チェイサー ~千田薫の奮闘記~

 ベルトの上に乗る弾力のある贅肉、握るとどこまでも伸びそうな二の腕、境目のわからない首と顎。そしてサイズが合わなくて鼻当てがキツい眼鏡。

 鏡を目の前にすると情けなくて涙がでそうだ。でも、変わると決めたからもう目はそらさない。


 千田薫二十二歳、社会人一年目。貫禄はベテラン並み。今までつけられたあだ名はほとんど食べ物。マシュマロ王子、歩くいちご大福。色白で赤面しやすいことと、スイーツに目が無いことからそう呼ばれていた。今まではただ笑って許していたけど、それもいい加減卒業だ。


 なぜなら、運命の人に出会ったから。


*** 


 出会いは一年前。大学四年生の頃。

 就職活動が始まって、皆と同じようにスーツにネクタイを締め、千田は魚群に紛れるようにして遅れをとるまいと必死にあちこち歩き回っていた。

 説明会、インターン、合同面接、また説明会、OB訪問、グループディスカッション。同じ格好を求めるくせに、内面は差別化しろと求められる。

 息切れしながら、一生懸命ついていったつもりだった。でも、いつの間にか周回遅れだと気が付いた。千田の周りは気づけばとっくに最終面接や内定といった言葉で溢れていた。がむしゃらになればなるほど、遠ざかる。千田は茫然自失の状態で、半ばヤケクソになって応募したとある企業の説明会会場へ足を踏み入れた。


 会社の説明が終わると、数人の男女が前に出てきた。スケジュールには若手社員との座談会と書かれている。まずは一人ひとり、就活時代の経験や入社のきっかけ等を話し始めた。

 大学時代のサークルでの経験を活かしたアピール、バイトリーダーで後輩から慕われた話、どれも千田が経験してこなかった輝かしい表舞台の話ばかりだった。入社のきっかけなんて、結局「やりがい」等と言っておきながら本当は大手のブランド欲しさだったり、福利厚生の充実だったり、そういった自分にとって美味しい所を隠しているだけだろう。


 (一応エントリーシートだけでも出して様子を見よう……どうせ今回も駄目だろうけど)


 早くも企業へ提出するエントリーシートの文言の使いまわしを頭の中で構築し始めた時、千田の荒んだ心に、凛とした声が響いた。


 「○○部しょじょくっ、所属の、吉井怜ですっ」


 艶やかな黒髪をひとつにまとめ、弓のようにしなやかなカーブを描いた眉が斜めに流した前髪から覗く。凛とした声の持ち主は、盛大に噛んだことを気にする素振りも見せず、ただ自分達を真っすぐに見ていた。

 そして彼女が真っ先に話し始めたのは、大学時代の栄光でもなく、全敗続きだった就職活動の失敗談だった。


 (あんな人でも就活上手くいかないことがあるんだ……)


 その後の質疑応答の時間は、学生達が若手社員に好きなように質問に行くという時間だった。大学時代の成功体験を自慢気に話していた社員には、同じように大学時代で成功体験を積み上げてきたであろう勝ち組気取りの学生が並ぶ。

彼女の近くにも、真面目そうな女子学生が何人か並んでいた。意を決して千田もその後ろに並ぶ。


 そしていよいよ自分の番が回ってきた。

 手は汗でびしょびしょだし、背中にもじっとりと汗の染みが出来ているのを感じた。恥ずかしい。帰りたい。でも、なぜかこの人から勇気をもらいたい、そんな気持ちが強く自分の中で生まれた。


 「あ、あのっ…」


 彼女は、そんな自分を嫌がったり馬鹿にするでもなく、ただ真摯な目線で向き合ってくれる。


 「失敗続きの僕も、あなたみたいになれますか?」


 俯きがちだった視線を、ゆっくり上げる。知的そうなこげ茶色の瞳と、目が合った。額に汗の粒が浮かぶ。

 彼女はそんな自分に目線を合わせて、はっきりと、言い聞かせるように告げた。


 「もちろん。失敗を味わった人ほど、逆境に負けない強さがあると思います」

 「ぜひ、同じ場所で働けるのを心待ちにしてますね」


 帰り道、電車に揺られながら、千田はずっと彼女の言葉が頭の中に残っていた。それは先が見えない真っ暗闇の洞窟のような心の中に、ぽつんと明かりを灯したようだった。


***


もし、あの人に再び会うことができたら、こんなみっともない姿は見せられない。そう思い、まずはこのだらしない体型を変えることを始めた。


 食事制限、ジョギング、スイーツ禁止令、また食事制限、ジョギング、筋トレ。厳しい就職活動を乗り越えてきた千田には、好物のスイーツのように甘いくらいだ。

 スーツに乗る腹の肉が次第に少なくなり、もはやサイズが大きく感じられるようになった頃、念願の辞令が出された。

 欠員補充のための異動。それが意味するのは、彼女との再会。


 再び会う頃、彼女はきっと自分のことなど覚えていないだろう。でも、少しでも彼女の側で力になれるなら。


 初めて部署に出社する朝、今ではすっかり緩くなってずり落ちてくる眼鏡をずらして、まだ慣れないオフィスの扉を開ける。

 

 二年越しに再会した彼女は、ショートカットが良く似合う、大人の女性になっていた。胸の内に秘めた意思の強さを映すような、揺るがない瞳は、あの時と同じようにただ真っすぐ目の前の千田を向いている。


 この日を待ち望んでいたのに、いざ目の前にすると言葉が出ない。

 喉が渇く。心拍数が上昇する。

 あの、と口を開きかけて、喉がつまる。大丈夫、ここまで来れたのは、あなたの言葉があったから。


 「千田、薫と申しますっ……」


 課長の陰に隠れて、少しずつ前にでる。スポットライトを当てられたように、彼女の視線が注がれるのが、より緊張をヒートアップさせた。


 この止めようのない心臓の高鳴りが、いつか、収まる時がくるのだろうか。


 (もし、その時が来たなら、僕は……。)

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