解呪じゃない。
それは分かっているのにわたしは真意を問えずにいるし、リアム様も何も言わない。お互いが境界線を敢えて曖昧にしているようだった。
「……おやすみなさいませ」
自分の頬が色付いているのなんて、鏡を見なくても知っている。騒ぐ鼓動は落ち着く事を知らなくて、それに気付かれないようにわたしはまた挨拶を口にした。
「シェリル、まだ時間はあるか」
「はい、それは大丈夫ですが……」
リアム様はふ、と笑うと、羽織っていたガウンをわたしの肩に掛けてくれた。パルファムが強く香る。この香りだけで胸がざわめいて、好きなのに何だか落ち着かなくなる。
「少し出掛けるか」
「今からですか?」
「ああ。イルゼ達には言うなよ、うるさいからな」
肩を竦めながらリアム様が差し出す手に、わたしは自分の手を重ねた。一体この時間からどこに行くというのか、全く見当もつかないけれど……リアム様と一緒に居られるなら、どこでもいいと思った。
リアム様が踵をひとつ、床に打ち付ける。その瞬間に溢れる紫色の光に、わたし達の体は包まれていく。急速に高まった魔力が弾けて──目の前に広がる景色は夜の帳に包まれた森の中へと変わっていた。
驚くくらいに大きくて白い満月が、夜を支配するかのように浮かんでいる。その月に照らされるのは、まるで光を放つ鏡のような泉だった。
森の木々は夜の優しい風に揺らされて、葉擦れの音を微かに響かせているのに、泉の水面は揺れ動く事もない。
「寒くないか」
掛けられた声にはっとして、肩を跳ねさせてしまう。美しい光景に思わず目を奪われてしまっていた。
「大丈夫です。……あまりにも美しくて、見惚れてしまっていました」
「これからもっと綺麗なものが見られるぞ」
悪戯に笑うリアム様はわたしの手を離すと、前合わせの懐に手を差し入れてハンカチを取り出す。それを柔らかな草の上に敷いてから、わたしに座るよう促してきた。
「少しここに居よう。座るといい」
「いえ、リアム様がお使い下さい」
「ガウンを下に敷いた方がいいか? 座らないならそうするが」
「……有難くお借りします」
今にも本当にガウンを敷いてしまいそうで、わたしはそれ以上の問答をすることが出来なかった。ハンカチの上に座ると、リアム様も隣に腰を下ろす。せめてガウンだけでも返そうと、羽織ったままのそれを肩から滑り落とすけれど、察したリアム様にまた羽織る形へと戻されてしまう。
「いいから使え」
「ですが……リアム様のお体が冷えてしまうかと」
「俺とお前、どう見ても風邪を引きそうなのはお前だろうが。体調を崩されたらイルゼ達がうるさくなるからな、お前が使え」
「……ありがとうございます」
言い方は素っ気ないけれど、その声には気遣いが溢れている。この人はいつもそうだ。そんな優しさに触れ続けて、心を傾けずになんていられないのに。
「シェリル、見ろ」
不意に掛けられた声に顔を上げると、泉に映る満月が揺らぎ始めていた。水面が揺らめくほどの風はないのに、まるで
わたしが驚きに目を
霧のように細かい飛沫がわたしの髪や頬を濡らす。
噴き上がる水柱からはひらひらと沢山の何かが飛び出して、それはよく見ると蝶々の形をしているようだった。
「綺麗……」
光を蝶の輪郭に切り取ったような、そんな不思議なもの達が楽し気に飛び回っている。水柱はゆっくりと泉の中へと沈んでいき、また鏡のような水面へと落ち着いてしまった。
「
「はじめて見ました……こんなにも綺麗なものを見られるなんて」
あまりの美しさに何を言ったらいいのか分からない。
胸が震える程の感動を伝える言葉をわたしは持っていなかった。
「……どこにも連れていってやれないからな。せめてこれくらいは」
予想外の言葉にリアム様の方を見ると目が合った。目尻の下がる金の瞳は柔らかな笑みに細められていて──綺麗だと思った。
「わたしは
「だが、屋敷に籠もって同じことの繰り返しだとつまらないだろう。本当は服だって店に連れて行って好きなものを選ばせたいし、皇都の珍しいものを見せたりもしたいんだが……」
「そのお気持ちだけで充分です」
リアム様は怪訝そうに眉を寄せるけれど、これは嘘偽りないわたしの本音だ。
確かに皇都を歩いてみたい思うという願いはあるけれど、わたしの体だとそれは難しいのは分かっている。日の光が出ていない時を選んだとしても、もしかしたらわたしの呪いにあてられてしまう人が居るかもしれない。
でもわたしを気遣うリアム様のお心が嬉しくて、もうそれだけでいいのだと心から思えるのだ。
「……そうか。ではまた夜に、二人でこうして抜け出すか」
「イルゼさんに叱られないといいんですが」
「お前が言わなきゃばれないだろう」
「ふふ、それでは二人の秘密ですね」
きっとリアム様は、またこうして連れ出してくれる。二人だけで、秘密の時間として。それを嬉しく思ってしまうのは仕方がない事だろう。
リアム様が指先を伸ばして、そこに魔力を集め始める。何をしているのだろうとそれを見ていると、魔力に呼び寄せられるようにして飛んできた、一羽の幻華蝶が指先で羽を休めた。
その指先をわたしの髪に寄せると、どうやら蝶は髪へと素直に移動したようだった。ぱたぱたと羽を動かすたびに光の粒が瞬く様子が、視界の端に映りこむ。
「お前には蝶が似合うな。今度はこの髪飾りを贈ろうか」
囁かれる甘い声色に、心がざわめく。心臓の音が大きくて、この音に驚いた蝶がいなくなってしまうのではないかと思うほどに。
顔が熱くなるのを抑えたくても自分ではどうしようも出来ないし、髪に止まった蝶が逃げてしまうのも惜しくて顔を隠す事も出来ないでいた。
そんなわたしを見て、リアム様は可笑しそうに肩を揺らすばかり。そんな顔を見せられたら、この想いも深まってしまうのに。
それを告げる事ももちろん出来ずに、わたしはただじっとしているしか出来なかった。
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