戦争終結から数年、運命の相手を見つけたので魔王辞めて会いにいきます

ぱん

序章


 その鏡に映るのは、運命の人であるという伝承があった――


 埃をかぶったボロ布をかけられた鏡は、ある少年を映した。

 気丈で、優しく、誰にも等しく笑顔を向けられる高潔な人間だ。

 だからこそ、彼の傍にはいつも子供も大人も集まっていて、幸せが満ちている。


 ――ああ、いいな。


 思い立ったが吉日、少女の足は駆けだしていた。

 誰かはそれを無謀と笑うだろう。誰かは勇気ある行動と称賛してくれるだろう。

 それでも最後には、嫌悪の目を向けてくるだろうことは予想がついてしまう。

 自分が一番分かっている。


 ――わたしは、人間じゃないから。


「やめようよ、こんなこと」


 人里に踏み込み、擬態が解ければこうなることは承知の上だ。

 同盟を結んで数年、種族間でようやく打ち解けられたのは言葉上だけ。舌では良好関係を謳えども、その実、昔と何も変わっていない。

 差別感情、敵対意識、恐怖、不安、怒り――ないまぜになったどす黒い感情は、人々の中から消えることはなかった。戦争を味わった年齢では、決して忘れることはできないだろう。

 魔族の過ちを――人類の過失を隠すように伝播された、蛮族の歴史を。


「僕らは争うべきじゃない。先生だって言っていたはずだ」


 だが、それも昔のこと。

 今では理解ある若い世代が育ってきている。

 古い風習に飽き飽きし、新たな風をもたらそうとする改革の波はそこまで来ている。

 大人に紛れて政治に介入し、どうにか掴み取った希望は芽吹きかけている。


「他種族は人間じゃない。奴隷じゃない。憎き相手でもない」


 まだ小さい双角を隠していたツインテールを解かれた長い銀髪の少女は見上げた。

 自らに向けられた悪態飛び交う中、聖人のような清らかな声で前に立つ少年を、穢れの知らない蒼瞳に映すように。

 彼は言った。


「貴重な食糧エサなんだから、大事にしなさいって」


「――――…………………………………………………………………………え?」


 彼は、あの鏡で見た笑顔の美しい少年だった。

 悪人であろうと、善人であろうと、等しく手を差し伸べていたまるで聖人を絵に描いたような純粋な人間だった。

 けれども、今聞こえた言葉は何?


「ごめんね、アリス」


 彼は振り返り、呆けた顔の少女に――アリスへと笑みを重ねた。

 相も変わらず天使のような見た目は、さっきの言葉を聞き間違えだと訴えかけるようだ。

 しかし、この耳は確かに自分に向けた『食糧』という言葉をはっきり聞いてしまっている。


「そんな顔してないで。ほら、帰ろう」


 そう言って差し出す手は、言い知れない恐怖を連想させた。

 首輪がついているわけでもない。手枷も、足枷も、不自由なことは一切ない。ただひとつ、孤児院に入り込んだことで生活レベルが一気に落ちたことぐらいが不満であったというのに。

 たった今、ランキングを塗り替えられてしまった。


「どうしたの? ほら。僕がいれば大丈夫だから」


 悪気のない顔で、彼はアリスの手を掴んだ。

 触れた手のひらに温もりがあった。まるで心を溶かすような、自らに向ける意識に相違があったことを自覚させられながらも思考させない温かみが、そこにはある。


「……」


 甘い言葉にほだされるように、少女は立っていた。

 ツインテールを結び直すこともなく、道路に落ちたリボンを拾い集めるだけして、孤児院で支給されたワンピースのポケットに突っ込む。


「大丈夫そうだね。よかった」


 服についた埃を払い、またしても笑みを向けてくる少年は何を考えているのかわからなかった。

 ありがとう、と返そうと決めた次の瞬間には苦笑いになる表情筋をひきつらせ、やはり現実を受け止めきれないアリスはただ彼に手を引かれるしかない。

 なんで、こうなったんだろう。


「何か言った?」


「…………ううん、なんでも」


「そっか」


 こちらからでは背中しか見えずとも、彼が笑っているのがわかる。

 不思議だ。怖いはずなのに、震える足を止めることができない。止めれば最後どうなるのか、身体が勝手に解釈したのだろうか。懸命な判断だ。

 彼に会うため、たった一言『魔王辞めます』と書き置いて出てきた過去の自分を後悔した。

 こんなことなら実地調査をしつつ、人類側の現状を知るべきだった。

 ああ、そうか。

 老臣連中が人類との協和同盟を結ぼうとも、人里に近寄らせてくれなかった理由がたった今よく理解できた気がする。


「もうあの頃から、わたし達は食糧だったんだ……」


「そうだよ」


 歩きながら振り返る少年は、抑揚のない声をしていた。


「だから僕は、アリス。君を逃がすわけにはいかないんだ」


 立ち止まった彼に従い、アリスはその光の落ちた瞳を見上げる。

 同じ色のその瞳は、どこか悲しみを湛えているようだった。

 握られた手が、少しだけ痛む。


「いつか――」


 ――間隙を突くように銃声が轟いたのは、そのすぐ後だった。

 暗転する視界で温もりを感じ、嬉しさと同時に恐怖が身体を覆ったのを憶えている。

 ただし、それは一瞬。


「どう、して……?」


 次に目を覚ましたのは、埃をかぶったボロ布がかけられた鏡の前。

 王城執務室隠し通路奥地下実験場――初めてあの少年を目にした場所だった。



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