第6話 ペットボトル
橙色の陽光が消え、夜の帳が下りようとしている。
僕は道路を横切ると、立ち漕ぎをして《ひだまりハイム》へと急ぐ。
立ち漕ぎをしたからといって速度が上がるのか疑問だけれど。
見えてくる《ひだまりハイム》。
するとアパートのゴミ捨て場に誰かがいるのが見えた。
可愛らしい水色のワンピースを着ているそれは、まるちぃ。
彼女はゴミ捨て場の壁に張ってある分別表を、じっと見ているようだった。
立ち漕ぎも止めて徐行運転となっていた僕は、まるちぃの後ろをゆっくりと通り過ぎていく。
ゴミ捨て場とアパートの入り口を過ぎたさきにある自転車置き場に着くと、静かに自転車を止めた。
僕は深呼吸をする。
緊張感を和らげるためだった。
少し鼓動が落ち着いたのでゴミ捨て場を横目にする。
まだまるちぃは突っ立っていた。
すると小さく首を傾げる。
その仕草は、汚れた古布は《燃やすごみ》なのか《古紙・古布》扱いなのか迷っているかのようでもあり、または、雑紙の分別の注意書きを読んで、「雑紙って何? 雑誌じゃなくて?」と悩んでいるようにも見えた。
しかしどうしたものか。
早く部屋に戻りたいけれど、そうなるとゴミ捨て場の横にある入り口まで歩いて行かなくてはならなくなる。
その間にまるちぃが分別表を見るのを止めて部屋に戻ろうとすれば当然、僕と視線を合わすことになるわけで。
いやいや、別に合ったっていいだろ。
どうせ、向こうは僕のことなんて覚えていないんだから。
合ったら合ったで、会釈でもして早歩きで部屋に戻ればいいんだ。
……よーし。
僕はもう一度、深呼吸をすると歩き出す。
一歩二歩と歩く足は、まるで雲の上を歩くかのように危うい。
深呼吸をして落ち着いたとはいえ、まだ緊張感は持続中である証拠だ。
ところでまるちぃは、相も変わらず分別表と睨めっこをしている。
そのまま僕が部屋に戻るまで見ていてくれればいいのだけど……なんて思った矢先、彼女は僕に顔を向けた。
心臓が飛び跳ねる。
距離にして三メートル。
確実に僕が隣人の須藤なんちゃらだと気づいたはずだ。
僕は予定通り会釈をすると、ギアを二速から一気に四速へと上げる。
しかし――、
「あの、すいません」
まるちぃの僕を呼び止める声で、ギアは強制的にパーキングへと入ったのだった。
「はいっ?」
情けないほどに裏返った声が出る。
なぜ普通にできないのかと憤りを覚えるほどだ。
「ゴミの分別で分からないことがあって、ちょっと教えてほしいんですけどいいですか?」
「え? あー、僕に分かることでしたらなんなりと。ゴミの分別でしたらけっこう得意なんで」
なんだ、その得意って。なんで余計なことを口にするんだよ。
普通にしろよ、僕。
しかも得意などと言いながら実は分からないことのほうが多いという現実が、僕の額に汗の玉を浮かび上がらせる。
頼むから分かる範囲で聞いてくれ。
例えば燃やさないごみと粗大ごみの違いとかで――
と、どこぞの神に祈る僕。
ややあって、まるちぃがその小ぶりな口を再び開く。
「あの、ペットボトルってプラゴミですか」
コケそうになるほどレベルの低い質問だった。
分別表を穴が空くほど見ていたのに、そこは見逃していたのだろうか。
「いや、ペットボトルはペットボトルの日、えっと月に一回ですかね……にまとめて出すんですよ。その際はキャップとラベルを外してから中を水洗いしてつぶして下さい」
「あ、そうなんですか。ペットボトルの日なんてあるんですね。わざわざありがとうございました」
「あ、いえ」
ぺこりと丁寧なお辞儀をするまるちぃが入り口へと入っていく。
僕も行きたかったけど、今行くと連れ添っている感じになってしまうので少し時間を置くことにした。
しかしやはりというか、まるちぃは僕が《にくきゅーフレンズ》にほぼ週一で通っているご主人様ということには気づいていないようだ。
それもショックだけど、はじけるような笑顔は鳴りをひそめて、単なる隣人に対する淡々とした塩対応も心を抉る。
もちろん、今のまるちぃは《にくきゅーフレンズ》のにゃんメイドではなく、キセさんであるからそれも当然なのだけど。
そういえば下の名前はなんていうんだろ。
僕はもしかしたら、と集合ポストへと足を向ける。でも――、
「……だよな」
三〇五号室のネームプレートには黄瀬としか書いていなかった。
そして僕はこのとき、キセが黄瀬であることを知った。
自室に戻ると僕はベッドに横になる。
息をひそめてじっとしていると、三〇五号室から物音が聞こえたような気がした。
椅子にでも座ったのかな。
何か物でも落としたのかな。
それとも僕と同じようにベッドに横になったのかな。
だとするとベッドはこの壁のすぐ向こう側なのかもしれない。
ということは、パーソナルスペースは個体距離の範囲内だ。
それは壁がないと仮定すれば手を伸ばして指先が触れ合うくらいの距離で、僕は壁へと手を伸ばすとその壁を撫で――
「やめろやめろ、何やってんだ、これじゃキモオタじゃんっ。彼女はまるちぃだけどただの隣人っ。その認識でいろ、僕っ」
と言いながら、下着姿でベッドに横になっているまるちぃが脳裏を過る。
これはまずいと僕はベッドから跳ね起きると、その日のうちに模様替えをしたのだった。
もちろんベッドは反対側へと移した。
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