知らないことは寂しい事だと、私は思った。
食事を済ませて、見守られながら食堂を去る。
学校のイベントで見に行く保護者と言うのは、高校にもなれば珍しい存在になるのだけど……我らが母は、その中の例外だ。
「200メートルかぁ」
昼休憩明けから、幾つかプログラムを挟んでからこれが行われる。私の出番となるタイミングだ。
……まあ、やるしかないか。
諦めの溜息を吐いて、気付いた明一が私を見る。
「100メートルのリレー、上手くやれそう?」
「ん、まあ」
私一人に苦労させるのが、とても違和感らしい。そんな顔をしていた。
友情と言うにもしっくり来ないが、苦労も楽しみも等しく分け合いたい、という気持ちがある。彼も同様に。
「……今日の帰り、寄り道して何か買おうよ」
「ん、ああ、そうだな。アイスはどうだろうか」
「アイス。うん、アイスが良い」
今日この学校の校門から出る頃には、舌がスポーツドリンクの甘塩な味に慣れ切っているだろうけれど。多分、普段よりはおいしく感じるかもしれない。
食事は美味しければ別に良いけれど、嗜好品に類するようなお菓子なんかは、少しだけ拘りたい。
「チョコミント、今日はあるかな」
馴染みのコンビニには、それが置いてある日と無い日がある。
「無いなら無いでもバニラで満足するが」
「でもチョコミントが勝る」
「勝る」
目を細めて、味を想像する。のだが、にへへと頬が緩んでしまっている気がして、直ぐに戻す。
明一に目を向ければ、彼も目を逸らした。
「……」
「何見てるのさ」
「いや。なんだか成程、と」
「うん?」
「その……見ていて飽きないというのはこういう事か、と」
……そういえばそんな事を言っていた。
けれど、それを指摘されるとなんだか気に入らない。
むう、と明一の顔を軽く押し退けた。するとそこに笑みが浮かんだ様な気がした。
傍目に見れば、きっと無表情と区別がつかないのかも知れないけれど。
・
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私の出番が来た。立ち上がるのにも億劫だけど、予定外の面倒事よりかは足が軽い。
あらかじめそういうつもりで居たらならば、それでようやく立ち上がれる。
「じゃ、私は」
「ああ。受け取っておく」
何処から知ったのか、ついさっきママのメッセージが携帯に届いた。自販機のスポーツドリンクは切れているから、コンビニの物を買ってきてくれるらしい。
ママが学校に戻ってくるのは私が走った後になるだろう。
放送がプログラムの進行を伝え、応じて私も離れる。
馴染みに馴染んだ気配が離れていく。私の足で離れていく。
それを寂しいと思ったのは何時からだったのだろう。
列に並んで、リハーサル通りの場所に向かいつつも指示を待つ。
多数の見知らぬ人々に囲まれ、それが誰かを認識するようなことはせず、ひっそりと一人。そんな風に今まで生きて来た。
それが私の生き方だった。誰も居ない世界が、多分心地よかった。
「……」
放送が開始を伝える。
200mのレーンを、誰かが走っていく。私は何番目だったんだろう。もう忘れたけれど、順番が来れば分かる。
ほら、少し待ったら見覚えのある顔がスタート位置の傍に立った。
あの顔は私の一つ前の順番で走る人だ。であれば、私はこの次。
走るコースを目で辿る。一直線とは行かず、一つカーブを挟んでまた一直線。その半ばでゴールラインが引かれている。
勝負を前にして、気合やら気分やらが高揚する感じはしない。
ただ日々を過ごす様に、言われた通りのルートを辿る。
さて、順番が回って来た。
ぼんやりと立っている気になれず、なんとなく彼の姿を探す。
といっても、居場所は変わらない。すぐに見つけた明一の顔へ、目線を向ける。
私の事を見ている。当然だ、私の双子であるから。人として興味がある対象など、私以外に居ないのだから。
そして私も、誰にも興味を向けられない。明一以外に、誰も。
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・
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「はぁ……、はぁっ」
繰り返す深呼吸で、体中に冷えた酸素を送る。心臓の鼓動がドクドクと頭に響くのが、少し楽になった気がする。
何故だろう。この前の練習より疲れたかもしれない。ぼやけた頭で理由を考えて、午後からの種目だったからというのが有力そうな気がした。
「お疲れ様でーす。紳士淑女の方々ー、こちらのレンズをご覧くださーい!」
立山記者が居た。また写真を撮りに来たのだろう。
しかし、汗で参っている女子にカメラを向けるのは、普通は嫌がるらしい。一緒の順番で走っていた女子が、嫌な顔をしていたのが見えた。
「あ、ねえ!」
「っとと、NGですか? じゃあシャッターは切らないので安心してくださいねー。失礼しました」
「ふぅ、よかった。女子じゃなかったらセクハラで訴えてたからねー?」
「ねー」
「ねー?」
……立川記者は、確かに一目で男子とは言えない立ち姿だが。
「あはは、ソウデスネ。……」
写真も撮れないなら、用事もない。と思っていたのだが、一瞬だけ私の方に目線が向けられた。
けれど本当に一瞬で、それから直ぐに何処かへ行った。
ふむん。
200メートルは走り終えた。退場までスケジュール通りにこなして、それからクラスの場所に戻る。
そこで早速明一の姿を探したのだが、見当たらない。タイミングが悪かったのだろうか、母が来たタイミングによってはあり得る。
どうしようか、と思って、まあ他に選択肢も無いか、と踵を返す。校門、食堂、見当は大体付く。
その通りに探してみるが、姿は見当たらない。もう少し向こうだろうか、と校門の方へ向かって……。何故か塩原さんを見つけた。
探し人とは違うが、どうしよう。声を掛けてみようかと思っていると、それより先に向こうが気付いた。
「あ、あかりん! 見て見てこっち!」
「……?」
導かれて、正確には手を引っ張られてその様子を見せられる。
一体何がすごいのだ。私は明一を探さないと行けないのに、と思っていたら、まさにその明一が居た。
他にも我らがママと、その付き添いである長也さんも居る。そして……あれは、ええと。そう、立山記者。私以外の玉川一家と立川兄弟が揃っている。
そう言えば、兄の長也さんは苗字を隠したがっていた。
「……えっと」
それで、なんだっけ。そうだ、母と明一に用事があるんだった。
しかし今割り込むには、すこし微妙なタイミングだ。なんだか雰囲気が普通じゃない気がする。
「何これ……」
「痴話げんか?」
「何それ……」
いや、痴話げんかは痴話げんかで違いは無いけれど、何故に。
「私も分かんないよ。でもなんか、面白そう」
「……」
面白いのはゲームとアニメで十分なのだけど。
実際の所はどんな様子なのだろうと、塩原さんの言葉を先入観として取り込まずに覗き込む。
険悪な雰囲気とは言えない、なんだか静まっている。熊と人がにらみ合っている様な、緊張の走る静寂に近い。
けれど同時に、大事な話は既に済まされた、という気配がした。
「──うん。それじゃあ」
「──怪我すんなよ」
会話からも、確かに話が終わったタイミングだと分かった。ママと長屋さんが校門を出て、明一と立山記者がこっちに戻ってくる。
「わ、わ、逃げないと!」
塩原さんは逃げるらしい。何故逃げる必要があるんだろう、と疑問に思う。
私に関しては元々明一を追っていたのだし、彼女を真似て逃げる事も無い。物陰から出て、明一を迎える。
「明」
「お帰り」
「悪いな、遅れたか」
「いいや」
キャップが取れていて、しかし中身は満杯なままのスポーツドリンクを貰って、一口飲み込む。
「……」
その傍で、立山記者はカメラをじっと見下ろしていた。
何を考えているのだろう、何を話していたのだろう。そんな事を思いついても、最初から興味の無い事であるから、すぐに忘れる。
私達は寛容かもしれないが、お節介では無いのだ。
明一が何も言わないのであれば、私もあえて干渉する必要もないという事。
ならば、戻ろう。
「それじゃあ」
「ええ、それでは」
「……ああ、言い忘れていたが、俺達の写真は遠慮しなくて大丈夫だ」
「今言いますか? いや、傍若無人の双子ですからね、雰囲気なんて無いも同然ですものね」
「そうか、すまない」
「分かっていますよ。私は理解のある人ですからね」
……前言を撤回しよう。
彼らは一体何を話していたのか、聞きたい。
何があったのかを明一だけが知って、私が知らないというのは、何故だか酷く寂しい気がした。
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