恋が醒めないうちに……。
誕生日に風邪なんて、神様も趣味が悪い事をするな。
電話越しに咳き込む声を聞きながら、すでに脳内では風邪を引いた彼女へ買っていく物をリストアップしていた。家に行くと伝えれば、最初は遠慮していたものの、よっぽど弱っていたのか、「お願いしてもいいですか……?」と控えめな声が返って来た。
アパートのドアから顔を出した彼女の頬は火照っていて、思った以上に辛そうな様子だった。今にも倒れてしまいそうな彼女を病院へ連れて行くと、消毒液や薬品などの混じった独特な匂いに包まれて、少しだけ懐かしい気持ちになった。
『
蒸し暑い、夏休みの真っ只中。小学生の頃だったか。歳の離れた弟が夏風邪をこじらせた。ドリルを解く手を止めて母の方を見ると、ぐったりした弟が抱かれていた。重い咳が止まらず、ぜえぜえしていて苦しそうだった。
『おれもついていく』そう言ったのは、体の弱い弟が帰ってこないような気がして怖かったからだ。風邪知らずの自分と違い、弟は昔から病気がちで入院することも何度かあった。母にべったりで甘えん坊の憎たらしい弟だが、苦しそうな顔を見ると、死んでしまったらどうしようという漠然とした不安に駆られたのだ。
その日は、弟と一緒に家に帰ることができた。ほっとしたものの、その後も弟が病院へ行く度に必ずついていった。ツンとする薬品の匂い、忙しなくあちこち行ったり来たりする看護師たち。自分だけ時間が止まったように、弟が帰ってくるのをずっと一人、待合室で待っていた。
家族に限らず、大事に想っている人が弱っていると、心臓が変な鼓動を打って、苦しくなる。今日、彼女に電話をかけなければ、弱っている事にも気が付かなかっただろう。
ただの飲み仲間には、彼女を近くで支えてやることはできない。同じ職場の後輩ならば、彼女の些細な変化を見逃さずに、何かあればすぐ傍にいて助けてやれる。
待合室で待っている間に、短い夢を見た。
交際したことを報告した岡部と久保田の顔が徐々に変わっていき、彼女と後輩の顔に変わる。
『やっぱり彼と付き合う事にしました。山崎さん、これからは二人で飲めなくなっちゃいますね、ごめんなさい……』
『そうか、おめでとう。幸せになれよ』
(俺は、またこうして見送る側に回るのか……? 「彼女が幸せならそれでいい」なんてかっこつけて……。本当にそれでいいのか?)
(もう、そんなの御免だ……)
「山崎さん」
夢の中と同じ声で、彼女が呼ぶ。悪夢から現実に引き戻される。点滴を打って休んだおかげか、少しだけ顔色が良くなっていてほっとした。
薬を飲んで横になった彼女は、その後ぽつりぽつりと、最近起きた事を話し始めた。
二人で酒を飲むとまず近況報告になる。後輩が成長した話や、仲の良い同僚の話を、表情をコロコロ変えながら楽しそうに話す彼女を、微笑ましい気持ちで見ていた。だが、今日はいつもとトーンが違った。耳をすますと、後ろで、静かに鼻をすする音が聞こえる。
きっと後輩の前で気丈に振る舞っている裏側で、色々と悩んでいたのだろう。先輩も、後輩の自分には見せない裏側があったはずだ。
うさぎのように目を真っ赤に充血させた彼女を見て、思わず抱きしめたくなる衝動に駆られたが、ぐっとこらえた。弱っている隙に入り込むのは、柄じゃない。
いつものように、背中を押してやる言葉をかければ、たちまち彼女の瞳は生気に満ち溢れ、いきいきとする。そして、こちらを真っすぐ見据えて、いつもの凛とした笑みで言った。
「私、山崎さんに出会えて良かったです」
不意打ちだった。咄嗟に言葉が出てこなかった。
彼女の表情や言葉が矢になって胸に刺さる。抜けない程、深くそれは心の奥深くに潜り込んでいった。
甘い傷口から、今まで抑えていた感情が一気に溢れ出す。
本当に、敵わない。
好きだ。どうしようもない程に。
どんなに打ちのめされても、必ず前を向いて歩きだす。その姿を支えたいと思っていた。でも、支えられていたのは自分の方だった。
彼女がいたから、何事も踏ん張る事ができた。屈託とした笑みを見るだけで、日々の疲れから解放されて、その度にまた会いたいと思った。
「……やっぱり、敵わないわ。玲さんには」
冷静になって、余計な事をうだうだ考え始める前に、この気持ちを伝えたい。
結婚式が終わったら、先輩と向き合って、この未練を完全に断ち切る。
そして帰ってきたら、彼女に好きだと伝えよう。例えどういう結果になっても。
安らかな寝息を立てる彼女の前髪を梳く。まだ熱の残る額に手を重ねると、気持ちよさそうに頬をすりよせてきた。胸の奥でざわつく欲望を、なんとか理性で抑える。
早く良くなれ、そう思いながら、冷却シートをそっとはりつけた。
「玲さん、北海道から帰ってきたら、あんたに伝えたい事がある」
「ん……」
無防備に眠る姿が、愛しくて頬が緩む。
「仕事、頑張れよ。あんたならできる。俺はずっと応援してるから」
彼女を起こさないように、静かにドアを閉める。夏の空は眩く、どこまでも青く澄んでいた。
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