第一章

何でもない広場

――2021年 夏。


 ジリジリと照り付ける真夏の太陽の暑さは、年を追うごとに増しているような気がする。

 アスファルトで塗り固められた地面からはゆらゆらと陽炎が揺らめき、地熱温度は恐ろしい事になっているに違いない。更には道路沿いに等間隔で植えられた木や民家の庭に植えられた木々からは煩いほどの蝉の大合唱が繰り広げられていた。


 汗で肌に張り付いた白い半袖シャツに黒のズボン、紺色の学校鞄を肩にかけて家路についていた神代かみしろ みのるは、伝い落ちる汗を乱雑にタオルで拭い去った。


「あっちぃ……」


 タオルはじっとりと汗で湿っているし、鞄から顔を覗かせているペットボトルのスポーツドリンクはすっかり温くなってしまっていた。


 彼は中学三年生。志望校に向けての受験勉強が始まっている最中だ。滑り止めの学校も受験するつもりだが出来れば第一志望に受かりたい。だから早く家に帰ってエアコンの効いた部屋で勉強をしなければ。と、言うよりも単純に早く涼しい部屋に行きたかった。


「学校と家って何でこんなに遠いんだろうな……。校門出たらすぐ家だったらいいのに」


 あり得もしない事をぼやきながら歩き、そして何気なく視線を上げると、稔の身長よりも高いコンクリートの壁がずっと先の方まで続いているのが見えた。

 ここは、彼の家からほど近い場所にある、塀に覆われた広大な空き地だった。

 塀の中はシロツメクサが生える草原が広がっているだけの、何の変哲もない空き地。

 もともとここには大きな製紙工場があったらしいのだが、今はその建物は壊されて更地になっている。次に何が建つのかは未定のままとなっており、長い間放置されている。

 その壁沿いに歩みを進めているとやがて赤茶けて錆び付いた鉄格子の扉が現れる。そこから中を見ることが出来るのだが、子供たちが勝手に中に入らないよう扉にはしっかり施錠がされていた。

 

 閉鎖された空間。いつ頃からか、ここは近所の子供たちの格好の噂スポットにされていた。


――扉の向こうには別世界が広がっている。


 そんなあり得ない他愛無い噂話を鉄格子から中を見つめながら思い出す。


「明らかに何もないのに、本当、小学生って都市伝説とか怖い話とか好きだよなぁ……」


 ため息交じりにぽつりと呟く。

 そう言う自分も、その噂に心躍らせた一人であることに間違いはないと言うのに。


「とりあえず早く帰ろう。暑過ぎ」


 稔は温くなったスポーツドリンクを鞄から取り出して一口口に含む。


「……マズ」


 そうごちてから蓋を絞めて鞄に押し込み、その場から立ち去った。







 それからほどなく、稔が夏休みに入って間もない頃、東京に住んでいる親戚が家を訪ねてきた。母親の妹で、稔から見れば叔母に当たる人だ。叔母は一人息子を連れて来ていた。


「ごめんねぇお姉ちゃん。もうさ、旦那にムカついちゃって! 丁度夏休みだし、あいつほったらかしで息子連れて家出て来ちゃった!」

「えぇ? 全く……今度は何なの?」


 母と叔母の両親、つまり稔から見た祖母は2年ほど前に病気を患って亡くなったため、叔母の愚痴や相談する先は決まってここになっていた。

 何かあると電話やラインが入ったりするのだが、長期休みに入るとこうして泊りがけで一週間ほど滞在することも当たり前だった。


「稔兄ちゃん! 一緒にキャッチボールして遊ぼう?」


 甥っ子は小学三年生で、やたらと稔に懐いている。

 一人っ子だと言う事もあるのだろう。稔の事を本当の兄のように慕い、稔もまた自分に良く懐いてくれる甥っ子の事を可愛がっていた。


「分かった。いいよ。でも昼間は暑いから気温が下がり始める夕方にしよう」

「うん」


 聞き分けの良い甥っ子は、まだ幼さの残る笑顔で大きく頷いた。


 リビングで姉妹の賑やかな会話が弾んでいる間、稔は自分の部屋に甥っ子を招き入れて一緒にゲームをしたり話をしたりと、甲斐甲斐しく面倒を見ながら部屋で思い思いの時間を過ごしていた。そうしている内に、時間は過ぎていきやがて時計の針は17時を指そうとしていた。そろそろ陽も傾き気温が下がり始める時間だ。


 稔は甥っ子を連れて部屋を出て、リビングに顔を覗かせる。


「母さん。ちょっと公園にキャッチボールしに行って来る」

「分かったわ。暗くなる前に帰るのよ。ちゃんと面倒見てあげてね」

「分かってるよ」


 夏場は19時になってもまだ外は明るい。だが、時間的にも18時には帰ってきた方がいいだろう。

 稔は甥っ子と共に、グローブと黄色い柔らかめのボールを一つ持って公園へと向かった。


 公園はあの壁に囲まれた空き地の隣にある。森のように背の高い木々に囲まれた公園は日陰に入れば良い避暑地にもなった。

 稔は木の陰になる場所を選んで、甥っ子と共にキャッチボールを始める。


「あ!」


 何度目かのキャッチボールをしていて、つい軽く投げたつもりのボールが甥っ子の頭上を越え、よりにもよって木々の間をすり抜けて隣の空き地の塀の中に飛び込んでしまった。

 それを見た甥っ子はしょんぼりと肩を落として寂しそうに呟く。


「お父さんに買ってもらったボールなのに……」

「ごめん。俺が強く投げちゃったせいだ。とって来るからちょっと待ってて」


 稔はそう言って甥っ子をその場に待たせて公園を出ると、空き地の扉の前に立った。

 中に入ろうと思っても塀が高くて、足をかける場所も見つからないため、鉄格子の扉から入るしかない。

 幸いにも鉄格子のドアノブの辺りに足を斜めに入れれば登れそうな仕切りがある。

 稔は一旦周りを見回して、誰もいないのを確認してから仕切りに足をかけて地面を蹴り、鉄格子を登る。高い塀の上には有刺鉄線が張られているが、扉の上にはないため容易に乗り越えることが出来た。


 鉄格子の上から飛び降りる。

 あの噂に名高いこの空き地に、管理している人以外でここに入ったのは自分が初めかもしれないと思うと、ほんの少しドキドキした。


 辺り一面シロツメクサと緑の草原が広がる。鉄格子の外から見てもかなりの面積と分かるのに、こうして実際中に入ってみるとその広大さはハンパなかった。


「すげぇ……小学生の言う別の世界って言うのもあながち嘘じゃないかも」


 完全に四方を壁に囲われた空間。

 少なくともこの辺りに住む同い年くらいまでの子たちは誰も知らない広場の内側に踏み込んだことが、少しだけ達成感があり誇らしく思えて来る。

 何の変哲もない空間なのに、一気にそこは自分だけの秘密基地のような気持ちにさせた。


「こんなワクワクするの、久し振りだな」


 そう呟きながらも、稔は公園の方へ視線を向けて自分がボールを投げた方角を確認し、おおよその目測でボールが墜ちた地点を割り出しその辺りの草を掻き分けて探し始める。


「ないな……。この辺りだと思うんだけどな」


 想定していた場所以外の場所も探してみたが、一向にボールは出てこない。

 思った以上に遠くに転がって行ったのかもしれないと、稔は範囲を広げてボールを探し始める。

 黄色いボールだ。幾ら草の影に隠れたとはいえ目立たないはずがない。

 目を凝らしながらボールを探していると、ふと目の前にぽっかりと口を開けた大きな穴と下へ続く階段が現れる。中は暗くて良く見えないが、遠くで水の音と涼しい風が吹いてくる。


「まさか、ここに入ったのか……?」


 階段を下りずにその場にしゃがみこみ中を覗き込むが見えるはずもない。

 いつもなら止めるところを、甥っ子の悲しそうな顔が頭を掠めるのと同時にこの穴の先に何があるのか強い興味をそそられているのも事実。


 誰もいないのは分かっているのだが、もう一度周りを見回して再確認をした後、稔は高鳴る鼓動を感じながらゆっくりと石造りの階段を降りていく。


 ひんやりとした空間。真っ暗で先は何も見えない。


 稔は持っていたスマホでライトを点け、辺りを見回してみる。視線の先は真っ暗な闇しかないが道はずっと続いているようだ。どこまで続いているのか分からないが、とりあえず先まで歩いて行ってみる。すると甥っ子のボールが転がっているのが見えた。


「あ、やっぱりこんなところにあったんだ」


 稔はボールを取ろうと手を伸ばして身を屈める。すると何か壁のようなものに頭をぶつけた。

 痛いと言うわけではなく、分厚いゴムに押し返されるような感触に一瞬体がよろめく。


「な、何だ……?」


 稔は目には見えない壁に目を向ける。

 確かに向こう側が見えているのに壁がある。触るとゴムの手触りでそれ以上進むことが出来ない。


「どんな仕組みになってるんだ? これ……」


 稔は不思議に思い、端から端まで隙間が無いか触ってみるがどこに触れてもそんな隙間がある感触はない。

 目の前の見えない壁をもう一度見上げ、稔は短いため息を吐いた。

 諦めたようなそんなため息のようでもあるが、当の本人の胸はどうしようもないほどワクワクしていた。怖いと言う感情はない。むしろそんなもの飛び越えて興奮していた。


「マジでヤバイ……。向こう側どうなってんのかめっちゃ知りてえ……」


 そう思いはするものの、これ以上向こう側に行く術は見つからない為、渋々今日は帰ることにする。甥っ子がボールを待っているのだ。


「また来るか」


 稔が後ろ髪をひかれつつも渋々この場を立ち去った。そして誰もいなくなった地下の壁がゾロリ……と動いた。

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