エレジー

@yasnagano

エレジー

エレジー                  小田 晃

(1)

田村文男は、歳を重ねるにつれて深い憂鬱に襲われことがおおくなった。この数年間特にそうだ。夜は殆ど眠れない。どうやら生きていくための基本的な心身の仕組みに本格的なガタが来ているようだ。騙し騙しやって来たが、医者の意見も聞いておくか、と文男にしては珍しく総合病院の門をくぐった。

問診の後、MRIの検査をするというので、何だか大げさなことになってきたな、という想いと同時に、何やら嫌な予感めいたものが頭の中を駆け巡った。何時間か待たされて、その日のうちに検査結果が出るのだという。昨今は随分と医療も進んだものだ、と感心して診察室に入ったら、担当医はそれが患者にとっては気が楽だと謂わんばかりの、気楽な態度で癌宣告をしてくれたのだった。肝臓がんのステージ4だというではないか。抗癌剤は信用していなかったが、何しろ手術では患部をとり切れないほどがん組織は肥大しているのだとも説明された。疲れやすかったり、食事の後もどしたりしませんでしたか?と聞かれたが、疲れやすいのは自分に向かない仕事を永年やってきた結果の体調の不具合だと思っていたし、嘔吐しそうになると、市販の胃薬で何とか抑え込んで来たわけで、まさか残された日々もそれほどない、と聞かされたのは予想外のことだった。しかし、翻って考えてみると、これから先の人生、永く生きても歓びが感じられるようには思えなかったので、やっと休めるのか、という安堵完に似た感覚が襲ってきたのも否定出来ない事実だった。

 とは言え、どうせ人間は死を免れることなど絶対にないのだし、また、いつ死を迎えるにしても満足してこの世を去るなどというのは、そうでも自分に言い聞かせないと死を受け入れることが出来ないのだろうと常に考えて来たが、自分の身体の中で癌細胞が増殖しているのを想像すると気持ちのよいものではなかった。自分の命の確実な終焉と対峙してみると、これが意外に冷静に受け止められず、妙に心がざわつくのである。そうかと言って、特に慌てふためくような心境でもない。自分が人並み優れた特別な感覚を持った人間ではないのだから、きっと癌告知された多くの患者が抱く、これが平凡な感情なのかも知れないと、フッとため息をつきながら文男は想う。これまで自分を生かしてくれた数々の出来事や出会った貴重な人間たちがいなければ、いまのような冷徹な自己分析は到底出来なかったことだろう。自分の本性がどれほど凡庸なものかを知ったのは、掛け替えのない人々と過ごした日々からである。それは文男にとってありがたく、同時に酷薄なことでもあった。

今年は冬の到来が早く、小雨と交じり合った粉雪がすでに舞っている。やはりこの歳になると寒さが堪えるなと、大学病院からの帰りの道すがら、コートの襟を立てながら文男は独り言ちるのであった。

(2)

 妻には胃腸炎だとウソをついた。自分には妻の多恵を心配させまいとか、行けるところまで自分のウソをつき通そうと云う固い信念があったわけではない。それよりも末期癌だと妻に告げて右往左往されるのが面倒だな、という気分がその時の文男の正直な気持ちだった。そしてさらに言うなら、自分と多恵との関わりのあり方が、妻に心配をかけまいとする平凡な夫として、文男に素直に病状を言わせなかったのかも知れない。

文男は60歳定年を延長して非常勤講師として、京都の府立高校に勤めてきた国語の教師だった。気がつけば65歳になっていた。年が明ければリタイアしてずっと考えてきたことでもやるか、と思っていたが、どうやらそれもままならなくなった。

自分が何故教職の道を選んだのかは、親の影響が大きかったと思う。両親ともに教師で、自分も何となく京都の教育大学に籍を置き、生まれ育った神戸に帰るのも億劫で京都に居座るカタチでの教員生活だった。年が明けて仕事をリタイアしたら自分の青年期を過ごした故郷の神戸に帰って人生をスローに生きてみようと思っていたが、自分にはもうそれほどの時間が残されていないことを突き付けられたわけである。

―永くて数か月後にはオレはこの世界から去るのである。

そう思うと、自分に残された時間をどのように完結させればいいのか途方にくれた。妻との長年に及ぶ夫婦生活にも想いを馳せたが、何故かこの場に至って、結婚当初の混乱した妻に対する屈折した愛も、年月の流れとともに成熟し、静やかなものに変化していたのに、どうしても素直になれない自分が執拗に居座っているのが分かる。

いま、人間どうしの関係性も、死がすべての終わりなのだ、と云う酷薄な事実を再認識させられている。だからこそ、死を目前にすれば、改めて思い返すこともたくさんあるはずだと思っていたが、人間の脳髄に張り付いて剥がれない記憶なんてたいして残っていないことや、何が重要で何がどうでもいいことなのかも区別がついていないことに文男は改めて思い至るのだった。そのような想いの中で、記憶の断片としてでも明らかに自分に影響を与えていることは一体どのようなものなのかを文男は改めて考えてみることにした。

妻はいつもと同じ日常生活の中で、キッチンで夕食の準備に余念がない。いま、自分の脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かぶあの過去の出来事を妻は忘れ去ってしまったのか?言い知れぬ違和感の中で、いまの落ち着きはらった日常生活に対して私は空虚感とも絶望感とも云える感情を抱かずにはいられない。しかし、穏やかな生活のルーティーンが、あたかも医者に宣告された癌告知などなかったかのような錯覚さえ抱かせる。そして、自分のいまは過去と何の関係もなく在るのかも知れないとも感じるのであった。日常生活とはかくも不可思議なものだと、ぼんやりテレビを観るともなく眺めながら、自分と妻に起こったこと、自分の蒼き青春の頃の出来事に想いを馳せた。

(3)

 文男が神戸の進学校と云うことになっている高校に入学した1969年の日本は、安保改定闘争の真っ只中だった。確かに高校にも政治的な波が押し寄せて来てはいた。極左(当時もいまも何が極左なのか文男には分からなかったし、そもそも政治的運動に大した興味を抱けなかった。旧左翼の民青との比較論で極左と言うのであれば、それも違う気がしていた)を標榜する大学生たちが高校生をそそのかし、学校内は無法地帯に近い状態だった。あるいは真空地帯のごとき様相を呈していたと言っても過言ではなかった。しかし、神戸の進学校に属する公立高校に入った文男にとって、もし、この種の混乱が起こらなかったら、毎日の学校生活は退屈で時間の浪費にしか感じ取れないものに思えたことだろう。

 高校一年生になって、そろそろ秋の兆しが訪れようとしている二学期の初めに、一人の転校生が文男のクラスに入って来た。担任が紹介している間、信田幹雄は、教壇にすっくと立っているが、それが癖なのか、左肩を少し下げているのがやけに文男の印象に残った。信田は手短に、目立たぬ自己紹介をした。彼は背が高く、スラっとしてはいるが、よく鍛えられた筋肉質な躰であることはすぐに見てとれた。なかなかの美男子でもあった。文男はえらいのがやって来たなと、理由もなく身構えた。たぶん、この時から文男は幹男から受けることになる言い知れぬ程大きな影響力の予感を無意識に感じ取っていたのかも知れない。

(4)

青少年期を過ごした神戸の下町の、特筆すべき特徴のない、その当時のありふれた街並みや、自分が市電に毎日乗って通学していたことがつまらない記憶として思い出される。あるいは高一の頃に同じ市電に途中から乗ってくる二つ年上の、同じ学校の女生徒に夢中になっていたことも理由など分からないが記憶の断片として蘇って来るのが不思議だった。

文男の目の前に立っている彼女のスカートが市電の揺れに伴って動く度に、彼女のスカートのヒダの中に顔を埋めていたい衝動を捉われていたような妄想が、文男にとって重要ないくつかの重要ないくつかの出来事と入り混じって思い出されるのが、不可思議としか言いようがなかった。このような記憶の混濁とも云えることが蘇って来ることに何とも情けない自分の本質を視る想いがする。とは言え、この種の出来事は、文男がまだ自分に人並み以上に優れた能力があると錯誤していた頃の淡い思い出の断片である。

 決まり切ったことを、多少の気分的な変動があるにしても、それなりに決まりきった学校のカリキュラムに沿ってこなしていけば、大学には進学出来るものだろう。もし、受験勉強に努力という概念が入り込むとすれば、それはありきたりの検定教科書を授業という場面で、教師から意味もなく無理やり聞かされる退屈な日々の<儀式>を耐え抜くことではないか、と利発な文男は感じ取っていたのである。こういうことを見抜いている自分は結構鋭敏な頭脳を持っていると自負していたフシさえある。ただし、この種の手前味噌な自己満足も幸か不幸か、信田幹雄が文男の人生の中に登場してから全て打ち砕かれることになるのである。

 ある日の退屈な数学の授業中の出来事は、いまでも鮮明に覚えている。教科書の数式の説明を板書しながら、のっぺりとした時間(としか感じられなかった)の中を数学教師の声が支配していた退屈な感情を押し殺せず、文男はノートをとるフリをしながら教室のまわりをぼんやり眺めまわした。

 その時、斜め後ろの信田幹雄の姿が視界の中に入った。信田は机に向かってノートをとっているのかと思いきや、彼の鉛筆の動きの速度がみんなとはまったく違うことに気がついた。ともかく手の動きがゆっくり過ぎるのだ。到底授業の板書をしているようには思えない。ゆっくり、ゆったりと何かをノートに書きつけているように文男には見えた。それからは信田の授業態度に釘付けになった。授業が替わっても信田の鉛筆の速度はまったく変わるところがなかったのである。

(5)

 午前中の授業が終わり、メニューは麺類とカレーしかない粗末な学食で信田の姿を見つけると、文男は思い切ってカレーを食べている信田の前に座った。天ぷらそばとキツネそばをテーブルに置いた。文男の昼食はいつもこれだった。天ぷらそばを食べ終わると、残ったつゆをキツネそばにかけて食す。少なくとも行儀の悪いこの食べ方が当時は絶妙のそば通の食し方だと文男は勝手に思っていた。

―君はおもしろい食べ方をするんだなあ。いやー、実におもしろいな。

信田の言葉のイントネーションは、九州訛りが混じった関西弁だが、それが文男にはかえって新鮮で心そそられた。

―君、信田くんだったよな?オレは田村文男。ここのカレーまずいやろう?

―君のダブルそば食いね。明日から僕もやってみるよ。確かにカレーはうまくはないな。

 たぶん、これが信田幹雄と語った初めてのありふれた会話だったと思う。この時以降、文男と信田幹雄とは特別な関係になった。友人というのではない。文男にとって幹雄を友人と呼ぶには自分があまりに幼いのではないか、といつも思い知らされるからだった。信田は高校一年生にして、圧倒的なおとなの男だった。文男には未体験の世間の空気を躰全体に纏っている存在だった。対等な関係の友人関係になりたかったが、そんな関係性を信田自身が望んでいないのではないか、と文男は勝手に思い込んでいたのである。自分に出来ることは、信田が授業中に書いていることを誰にも邪魔させないことだ、と心に決めた。どこかで自分の、この特別な想いが信田に通じるのではないか、と信じたかったのかも知れない。幸い自分がクラス委員長だ。教師が信田に目をつけたら自分なりの抵抗を、彼のためにしてやらねばならないと心の底で固く誓っていることに気づき驚いた。

(6)

  高一の秋頃から、私たちは互いに<信田>、<おまえ>と呼び合うようになった。私のことを信田が<おまえ>と呼んでもそれが身分的な上下関係だとは思えなかった。たぶん、信田の生まれ育った筑豊の地では男どうしの気心の知れた仲間は、オレ、おまえと呼ぶ習わしのようなものがあったのだろう。信田は私たちの関係性が深まるにつれ、自分のことを僕とは言わず、オレと言うようになり、私は信田のことをおまえとは呼べず、信田と呼ぶのが習わしのようになっていたのである。それだけ彼は私にとって圧倒的な存在だったのだと思う。どの一部分を切り取っても信田にかなう要素は私にはなかった。

1970年は、私たちの高校でも授業が数か月もストップし、たまに教師が授業のために教室にやって来ても、大学から入り込んだ偽高校生が中心になって「なんのために退屈な授業をここにやりに来ているのか、その理由をおまえの過去の総括を含めて述べてから授業をすべきだろう!」というような、いま思い出せば噴飯ものの暴論がまかり通っていた。しかし、こんな馬鹿げた挑発を怖がり、教師たちはすごすごと教員室に引き上げて行ったのである。想えばおかしな時代だったと思う。

 信田と私は、運動場で全校集会が行われている途中から学校を抜け出して、学校付近の商店街にあった喫茶店で駄弁ったことが始まりで、信田は自分のことを大人びた調子でかなり詳細に語るようになった。学校を抜け出すことが当たり前の時代であり、現代の学生たちが真面目に授業や講義を受けていることと比較すると、たぶんあの当時の出来事の殆どすべてが現代の若者には想像出来ないことだ、と思う。

時代が高揚していた状況の中においても学生運動は徐々に沈静化して行った。しかし、信田と私の喫茶店通いは変わることなく続いたのであった。

(7)

 信田幹雄が神戸の高校に転学してきたのは、母を頼り、妹を連れて夜行列車でこちらに来たからだ。信田の実の父親は筑豊炭田が日本の経済を底支えしている時代から、炭鉱で働く男たちが通う遊郭の一つを経営していた。当時はかなり裕福な生活だったと云う。色街で育った信田が大人びた空気を帯びたのは、幼い頃から性を紡ぐ女たちに囲まれて育った環境ゆえだったのではないかと思う。

 信田が生まれた1953年には、筑豊炭田という日本最大の炭鉱町もそろそろ斜陽の時期に入りかけていた頃である。彼が小学校に入るのを境に、石炭産出第一位を北海道の石狩炭田に譲り渡す環境下にあった。筑豊炭田の衰退と伴に徐々に炭鉱労働者たちが筑豊地方から去り、信田の父親が経営する遊郭も衰退していった。信田が中学生になったときに両親が離婚し、母親は自分が生まれ育った神戸に子どもを残して独り越して行った。父親は商売が傾くにつれて酒浸りになり、遊郭を閉めると間もなく自死したのだと聞かされた。1969年に信田が妹を連れて、母親を頼って神戸にやってきたのは父親の葬儀の後すぐだったそうだ。

 神戸の市営住宅に住んでいた母親はすでに再婚しており、相手はタクシー運転手だった。信田から聞いたのは、義父とは最初から折り合いが悪かったということである。

時代的な背景があったにせよ、私が文学や哲学の裾野に分け入ったのは信田の舌を巻くほどの読書量の影響からである。当時の私は信田の読んでいる本を片っ端から真似て読んだ。理解不能な内容が殆どだったが、本の中のキーワードを拾い上げては信田の話に合わせようと必死だったのである。要するに私はエセ読書家だったと言わざるを得ない。彼との話が少しでも噛み合うように私なりに頑張っただけである。信田に対抗心を燃やしたわけではない。正確に言うと、私は信田の使う言葉や、左肩を少し下げてぎこちなく歩く姿が好きだったのだ、と思う。私があんな男になりたいと云う憧憬の的が信田幹雄だった、と今更ながら思うのである。

(8)

 1970年が終わろうとしていた。学生運動も急速に下火になり、訳の分からない熱気に翻弄された多くの同級生たちが単位未終了のために高校を退学していった。授業時間が足りないことを理由に、留年か退学かの選択を迫られた末の出来事である。信田も高校一年で退学してしまった。彼の場合は学生運動の影響というよりも、むしろ義父との折り合いが悪く、家を出たことで自分で食い扶持を稼がなくてはならなくなったからだと聞かされたが、私にはどこか腑に落ちないものがあった。

私の通っていた高校は、夜間高校と校舎を共用していた。信田は、夜間高校に通うことになり、私と彼との奇妙な関係性はやはり続いていたのである。信田は真夜中にバーテンダーのバイトをしながら生活し、昼頃起きて、夕暮れ時に学校にやって来た。信田とすれ違い、短い会話を交わした後、一旦帰宅し、退屈な宿題を済ませて彼のアパートに通うという私なりの日々が続くことになる。

(9)

 信田は大人びては見えるが、私にはあどけなさが消えない好青年だった。バーテンダーの仕事もソツなくやれたのだろうし、生活も大人のそれと変わらぬ賃金でまかなえていたように思える。その意味でも彼はますます私には追いつけない男になっていった。彼の文学的才能と彼が直面している現実とがどのように両立しているのか、実際のところ文男には謎であった。しかし、文男には信田という男は謎のままにしておくのが似合っていると思えた。

 信田が退学してからも、彼のアパートに出入りしていたのは勿論私だけではない。男女含めて、十人くらいは常時居ただろうか、と記憶している。その中で、どうしても私の記憶から抜け落ちない女性が二人いた。理由は私が憧れていた女性だったからである。一人は文学少女(もはやこういう単語はいまや死語だろうが)の早田良子、もう一人は演劇部の田中広子、という、私には近づくことさえ叶わず、話しかけることも出来なかった二人だった。早田良子はシンプルだが、いつもセンスのいい服装だったし、同時に肉感的な魅力を備えた女性だった。田中広子はスラリとした美人で、大人びた服装をうまく着こなしていた。学校では、個別に二人とばったり顔を合わせることはあったが、女どうしは互いに牽制し合っていたのか、信田の安アパートで出会ってもどこかぎこちない空気が漂っていた。自然に信田と私と二人の女性との三人で会うというカタチが出来上がった。私にとっては信田が居なければ、二人の憧れの女性と膝を突き合わせて語り合えるなどということは考えてもいなかった。

信田が腕を振るってつくってくれる鍋料理を食べながら、私は三人の文学論や演劇論に耳を傾けながら笑みを浮かべているのが精一杯だった。要は、本来私が立ち入る余地のないところに信田が私の居場所をつくってくれたのだ、と思う。何度か交わした私と信田との会話は次のようなものだったと記憶している。

―信田、どうするんだよ?信田はもてるけどなあ、彼女たちはつらいのと違うか?大丈夫なのか?

―良子も広子も自由に出入りしているんだから、まあいいのではないか?飽きたらもう来なくなるだろうし。それでいいと思っている。

信田は割り切ったことを言いながら、同時に哀しそうな表情をした。それは文男が知っている信田の大人びた自信ありげな雰囲気とはまったく異なった、彼の幼い繊細さではなかっただろうか。

(10)

二年の歳月が流れ、信田自身の環境は変わらなかったが、それでも私たち四人を巡る状況には否応なく時間の流れという酷薄な変化が生じていたのである。私は京都の教育大学に、早田良子は地元の国立大学に、そして演劇部の田中広子は神戸のお嬢様大学の短大部を卒業して、いろいろな劇団の試験を受けていた。それでいて、広子は父親が神戸で経営する貿易会社に入社するという逃げ道を、心のどこかに用意していたように思う。素人目では抜群の役者センスを持っているように思えたが、世の中にはもっと優れた演劇人が数多いるのだろうと、広子がなかなかプロの劇団員になれない状況から察することが出来た。

不定期に催されるようになった私たちの文学研究会は、信田からの現代詩ふうのはがき一枚の招集によって催された。はがきの内容は、研究会で課題にされる書の二、三冊が知らされるのが決まり事のようになっていた。研究会が彼のアパートで開催される二週間前に知らされる課題書を、研究会が招集されるまでに学業の合間に読み通すには、私にはきつかった。あとの二人については余裕でこなせたことと思う。そもそも私は、信田の彼女たちを含めた友人たちとは教養のレベルがかけ離れていたのである。それなのに信田が私を彼の最も重要視している文学研究会の一人として誘ってくれたのは、彼が高校に転学してきた当初の、人間的関係性を重んじてくれているのだろう、と文男は解釈し、その有難さに甘えてしまうことのないように心に誓う日々だったのである。

(11)

 文学研究会の時間は無制限で、食事をつくるのは四人の当番制だったが、材料費はいつも信田が負担した。みんなもバイトをしているのだし、出し合おうと言っても信田は聞かなかった。彼は相変わらずバーテンダーで日々の糧を得ており、大学生のバイトなど凌駕していたからだろうが、むしろ彼の幼い頃に遊郭で育った裕福な生活習慣がそうさせたのではないだろうか。この頃、必ず良子も広子も同席するようになった研究会では、各自がある程度のレジュメをまとめ、その解釈に至るまでの経緯と意見を述べ合うという形式だったが、その内実はどのように控えめに見ても、信田の指導によって各々の作品解釈が一つのカタチに集約されていくのがこの文学研究会のあり方だった。私は少なくとも信田に信頼を寄せていたし、大きなリスペクト感があったので文句はなかったが、他の二人の女性たちはしばしば信田とぶつかった。それはこの二人の女性たちの文学的な理解力ゆえのものか、と思っていたが、その実は二人の女の、信田に対する独占欲の変形した論争であることが分かるのは、私自身が研究会内でかなり力をつけてからのことだった。二人の論争の諸点が、作品理解には大した問題を孕んでいなかったことに私にもある程度感じ取れるようになっていたのである。

(12)

 京都から阪急電車の三宮駅で降り、市バスで恐らく神戸の中でも当時は最も大きな湊川市場前のバス停から、会下山(えげやま)と云う、丘程度の山を切り崩して、住宅やアパートが密集しているところに信田のアパートはあった。夏の終わりになっても、細い道をのぼりはじめると、額から噴き出る汗を拭き拭き、信田のアパートへと向かう。そんなことが私の楽しみでもあった。古びたアパートが密集している地域は、戦争の空襲に遭っても焼け残ったと思われる建物が多く、澱んですえた独特の臭いが漂っていた。そういう会下山の中腹に信田のアパートはあった。トイレが共同であちこちがガタついている点を除けば、あたりは静かで晩夏の涼やかさが感じられる住まいだった。私はふと、子どもの頃の急ごしらえの陣地ごっこを思い出し、楽しくなるのが常だった。

 いつもより少し遅れて部屋に入ると、信田と田中広子が二人で外に出たのだ、と早田良子は力の抜けた表情をして、私を見るともなく言うのであった。良子が信田を好きだということは百も承知だったが、私も良子のことを手の届かない存在として愛していた。彼女の喋り方、たたずまい、薄手のシャツの上から盛り上がっている乳房のカタチのいいふくらみ、ジーンズに包まれた腿のカタチ、そのすべてが好きだった。愛の定義など知らなかったが、私は単純に好きだと云う概念を超えた情愛を彼女に対して抱いていた。良子を間違いなく愛しているのだと、私は自覚していたのである。良子の方も信田ほどではないにしても、私のことを好きでいてくれた、と思う。

二人の心模様は随分と異なっていたが、二人は自然に躰を近づけ永い接吻をした。彼女の唾液は私にとって蜜のごとき味がした。哀しみを紛らわせたかったのだろうか、良子は激しく私を求めた。良子の口を強く吸い、手のひらから零れ落ちそうな乳房を揉みしだき、彼女のヴァギナの奥深くに自分の舌を差し入れた。私は溢れ出る愛液を呑みつくそうとした。信田とのためのコンドームを彼女から手渡されても、私は萎えることはなかった。短い時間にコンドームを三つ使った。3度目は彼女の口の中で果てた。彼女の心が私に向かっていないことは承知していたが、それでも私は至福のときを味わったのだ。あれが私の、あの時以来一度たりとも味わったことのない純朴な性的至福のときであった。私は良子を美しいと心底思い、愛の本質とはこういうものなのかも知れない、と幼い心で悟ったように思う。

(13)

―ねぇ、早田さん、これでよかったのか?

私は良子とは呼べず上ずった声で彼女に苗字で呼びかけ、意味のない言葉を投げかけずにはいられなかったのである。良子からの返答はなかった。彼女の目は涙で潤んでいた。かなりな時間が経ち、彼女はひっそりと言葉を紡いだ。

―あなたには悪かったわ。ほんとうに。

彼女の発した言葉は、ただ、それだけであった。それが信田に対する背信の情からなのか、私に対する愛のない交歓に対する懺悔なのか、あるいは両者の入り混じった感情なのか、いまだにあの時の彼女の真意は分からない。

 信田と広子が帰ってきたのは、深夜近くになってからだった。二人とも酔っぱらっていたが、文字通り酩酊していたのは広子一人だったのかも知れない。冷静な信田は、私と良子の二人を見るなり、全てを察したのだと私は確信した。しかし、信田は何も言わなかった。

あれ以来、私と良子は、何事もなかったかのように同じ文学研究会の仲間にもどった。しかし、私たち四人の状況は大きく変化する。広子は、短大を卒業すると貿易商の父から縁談を何度も持ち掛けられ、それが嫌で神戸から去ったらしい。しかし、実際は東京のいくつかの劇団の入団試験を受けるためだと信田から聞かされた。それ以来、信田と良子と私の奇妙な関係が続いたのである。

(14)

信田のことを一度だけ憎んだことがある。

季節は秋から冬へと移り変わっていくある日に、私は例のごとく私たちの文学研究会のために信田のアパートに向かった。定例の時刻よりも少し早いかと思ったが、何の気なしに信田のアパートのドアのところに行き着いた瞬時、ドアの中から以前聞いた良子の、悦楽の、うわずった艶めかしい声が聞こえた時、私は信田と出会って以来初めて彼に嫉妬し、憎しみを抑えることが出来なかった。私はその場を離れ、数時間街をさまよい、再び信田のアパートを訪れる頃には冷静さを取り戻していた。自分でも理由は分からなかったが、信田に対する憎悪の念もすっかり消えていた。良子を何度も抱きしめたであろう信田の態度はいつもと変わるところがなかった。私と良子のことは鋭敏な精神性を持つ信田なら一瞬にして見抜いていたはずだ。また、良子だって文学的な繊細さに溢れた女だ。言葉などなくても、私との交接の意味を信田に伝え得たはずだ。二人ともどうして私に何も言わない?広子が研究会から去って以来、信田に対する良子の深い想いがつのっていかないはずがない。自分にはもはや二人の間に立ちはだかる術などないのだ。そう自分に言い聞かせて、いつものように信田がつくった鍋をつつきながら、私たち三人は信田の舵取りに任せて、文学談議に興じるのであった。自分の感情を抑えることがこれほど困難だと思ったことはない。

(15)

 数か月経って、私たち三人を取り巻く環境は激変した。唐突に信田は宣言した。文学研究会はこのまま続けるが、今後一年はオレは受験勉強をはじめることにした、と唐突に言い放ったのである。

―オレは金がないからね、大学は国立大に絞ることにして、そのための勉強をすることにした。目下の目標は、最低でも神戸大学、目指すところは京都大学の文学部だよ。

 研究会の中で時折夜間高校のある教師の話が何度か出たことを思い出した。確か村中淳一とか言っていた。彼は30代前半の独身で、京都大学出身だった。周囲との折り合い悪く、行き着いた果てが夜間高校ということだった。信田が京都大学を目指したのは村中の影響だろうが、私には村中はペテン師だとしか思えなかったのである。

 私は心の中で呟くのがやっとだったが、信田にいくら文学的才能があっても、大学受験となると話は別だ。殆どまともに教科書も問題集もこなしていない信田が、限られた時間に受験参考書や問題集を素早く解き続けることなど出来ない。私には自分の経験から、受験を突破するには分かり切ったことを何度も何度も頭に刷り込む作業が必要で、そんなことが信田の知性には不向きであることは分かっていた。しかし、その時の状況の中で、私は何も口には出せなかった。

 案の定、信田の机の上には学校から借り出したいくつかの国立大の赤本が置いてあったが、鉛筆の先を舐めながら現代詩の一節を捻りだすように、彼の手は猛烈に遅く、机に向かっている姿は、到底受験勉強とは呼べないものだった。信田、大学受験はなあ、単純作業の範疇なんだ。それにスピード感がなければ一年なんてアッという間に過ぎてしまう。そんなやり方ではダメだ、と口元まで言葉が出て来るが私はそれをいつも呑み込んでしまった。

(16)

 私は村中淳一という信田が尊敬しているらしい教師をペテン師だと思い、心の底から憎んだ。村中自身が京都大学に合格するためにどのような受験勉強をし、それを乗り切ったのかをリアルに信田に教えるどころか、信田が英語の勉強だと言って辞書を引き引き勉強しているのは、英米文学の有名どころの作家たちの原書だった。村中が大学で読み込んだペンギンブックスの類の本を、英語の教材として信田に与えたのである。

―信田、大学受験っていうのは、もっと底が浅いんだ。君が軽蔑している受験問題集を効率的にこなして行かないと京都大学はおろか、どこの大学にも合格なんて出来ないんだよ。

 私は心の中で同じ言葉をずっと叫び続けていたが、結局一年が過ぎ、案の定信田はどこの大学も不合格になった。その頃、早田良子は信田のアパートに半同棲のように入りびたり、信田の世話をやいていたのである。信田は彼女のことを「よっちゃん」と呼び、彼女は信田さんと呼び合った。私はどんどん自分の居場所がなくなっていくのを肌で感じていたのである。それでも私には彼らの中にいることでしか生きている実感を得ることが出来なかった。

(17)

 私は4年生になり、教育大学生は教育実習のために自分の出身校で教師のまねごとをしなければならない時期に来ていた。出身校は当然神戸のかつて信田と出会った高校であったし、私は気の進まない実習をそこで行うことになった。実習期間中はオレのところに泊まれと信田が申し出てくれ、私は信田のアパートから実習先の母校に通うことにしたのである。当然、信田と良子の仲は気になったが、良子も就職活動のために自宅にもどっていたことも幸いした。教育実習と就活という時期でもあったが、三人ともずっと神戸にいる機会は高校卒業以来初めてで、その頃は毎日のようにこれまでと比較するとかなりラフな研究会という名目のもと、三人で語り合うようになったのである。しかし、信田は当然のことながら、大学に合格など出来ていなかった。

 信田と良子との間に微妙な隙間が出来ているのではないか、と大して繊細でもない私にも汲み取れた。信田は相変わらず良子のことを「よっちゃん」と呼んでいたが、彼女の言動に微妙なよそよそしさが混じる一瞬、一瞬を私は嗅ぎ分けた。胸騒ぎがした。

(18)

 教育実習後、教員採用試験などの準備やいくつかの都道府県の教員採用試験を受けて、最終的に京都府の国語の教師として採用されるまでのかなり長い時間、私は、はがきのやり取りだけで信田と実際に顔を合わすことがなかった。信田のはがきによれば、良子は神戸市の市職員の試験に合格したとのことであった。信田は店を何軒か替わったとは思うが、やはりバーテンダーの仕事をしながら、本格的に現代詩を書き、詩人の道を歩もうとしていた。酷薄なようだが、信田の未来だけが閉ざされたままだ、と私は思い、心が痛んだ。しかし、これを書いているいまとなっては、定職にはつける見込みはついたにせよ、あの頃の私だって自分の未来が閉ざされたままであることに変わりはなかったのだとつくづく思う。信田に対する当時のある種の同情に属する感情は、私の生に対する無知ゆえの傲慢さだったのだと心の底から理解出来る。あの頃、私は凡庸という生活者の汚泥と引き換えに生活の安定を得たのだと思う。ただそれだけだった。

教員になってから数年後に、勤務校の教頭の紹介で京都市の小学校に勤める岡村多恵と結婚した。他者から見れば、多恵とは波風の立たない凪のような日常生活の大半を、定年を過ぎ、その後の5年間の非常勤教師を勤め上げるまで平々凡々と一緒に送ったと思えるのだろう。時折多恵を愛していたか?と自問するが、良子を愛したような感情は確かにあったが、それは私の深き嫉妬と怨念が生み出したものではなかったか、と思うのである。多恵の強固な意思ゆえに、子どもには恵まれなかった。そのことにこそ、私たち夫婦の悲喜劇が現れていると私は感じる。私は一人息子だったから田村の家系が私で途絶える間違いなかったが、そのこと自体は両親の想いとは別に、私の重要な事柄ではなかった。もっと言えば全く関心がなかったと言っても過言ではない。そもそも私には血縁関係ゆえに後世に何かが繋がっていく、という発想がなかったからである。人間はあくまで個として存在し、個と個が重層的に結び合わされたものが世界そのものであると、たぶん信田との関係性の中のどこかの時点で彼の考え方を受容したのかも知れない。

私の人生から生の彩りが消失したのは、遠心分離機にかけられたように信田や良子という関係性から弾き飛ばされてからのことだ。癌に侵されて余命いくばくもなくなったいま、私の頭の中に巡って来る光景は、妻と過ごした永い年月の間の出来事よりも、短かった、現実には何の成果も残せなかったにせよ、あの文学研究会という不思議な仲間との集まりの磁場から起こった、細部に渡る己の感情の集積だけだった。いくつも思い出というものはあるはずだが、やはり生活者として凡庸の只中に起こった出来事などは、私にとってはどうでもよかったということに改めて気づかされたのであった。ただ、多恵との結婚の実体を知り、苦しみぬいた体験を除いては。

(19)

 文学研究会が消滅し、私が神戸という街から離れたのは、(いや、もどれなくなったのは、と言った方が正確だ)あの出来事が起こったからである。

 研究会が終わって、近くの新開地で一杯やろうということになり、身に沁みるような冬の寒風の中を信田と良子と私の三人で体を寄せ合って歩いていた時の出来事である。気がつくと、私たちは6,7人の屈強そうな若者たちに取り囲まれていた。異常にガタイのいい、年齢は私たちと似たり寄ったりだが、真っ黒の詰襟の学生服に身を包んだ異様な雰囲気の男たちだった。どことも知れぬ大学の応援団員たちの飲み会の帰りに、彼らから見ればひ弱そうな男二人が女連れであったことが腹立たしかったのだろうと思う。一瞬にして私は自分と信田は叩きのめされ、良子が弄ばれると判断し、身構えた。信田はそれなりに応戦出来るのだろうが、私は幼い頃から喧嘩もしたことがなく、オスとしての攻撃的な要素を何も持たない男だった。が、その時、信田の想像もしない声がした。

―田村、走れ!

私の反射神経は信田の言葉に瞬時に反応した。走った!取り囲まれた男たちの間をぬって、坂道をのぼり、新開地の本通りを駆け抜けた。走りながらオレはなんて卑怯な男なのだろうか!と思うと自然に涙が溢れた。その瞬間、後ろから声が聞こえた。男たちの何人かが信田をぶちのめした後に真っ先に逃げた卑怯者の私を追いかけて来たのかと思い、私はたぶん一生分の力を自分の脚力に注いだのではないか、と感じるほどに走りぬいた。ところが、田村~、田村~!と叫んでいるのは、誰でもない、信田本人だった。信田は後ろから走りながら本通りの先に交番がある!そこへ行くんだ~!と叫んでいた。

 交番で事情を手短に話して、巡査二人を連れて現場にもどる途中、私は自分の卑怯な行動を棚に上げて、信田に詰問したのである。

―おまえ、良子さんを置いてきぼりにしたわけか?

私が信田に対して、おまえ呼ばわりしたのはこれが初めてのことだ。信田を責めていたのも事実だが、何より自分の卑劣さを許せなかった。私は信田にあたっていたのである。信田は言った。

―これで、良子とはダメになるだろうな。まあ、良子のためにもそれがいいのかも知れない。

現場に着くと、あの男たちも良子もいなかった。私は最悪のことを考えたが、信田は良子の家に電話してみると言い残し、近くの電話ボックスに走っていった。

 何が幸運で、何が不運なのかも分からないが、良子は無事にタクシーで家に辿り着いていたと、とりあえずは言っておこう。彼らは私たちが女一人を置き去りにして逃げ去ったことに満足したらしく、良子に、私たち二人がいかに男としてダメな人間なのかを罵って去って行ったらしい。とこまでもゲスな奴らだと私は思い、同時にそれ以上に私はゲスだと思い知らされた。

(20)

 あの事件以来、私は神戸にもどらなくなった。文学研究会という仮想の三人の共同体は崩壊したのだ、と私は後悔した。しかし、あの時、あの場から逃げず、そして彼らに半殺しの憂き目にあわされたとしても、結局良子を危険な目に遭わせ、もっと大きな悲劇が起こったのかも知れない。信田が咄嗟の判断でとってくれたであろう行動を想像しながら、自分のダメさ加減に鬱々としながら永年過ごしてきた。あれから永すぎる年月が過ぎ去り、自分の死を前にしてみれば、信田の判断力の正しさが良子を救うことに繋がったに違いないと、いまは思えるのだ。彼らの勢いだと、私たち二人をなぎ倒して、そのことに勢いづいて良子を輪姦した可能性もある。私が信田の指示に従って真っ先に走り逃げ、信田の高度な細工を施した後で逃げたことで、彼らの気勢を削いだのは確かなことではなかっただろうか?信田にはそれが分かっていたのだといまは確信を持って言える。具体的な想像をすれば、私はただ信田の指示に従い、走って現場から逃げ去り、信田は自分を貶める言葉を彼らに向かって吐き、彼らに許しを請い、数発殴られてから私を追いかけたのだろう、と思う。だからこそ、現場にもどってから躊躇なく彼女の実家に電話出来たのだ。いまの気づきに至るまで、私なら彼女の無事を確かめることは重要だが、その時、瞬時に彼女の実家に電話することなど恥ずかしくて出来なかっただろう。なぜ、信田はそんなことをやってのけたのだ?というのがずっと私の裡でわだかまっていたが、恐らく、あの短い時間の中で、良子にここを離れられたらすぐにタクシーで家に帰れ!と囁いていたのだろう。私だけが信田の自ら受けた辱めに想いを馳せることもせず、浅薄な現象に引きずられ、恥辱と自己憐憫に身もだえていたのではなかろうか?

 その後、何度か信田とのハガキのやり取りをして、信田の現代詩のような文面から、ようやく村中という教師に見切りをつけたこと、自分が大学などに行ったところで何になるのか、と自問したこと、良子が公務員の内定を蹴って銀行員になり、信田のもとから去って行ったらしいことなどを私は知ったのである。信田によれば、良子は世知という魔物の虜になり、自分のもとから去って行った、ということになるらしいことも彼の文脈から汲み取れた。良子は先輩にあたる行員と付き合い始めたらしいことも文面の隙間から諒解出来た。信田は、相変わらずバーテンダーをしながら、本格的に自作の現代詩を洗練させはじめ、自分の作品を「ユリイカ」に応募し続けたようであった。東京の劇団に入るという夢破れた田中広子が、信田のもとに転がり込んできて、夫婦じみた生活がはじまったことも漠然とだが伝わってきた。

(21)

 あの忌まわしい事件以後、信田と私はハガキでしか繋がっていなかった。お互いの近況は大体のところは理解し合っていたが、同時にそのすべてが薄靄に包まれたように曖昧だった。

 教員として働きはじめて、二年目の冬のある日のことだ。私は両親のもとを離れ、京都の高野川沿いの古い木造アパートに居を構えていた。代り映えのしない教員生活だったが、新米教師には何をするにも時間がかかった。私もその例に漏れず要領の悪い事務仕事に辟易としながら、勤務校の近くの定食屋で遅い夕食を済ませる毎日だった。

アパート近くのバス停で下車すると粉雪が横殴りに顔に当たるのに嫌気がさした。玄関のドアの鍵穴に鍵を差し入れた瞬時、聞き覚えのある声が私の名を呼んだ。薄暗い廊下の向こうに信田が左肩下がりの姿勢で、彼独特の笑みを浮かべて私を待っていたのである。自分がどのような反応を彼の笑みに対して投げ返したのか、まるで記憶にはないが、信田を当然のように部屋に招き入れた。私に訪れた感情は複雑どころか、まるで単純そのもので、ただただ嬉しかったのである。信田と直接会わなくなって以来、あれも言ってやろう、これも言ってやろうと考えていたが、それらのすべてが自分の裡の信田に対する憧憬の裏返しだったことに気づいて、私は、一人、照れた。

(22)

 ―信田、会いたかったよ。と言いたかった。が、実際に口に出た言葉は、実にそっけないものにすり替わっていた。言いながら自分の狭隘な性格を自覚して、少し胸が苦しくなった。

 ―久しぶりやな。寒いからまあ入れよ。

 私たちは二年ぶりに小さすぎるコタツを挟んで顔を合わせた。信田の端正な顔立ちもスラリとした体形も変わるところはなかったが、いま目の前にしている彼の表情はこれまで見たこともない弱々しさが濃厚に漂っていた。信田も私の変化に気づかなかったはずがない。つまらない教師生活で腐っているさまが私に大きな変化を来していることを彼なら見逃さなかったはずだ。それでも私と信田は二年の歳月を埋めるために互いに言葉を呑み込むことに決めたのだと、今にして思う。

 酒の肴に、小さな冷蔵庫にサラミとチーズを入れて置いたので、それを皿に盛りつけて、ビールとウィスキーの瓶をコタツの上に置いた。そして一人暮らしには大きすぎる灰皿も置き添えた。

―田村、おまえ、タバコやるようになったんだー。

その言葉は揶揄するでもなく、とても自然に出た言葉のようだった。信田はいつも自然体だ。たぶん、私の変化について言いたかったことを呑み込みながらも、彼は時間の隔たりを一瞬にしてとりもどす努力をしてくれていたのだ。その意味でも信田はいつも私の上を行っていた男だと再認識させられた。おかしなことに私にはそう思えたことが嬉しかったのである。

(23)

 信田は、良子が銀行の先輩行員と結婚したことを私に知らせた。信田の言葉はこうだった。

―よっちゃんなぁ、オレのアパートから出て行ってからすぐに結婚しちまった。オレは見切られたんだな。ひどいこともたくさんしてしまったしな、当然の酬いだろうなぁー。

と、語尾を延ばして言った。そこにどんな意味が込められているのか?

 一瞬、良子との性の悦楽の記憶が走馬灯のように蘇り、同時にそれを信田は知っているだろうことも私の頭の中を激しく駆け巡った。良子との激しく狂おしい悦楽を思い起こしていた自分はどんな表情をしていたのだろうか?たぶん、無表情で頷いていただけだろう。それしか出来なかったからである。人はあまりに多くの感情が詰まったことを前にすると、感情のない、能面のような(能面に込められた芸術的な意味を抜きにして)無表情になるのだということを悟った。

 信田のふるまいは、かつて見たような陽気さでもなく、感情を超越した崇高さでもない、日常生活で交わされる言葉が最もよく言い表している表現―信田には悪いが、下卑た空気が漏れ出て来るようだった。次の信田の言葉を待つ間、私は身構えた。同時に、信田、おまえ、大丈夫なのか?という想いに捉われていたのである。

―田村、実はオレなあ、結婚した。今日はその報告に来た。演劇やってた広子、覚えているだろう?東京の劇団に入れず、神戸にもどってそのままオレのアパートに居ついていたやつよ。その広子と結婚した。

 それを聞いても私は別に驚かなかった。成り行きでそうなったのだ、と勝手に解釈したからである。良子に去られた寂しさも手伝ったのだろうし、広子もたいした美形だからむしろ外見的には信田と広子はお似合いではないか、とすら思ったのである。が、次の信田の言葉を聞いて困惑した。信田の真意を計りかねた。

(24)

―おまえ、広子が一人娘だったのを知ってたか?

―知らなかったな。彼女、神戸の貿易商の一人娘だったわけか。

―だからな、結婚してくれと広子が執拗に言うものだから、それに逆らうのも面倒になって、おまえと結婚してもいいよ、と言ってしまったわけだ。するとな、広子は言うわけだよ。

―私はお父さんのお見合い話をすべて断って、勝手に東京に行ってしまったでしょう?あなたと結婚する限りは、無理やりにでもお父さんの許しを得なければならない。あなた、それに耐えられる?

―こいつ、試してきたなと正直思ったよ。オレの気持ちにウソがないか、を。なあ、そう思うだろう、おまえもそう思うだろう?

―だろう、な。と、答えるしかなかった。

―で、挨拶に行ったわけよ。トアロードを登り切ったところによー、デカい屋敷があったわけだ。

信田はまたしても語尾を延ばした。複雑な反発だろう、と私は勝手に解釈した。信田もかつては筑豊の遊郭と云えど、それこそ自宅はデカい屋敷だったに違いない。そこで何不自由なく暮らした幼年期だったはずだ。私の住んだ家は、教師どうしの両親が二人の金をかき集めて、住宅ローンを組んで何とか手に入れた郊外のありふれた建売り庭付き一戸建て住宅だ。比較の対象にもならない。信田が発言の語尾をいま延ばす意味は、自分にはどうしようもなかった過去と現在に対するある種の憤怒の情念が込められているのではないか、と思った。良子との別れを語るときの信田の発言にも言い知れぬ深き悔恨の情が迸り出ていたのだ。私は口を挟まず、信田の次の発言を待つことにした。

―広子の親父、オレを見た瞬間に広子と結婚したいなら、田中の家の養子になって、うちの貿易商の仕事を受け継いでほしい。それが私の君に対する結婚の条件だ。仕事はおいおい見習ってもらうから。

―それでな、オレは田中家の養子になったというわけだ。いま、英文のタイプライターの勉強をしているわけだ。電動で動くやつだ。なかなかオレの手に負えないね。

信田のことを下卑たと表現したが、そういう要素がたとえあったにせよ、実際にはどちらかと云うと私に対する照れの感情が強かったと思う。それにしても、信田と広子、信田と婿養子、信田と英文タイプライター、信田と貿易商の実務?どの組み合わせも私の裡でしっくりしないものばかりだった。

―信田、君はそれでよかったんだな?ほんとうに大丈夫なんだな?

―信田は、タバコを天井に向かって、フゥーと吐き出し、か弱く頷いた。

(25)

 私には洞察力というものが決定的に欠落していたが、それにしても信田の結婚はいずれ破綻するだろう、と思った。何より信田の方に無理がある。広子が美しいと云えども信田は彼女のことを決して愛してはいなかった。広子が劇団のオーディションを受けるために東京に行ったのも、彼女の実家との揉め事というより、信田が自分を女として相手にせず、良子を愛していたことが原因だろう。推測に過ぎないが、信田は広子とも男女の関係にあった、と思う。しかし、信田にとってはただそれだけの付き合いだった、と私は思っていたのである。

信田が広子の家に養子として入り込むことになったのは、良子が自分を捨て、結局は女のありふれた生活的安寧に走ったことに絶望したこと、そして高校時代からの永年に渡る経済的不遇、自分には他者にない才能がありながらもたぶん信田自身も軽蔑していたであろう、知的平均値を問われる大学受験に失敗したこと等が重なった末の結論だったのではなかろうか。

私たちは、その日夜通し語り合ったが、二人とも結婚のことには触れなかった。たわいもない、男どうしの理想と卑猥が交じり合った言葉が、タバコの煙の中を漂った。翌朝最寄りのバス停まで信田を見送って、私は有休をとりその日は一日中泥沼の中にいるような眠りの只中でさまよった。目覚めたのは夕暮れ時だった。散歩がてらに高野川まで行き、橋の上から水面を眺めていると、水源の澄み渡った水も河口へ向かうにつれて汚れていくさまが、まるで自分たちの人生が年月によって汚濁していくさまと重なるように思えて、私は意味のない涙を流した。信田の将来が不安な不確定要素を孕んでいるように、私のそれも同じように安穏としていられないのだろうと思うと、これからの人生に希望を持つことなど出来はしなかったのである。たぶん、意味のない涙は、絶望が深くなればなるほど、いずれ確実に生きることが無意味なものに変質するのだ、という推論を私の稚拙な知性にも導き出されたのだ。

 信田と広子との結婚の話を聞いてから、二年が過ぎようとしていた。その間、信田とはハガキだけのやり取りになり、いつしか信田からの連絡は途絶えたのである。

(26) 

私の結婚生活は、教頭の服部伸郎の紹介で、岡田多恵と結婚することになったのは、信田との音信が途絶えて間もなくのことだ。その頃のことを思い出すと、自分がいかに洞察力に欠けた人間だったかということが思い出されて、いまでも嫌な汗が出る。私の結婚は、自分に対する過信と錯誤と洞察のなさが混在した何かが生み出したエセものだった。

ある日、夜の放課後の、人気もまばらになった職員室に教頭の服部が私の机に近づいてきて、次のように唐突に言ったのである。

―田村くん、君も結婚してもいい歳になったね。君の仕事ぶりはとてもいい。未来が開かれていると私は思うね。君、付き合っている人がいるのか?

私はありのままに答えた。

―いいえ、付き合っている人はいません。

―そうかい。実はね、うちの学校の卒業生に結婚相手を探してくれと頼まれていてね。どうだろうか?君さえよければ私に紹介させてもらえないかな?

 この瞬間、自分の未来が開けた、と私は思ったのである。教頭に紹介されて見合いするのである。自分の学校管理職への道は開けたのだ、と勝手に私は信じ込んだのである。当時の私には、人の善意を装った作為を見破るだけの洞察力はまるでなかった、と言える。

 服部伸郎から話があって、京都市内のホテルのロビーで岡田多恵を紹介されて、私は有頂天になった。小学校に勤めていると彼女は自己紹介した。私より一つ年下だった。私が有頂天になったのは、想像以上に多恵が美しかったからである。か細さの中に、文男の中のオトコを刺激して余りある魅力があった。不謹慎だが、彼女との結婚生活という将来設計などより、一刻でも早く多恵を抱きたいと思ったくらいである。オレはなんて幸運なのだろうか、と心の中で独り言ちた。

結婚に至るまでの雑多なことも何ということもなく過ぎた。相手の両親にも了解を得た。文男のオスの感性が、社会的な決め事を軽々と乗り越えてみせたのである。式は簡便に済ませ、新婚旅行は互いの勤務の関係で国内にした。出来るだけ遠くに行きたかったが、北海道が精いっぱいだった。魅力ある妻を得ることと自分の将来とが重なっているのである。文男は用心して結婚式を済ませるまで多恵とは手をつなぐ程度の付き合い方しかしなかった。信田のことなど思い出しもしなかった。当時の私は、若さゆえの傲慢さと自己愛がリアルな自分を取り巻く状況を掴み損ねていたのだ、と思う。

(26)

 新婚旅行先の函館のホテルで多恵を初めて抱いた。多恵の口に舌を深く差し入れ、彼女の唾液と自分のそれとが交じり合った。柔らかく甘い味がした。乳房を揉みしだき、乳首を舐めまわし、多恵の躰の隅々まで自分の舌で味わった。彼女との交歓は愛し合ったというより、互いに味わったと言う類の交わりだったのだと文男は思った。多恵の反応は鋭敏過ぎるほどで、むしろ文男をたじろがせた。文男のつたない愛撫に、多恵はあまりにも鋭敏に反応した。そのときの多恵の喘ぎ声は、性の歓びを知り尽くした女のそれだった。オスの歓びを得たと同時に文男には言い知れぬ不安感が襲い来るのであった。

 結婚後数年間の夫婦生活は、至極順調だった。文男を襲う言葉にならない不安感を除いては。毎日のように激しく交わる二人だったが、子どもには恵まれなかった。不妊治療が必要なのかも知れないと何気なく口に出すと、多恵の拒絶の仕方は尋常ではなかった。私は、多恵が子どもを望まない女なのだと勝手に解釈して日々の生活をやり過ごすことに心を決めたのである。それが二人にとっての平和の保ちかたなのだと、自分に言い聞かせた。

(27)

 母親の貧血がひどく、短期間検査入院することになり、母親の付き添いや、妻がいなければ何も出来ない父親の身のまわりの世話をするために一週間ほど多恵は実家に帰っていて、文男は一人で家に残されるハメになった。一人暮らしが永かったので、生活に不自由を感じることはなかったが、何がどこに収納されているのかがよく分からず、案外執着のある、お気に入りのネクタイがどうしても見つからず、多恵を気軽に送り出したのはいいが、実際、困ったことになったな、と後悔した。

 クローゼットの中をごそごそと探っているうちに、目立たぬように置かれたかなり大きなボックスを見つけた。嫌な予感がした。目当てのネクタイは探し当てたが、文男はどうしてもそのボックスの中が気になった。決意してそのボックスを取り出して、蓋を開けた。そこから膨大な手紙と、何冊にも及ぶノートと、薬の類が出て来たのである。文男は何時間もその箱の中身と向き合い、同時に自分の馬鹿さ加減と向き合うことになった。

 多恵と服部との手紙のやり取りの内容は、文男には耐えがたいほどの嫉妬を掻き立てるものだった。高校生のときから、多恵は服部と性の歓びを分かち合い、互いの文面から、幼い多恵の心が服部によって成熟した女のそれに変貌していくさまが、あまりにも妖艶で具体的に読み取れた。薬は避妊薬として用いるピルだった。膨大な手紙の中のたった数行の多恵の言葉で、文男はすべてを察することが出来る想いがした。私と多恵との結婚が決まった時に彼女が服部に書いた手紙の中の一節である。すべての手紙には切手が貼られておらず、この手紙も投函されなかったものだ。「あなたには奥さんもお子さんもいらっしゃいます。あなたはすべてを捨てて私と結婚すると言ったけれど、いくら待っても私があなたと一緒に人生を伴にすることは出来ないことが分かりました。あなたから文男さんを紹介されたとき、腹立たしく、また同時にあなたを軽蔑するというより、私はあなたに対する深い愛を改めて感じたのです。私はあなたによって女の幸せが何であるのかを教わりました。文男さんは素敵な方ですけれど、あなたは私が彼に抱かれてもいいのですね?私があなたに躰を開いたように文男さんに抱擁されてもいいのですね?答えは分かっています。こんなことを書き送ること自体、あなたにとっては迷惑なことでしょう。あなたがお望みのようにお別れします。でも、私は文男さんとの間に子どもをもうけません。これがあなたに対する愛の証であると同時にあなたに対する小さな復讐です。文男さんにはほんとうに悪い妻になってしまいます。自分の罪深さをずっとこれから抱えながら生きてまいります。」この文面を読んで文男はこれまでのモヤモヤの原因のすべてを識ってしまった。何冊にも及ぶ大学ノートには多恵の服部に対する想いが連綿と綴られていることだろう。読まなくても分かる。

 出勤前の時刻から、日が落ちかけた夕暮れ時まで文男はクローゼットの前に座り込んだままであった。辛うじて学校には欠勤の電話を入れた。文男は自問していた。自分は生物としては生きているが、果たして人間として生きているのか?自分の心の中に空いたこの大きな空洞をどうすればよいのだろうか?多恵にも服部にも殺意さえ抱いてしまう自分は、これから先、常軌を逸することはないのだろうか?

(28)

 翌日、学校に病欠の電話を入れ、私は京都の河原町までタクシーを飛ばし、そこから阪急電車に飛び乗った。永らく音信が途絶えた信田の顔がどうしても見たかったからである。自分がいかに身勝手な人間かを自覚した上での行動だった。自分の裡の汚泥した空気を共有してくれるのは信田しかいない、と確信していたからである。

 電車から見えるはずの景色は実像を結ばなかった。私は車窓からぼんやり外を眺めているが、目に入るのは殆ど暗黒のようにぼやけた虚像ばかりだった。三ノ宮駅で電車を降り、元町の方に歩を進めた。三ノ宮と元町の中間点に山の裾野から海岸に続くトアロードの緩い坂道を歩いて行った。信田がまだあの豪邸に居るのかどうか分からなかった。居てくれ、と念じながらトアロードを歩き始めた時に公衆電話から信田が住んでいるはずの屋敷の電話番号を回した。昼前になっていたから、電話口には広子かお手伝いさんが出るのかと構えていたら、電話の向こうから聞き慣れた信田本人の声が聞こえてきたのだ。彼の声を聞くとどっと疲れが出た。安心感からだろう。

 坂道を登り切り、高い石垣の上に続く階段を踏みしめ、門柱のベルを押した。広子が応接間に招き入れてくれた。信田が座って笑顔で迎えてくれた。婿養子になったのだから田中幹雄になっていたが、私にはどこまでも信田その人だった。広子の手前もあって、心では信田と呼びかけながら、実際には田中さんと呼びかけた。私にはいまだに、彼のことを<おまえ>とか<幹雄>とは呼べなかったからである。

 いざ、二人を目の前にすると、自分のおぞましい現実を語ることが出来ず、たわいもないことを語っている自分に気づいた。信田は私の日常に得体の知れないことが起こったことを察していたようで、二人で外に出るための助走のための会話を始めた。しかし、助走としての会話としては、重い話の内容であった。田中家の貿易商としての仕事が、時代の変遷とともに斜陽していることや、そのために広子の父親は、古参社員を残し、新参の社員たちを辞めさせている最中だという。真っ先に切られたのは信田だったらしい。業績悪化に伴うリストラを近親者からはじめたのは、広子の父親のポリシーだったとも、信田への嫌悪感だったともとれる。おそらく、微妙に入り混じった感情からの結果だったのだろう。いずれにしても、信田がこの時間に家にいる理由が呑み込めた。

(29)

 信田と連れ立って、元町の飲み屋に入り、少し酒が入ると予想外に今日に至るまでの結婚生活の全容を至極客観的に語っている自分にむしろ驚きを隠せなかったくらいだった。阪急電車の中で、もし信田と会えても自分の状況を話しあぐねている自分を想像していたので、いま、信田と話している素直過ぎる自分の姿に困惑しているとも言える。

―許せないのだろう?奥さんと奥さんをおまえに押しつけた教頭とやらが。確かにグロテスクな話だがなあ、田村。おまえのことだから、いや、広子と結婚したオレのことでもあるけどね、奥さんを教頭に紹介されたとき、ちょこちょこっと計算しただろう?自分の小さな将来のこと。分かるよ、オレには。見抜いているという意味じゃあない。おまえの気持ちが我がこととして心底理解出来るという意味だ。ところで田村、その教頭の名前は?私はその時、何故信田があいつの名前などを聞きたがるのか理解出来なかったが、正直に服部伸郎という男だ、と答えた。

―信田、オレは耐えられないよ。愛されもせず、あの男のためなのか、面当てなのかは分からないが、自分との子どもをつくることを拒んでいる女とこれから先、どうやって生きていける?

―そうか、そういう問いかけか。ならばオレのことも話しておかないと公平じゃないな。オレが田村のアパートに結婚の報告に行ったとき、そしてオレが婿養子に入って貿易商の経営に携わると聞いたとき、おまえはどう感じた?こいつ、どうかしちまったな、と思っただろう?それに小汚い世知の虜にでもなり下がったのか、とも思っただろう?そうだ、その通りだ。だからこそ、オレは耐えられなくておまえのところに行った。分かってもらえなくてもいい。おまえに話すことである種浄化される、と感じたからだよ。マフィアが敵対する人間を殺したすぐ後で、カトリック教会の懺悔室で神父にありのままをぶちまけるよな。まあ、映画でしかみたことはないけどね、それと同じ気分だったよ。田村、いまのおまえもオレと同じ気分ではないのか?

―信田は生活に苦しんだだろう?それに良子さんとのこともあった。オレのグロテスクさとは比べ物にならないよ。君の場合はがんばった末の結果だったからな。疲れ果てた末の結果かな?

―まだまだ、きれいごとだよ、それは。オレと良子に嫉妬して東京に行ったことになっているだろう、広子は。彼女、演劇団員崩れの一体何人の男と寝たと思う?それとあの義父だ。オレのことをクソだと思っている。古参社員が大事だと言っているが、実のところはオレを真っ先に切りたかったわけだ。子どもも出来ないし、いや、子どもが出来ても同じことか、いずれにせよ、これ幸いと奴はオレを追い出しにかかっている現実は変わらんな。

笑いながらも、信田の顔がどこか寂しそうな横顔に見えたのは私の錯覚だったのだろうか?

―広子もオレが愛していないことを事の始まりから分かっていたはずだ。ビジネスの将来も危うい。絵に描いたような家庭像も描けないときた。最近は夜になると広子は遊び歩いている。オレよりマシだなんて言うつもりはない。おまえの奥さんは、事実を知ってしまえば確かにかなりグロテスクだが、それを知らなければおまえは奥さんのことを愛することが出来ていたのだろう?人間、心の奥底には誰しもどす黒いものを持っているからね、結局のところ、そこに蓋をして耐えられる関係性なのかどうか、それだけではないのか?オレたちのように人間の本質に踏み込んだ人間は、覚醒出来たという意味で他者とは比較にならないほど幸福だろうけど、逆に、人間の底の底まで見える分、そして信じられる他者が極端に少ない分、とても不幸なんだよ。

 その夜、深夜まで呑んで、信田の、泊まっていけ、という誘いを断って元町のどこにでもありそうなビジネスホテルに入った。冷蔵庫のウィスキーのミニボトルを呑み干すと、信田に会いに来た自分の身勝手さに改めて気づいて、落ち込んだ。自分が最も罪深いのは、プライドの高い信田が何の衒いもなく自分の現状を語らずには私を救えないと思わせたことである。そして、信田は決して私と良子との一回きりだが、濃厚な交歓についてはひと言たりとも口には出さなかった。それなのに信田に良子を失った経緯を語らせてしまった。

(30)

 翌日、遅い朝食をホテルの近くの喫茶店で軽く済ませ、電話で信田に礼を言い、帰りの阪急電車に乗り込んだ。車窓から見える神戸の風景がじんわりと心に沁み入るように見えるのがありがたかった。それを眺めながら、数日後にもどって来る多恵との今後をどうすべきかを考えようとしたが、文男は眠りに落ちた。文男の存在そのものが、考えることを拒否したのだ。

 数日して、玄関から多恵のいつもと変わらぬ声がした。

―文男さん、帰りました!ほんとにありがとう。両親があなたにくれぐれもよろしく伝えておいてほしい、と言っていたわ。私からもお礼を言います。ありがとう。母も近々退院出来るそうです。

―そうか、よかったなぁ。君もたいへんだったな。今夜は一緒に食事に行こう。多恵の慰労会だよ。

 そう言ったとき、文男の今後が決まったのである。自分ではどんな言葉が出るのか想像も出来なかったのに、多恵との変わらぬ日常が続くことを瞬時にして選び取ったのだ。オレは多恵とこの先の人生を生きていくしかない。服部には自分を引き立ててもらえるか、と小さな計算をしたが、真実を知ってしまったいま、むしろ自分は服部から遠ざけられるだろうと確信した。私に目をかければ、背後の多恵の押し殺した情念に火をつけかねない。それくらいのことは服部には分かるはずだ。決して深く考えようとはしない人間だが、彼は多恵を棄てて、出世をとった。出世の邪魔になる可能性を摘んだのだ。私は冷遇され、置き去りにされるだろう。生涯平教員として終わることになるだろうが、その代わりに静かな生活を送ることが出来る。服部は校長になり、教育委員会の役員へと出世の階段を昇りつめていくことは確実だ。しかし、彼にも彼なりの生の虚しさに苛まれる時期がいずれ訪れるはずだ。こういうことに例外はない。これでよかったのだ、と文男は自分に言い聞かせた。

(31)

 多恵との夫婦の交わりは、自分が直面させられた人間のグロテスクさとは別に、これまでのように、いやこれまで以上に濃密になって行った。私は妻の躰の隅々まで舐めまわし、陰部を執拗に愛撫し、愛液で濡れた自分の舌を彼女の口に差し入れる。多恵は文男の勃起した男根を深く咥え、その舌の動きはますます文男の性感の機微を刺激し、多恵の口の中で射精すると、多恵の舌は文男の性液に濡れたまま、すぐに文男の肛門の中に差し入れられるのだった。文男と多恵の性は果てしない深みへ沈んで行った。文男はいつしか子どもに妻との性の幾分かでも邪魔されたくはない、とまで思うようになった。私が妻の躰の奥深くにペニスを差し入れた時に発する彼女の艶めかしい喘ぎの中に、たとえ服部のイメージが混入していたとしてもそれはそれでいいと思えるのだった。結局は人の内奥の実体に踏み入れることなど出来ないのだ。それは逆に多恵が私に仮にそれを求めても不可能なことなのだ。いいではないか、これで。私は心の深奥で諒解した。

(32)

 私は教師としてその存在意義を持って日々を過ごせたのか、と云うと決してそうではなかった、と思う。現代文の教科書を教える国語教師なんて、ほんとに間抜けていると自覚しながら日々の授業をこなしていたのである。私には自分の両親のように教師であることに誇りなど到底持てなかったし、検定教科書の細切れの文学作品や評論を教えながら、それらを教える意味が分からなかった。

 自分を納得させる唯一の論理は、自分を旅行ガイドのような存在だと言い聞かせることだった。細切れの作品の解説や読解方法に何の意味もない。むしろそれらが生徒たちから文学作品から遠ざけることになると分かっていながら自分の役割を無理やりでっち上げるのだ。それならば、いっそのこと自分を例えば旅行ガイドにでも譬え、それを見聞きしながら旅行者としての生徒たちが自分の足でかの地を巡り、自分なりの発見の旅をするための案内役と自分を規定した。文男の考えは、数えきれない文学や哲学や詩などを読み解く独学の精神性を、それが仮に自分発信でないにしても、生のどこかの時点で生徒たちがその意義に気づいてくれることへの切ない期待感そのものだった。そして自分の教師としての細すぎる糸を切らないように日々を生きた。これが文男を65歳まで教師として働かせた動機と言っても過言ではない。

(33)

 多恵の秘密の重さに耐えきれなくて、神戸に出向き、信田と話してから約一年が過ぎようとしていた頃、書斎に多恵が入って来て、女の人から電話ですよ、と薄ら笑いを浮かべて告げた。多恵の時折見せるウィットの一つだ。私の女関係を警戒してのことではない。それだけ私は多恵以外の女性とは無縁の生活をしていることを多恵自身が一番よく知っている。私はリビングの電話の受話器をとった。

―もしもし、田村さん?田中広子です。ごめんなさい、突然に。奥さまに変に思われていない?

電話の向こうで、広子は学生時代と同じ口調で話し始めた。

―実はね、主人が入院してしまったの。集中治療室から出て、いまは落ち着いているけど、彼がね、あなたに会いたがっているの。

―分かりました。病院はどこですか?すぐに伺いますから。

広子は病院名を告げ、電話を切った。私はそれだけを聞き、一体信田がどうして入院することになったのかを聞く余裕もなかったことに気づいた。そして、妻である広子が、夫が入院したというのに、こちらが聞かなければ何も話さないことなんてあり得るのか?文男の心はざわついた。多恵に友人が入院したので、これからすぐに神戸に向かうと告げて、家を後にした。

(34)

 病院は、六甲道にある総合病院だったので、私は三ノ宮で阪急電車を降り、JR三ノ宮駅から一駅もどった六甲道駅で下車した。信田が緊急搬送された病院は駅の目の前にあった。病院の受付で用件を伝え、信田の病室を教えてもらい、そこに急いだ。病室は個室で、入り口の引き戸を開けると、ベッドには頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、信田の端正な顔は見る影もなく紫色に腫れ上がり、腕には点滴、そして身体の数か所がチューブの管で繋がれ、心電図と脈拍が表示されるモニターがあり、信田が重度の患者としてベッドに寝かされているのだと文男は諒解した。息が詰まりそうになるのを堪えて、ベッドの傍の粗末なパイプ椅子に座っている広子に簡単な挨拶をした。信田は鎮静剤の効果で眠っているとのことだった。

 広子は私に、病室の外に行きましょうと目くばせして来た。さすがに役者志望だっただけはあると、その場にふさわしくない観想を抱きながら、二人でコーヒーが飲める食堂の椅子に向かい合って座った。広子は舞台で独白するように、夫のもう一つの顔について語り始めた。そして、その信田のもう一つの顔は、文男にとってはまったく未知のそれであった。広子はゆっくりと語りはじめた。

―これからお話することは、夫が田村さんには見せなかったもう一つの顔のことです。

―私の知らない信田の顔があるとおっしゃるのですね?

―はい、おっしゃるとおりです。

 私には広子の話の内容のはじまりを聞いて、信田の秘密を知らなかったことに腹立ちを覚えるよりも、不安感の方が大きかった。自分の中の、若き日の思い出の根幹が一気に崩壊するのではないかという、根拠のない不安感でいっぱいになったのである。

―文学研究会の日にね、信田さん(広子は夫と呼ばず、このように語りはじめた)と私、酔っぱらって研究会に遅れたことがあったのを覚えていますか?

 覚えているも何も、その日こそが私と良子が悦楽の中で深く交歓した日のことだ。忘れるはずがない。

―あの頃、高校の学生運動は殆ど下火になって、信田さんも経済上の理由もあって夜間の方に転向してましたね。運動は下火になっても、極左のセクトは相変わらずの運動を繰り返しながら、段々と内向きになって、今度はセクト間の抗争になっていたわけです。信田さんは、あるセクトのリーダーでした。彼の部下は殆どが大学生で、彼が夜間高校に鞍替えしてからは、その中に先生が混じるようになりました。その代表格が村中淳一さん。私も信田さんと同じセクトに所属していました。こんなことを言うのはおこがましいのですけれど、当時村中さんが私のことを好きになって、何かと私に付きまとうようになっていました。信田さんはリーダーでしたが、彼が当時語った内容は、「この運動も間もなく消失する。いや、失くさないと、セクトどうしが下手をすると殺し合うかも知れない。だから、オレのセクトは解散させるし、教師の村中とも縁を切る。村中は個性的に粘着質だから、広子、君に付きまとうだろう。だから、君、神戸を離れろ。幸い、君には演劇という才能があるから東京の劇団にでも入るといい。オレが責任を持って君を逃がすから。」と云うものでした。私は信田さんが好きだったし、彼から離れるのが絶対に嫌だったので、ごね続けました。結局信田さんの説得に応じた頃には私はお酒で感情を誤魔化していたもので、泥酔状態で田村さんと早田さんにお会いしたというわけです。それがあの日の全容なんです。

 私には信田のことが何も分かっていなかった。自分がいかに浅薄で、粗野で茫洋とした人間であったのかが、この日まで分からなかったのかと思うと、情けなさを通り越して消えてなくなりたいとさえ思うのだった。そうだ!信田は文学研究会なんかで閉じている男ではない。私が視ようとしなかっただけだ。私はあの当時、政治オンチを押し通して自分の内面だけを眺め、それでも何も捉え切れず、逡巡する日々だったのである。それに比して、信田は世界の全容を見極めようとしていたのだろう。目を逸らせているという自覚があった分、広子の説明を聞くとすべてが一気に理解できる自分に気づいた。信田の苦闘に、遅まきながら共振する自分が、いま、ここにいる。

―良子さんも信田さんが好きだったし、私、良子さんに信田さんのことを頼んで東京に逃げたの。二人はお似合いだし、悔しいけれど、私はそうなることを望んでいた。でも、良子さんが根を上げた。銀行の同僚の方に、そう、安全な生活者の生き方を選んだわけです。そういういきさつを信田さんから電話で聞き、私は演劇にかけることを捨てて、神戸に帰ってきたの。父にもずいぶんと迷惑をかけたし、信田さんにうちの会社を任せるように父を説得したら、父はそれでいいと言ってくれた。村中やセクトの残党たちから信田さんが狙われているのが分かっていたから、信田さんの痕跡を消すために彼には私の姓を名乗ってもらうことにしたのよ。信田さんは、いきさつを全部打ち明けると田村を驚かせるし、迷惑もかけたくないから、オレが何となく世間知で、広子の夫になり、広子の婿養子になることだけを報告してきたい、と言ってきかなかった。私はあなたが田村さんに誤解されるだけでしょう?と止めたけれど、それでいいんだ、と彼が言うので彼の思い通りにさせたの。信田さんは、たとえあなたに誤解されても、あなたと語り合いたかったのだと思う。会社のことだってね、父にはそうする気はなかったのに、自分から辞めるってね、彼は頑固だから。

(35)

―信田はなぜ今頃になって襲われたのでしょうか?

 私は事の真相を聞くのが怖くてたまらなかったのに、やはり聞かずにはいられなかった。私に必要なことは、いまとなっては信田の全体像をつかむことだと思ったからである。

―村中は信田さんに二重の意味で嫉妬していましたから。学生運動の指導者としての、信田さんの圧倒的な力量と、男性としての魅力に対する村中さんの屈折した想いは相当に深かったと思います。彼は信田さんが、あのアパートから姿を消してから私の実家に婿養子として入ったことを、セクトの残党を使ってすぐに掴んでいたようです。それでもいままで手を出さなかったのは、生活者として生きようとしている信田さんを壊す時期を見計らっていたとしか思えません。

 彼女は言葉を紡いだ。

―昨日の夜遅くに電話がありました。私が受けて、それが村中からだ、とすぐに分かりました。傍にいた夫は、

―オレにどこに来いと言ってきたんだ?

 と私に聞きました。会いに行ったらどうなるか、それはまるで意味のないことだと私は思っていましたので、夫の問いかけに対して沈黙を貫こうかと思いました。でも、夫はオレが行かないと、家族ごとやられる。君にも分かっているはずだ。あの運動は間違いだらけだった。オレが予測したとおりに、何度も仲間どうしで殺し合った事件が報道されただろう?オレが行かなければ、この家が標的にされる。オレは絶対に死なないよ。大丈夫だ。やつらの息の根を止めるためには、一市民としてのオレを襲った彼らを警察に逮捕させることしかないからね。だから、広子、場所と時間を教えろよ。オレが指定された時間にその場所に行ったら、警察に電話して、いや、この家に来てもらってもいい。30分後に適当な事情を言って警察を現場に寄越すんだ。それですべてが終わる。安心しろよ、広子。

 と夫は言いましたけど、彼は命を投げ出しに行くのだ、と私は察して夫を送り出すと同時に警察にすべての事情を話し、夫が殺されるからそこにすぐに行ってほしい、と通報しました。夫が命をとりとめたのは、時間差だけの問題でした。夫の言う通りにしていたら、確実に夫は命を落としていたはずです。それでも田村さんがご覧になったようにあの状態です。まったくひどいものです。指定された場所に出かける前に「田村には何も知らせる機会がなかった。この前家に来てくれたときも言いそびれた。広子、悪いがオレがどうなっても田村に言えなかったことをオレの代わりに君から説明してくれないか?」と言われました。私が田村さんにお電話して、いまのようなお話しをしたのはこのような事情です。幸い信田は生きていました。信田本人とじっくり積もるお話をしてください。私、家に帰って彼の着替えを取ってきますので、よろしくお願いしますね。しかし、広子はいつまで経っても帰って来なかった。

 広子から事の真相の概略を聞いて、ひどく驚いたが彼女の話の内実を辿って行けば、細い糸だが私を含めて信田をめぐる人間関係の全容が初めて一つに繋がったように私には思えた。じっくりと自分なりに広子から聞いた話の整理をしながら、病室の外の簡便なソファに座ってから数時間が過ぎた。時間は真夜中になっていた。夕食は病院の食堂で軽く済ませたが、何を食べたのか全く覚えていない。この時の私は、精神と身体がバラバラに分離していたように思う。

 午前2時になって、私は信田の様子を観るために病室に入った。彼は意識を取り戻していたが、意識がもどったのと引き換えに身体中の痛みで小刻みに身体が震えていた。私は信田の枕元の椅子にゆっくりと腰を降ろした。無残に叩きのめされ、腫れ上がった顔から何とか信田らしい痕跡が見てとれるのは、大げさでも何でもなく、彼の目もとだけであった。うめき声のように信田は、「よう、田村、来てくれたのか。」と口にするのがやっとだった。

(36)

―奥さんからすべてを聞いたよ。信田、オレにとっては何とも理解し難いバラついた君の像がやっと自分の中で繋がった気がする。何より君の存在を通して、自分の実像が明確に理解出来た気がしている。奥さんの話を聞いて、君が高校に転校して来たときに感じ取ったオレが君に対してある種畏敬の念を抱いたのもまんざらではなかったな、と思ったよ。

 私はその時、安堵感に満ちた笑みを浮かべていたように記憶する。

―田村、忙しいのに来てくれてありがとな。広子はいろいろ君に喋ったと思うが、多分、正確ではないね。オレの想像では出来過ぎた話に仕上がっていると感じるよ。田村、何故そうなっているか、分かるか?広子のプライドだよ。彼女のプライドが綺麗な物語に事実を創り変えているのは容易に想像がつく。ところで、田村、いま何時なんだ?

―午前2時を過ぎたところだ。

―広子は君にいろんなストーリーを語ってから、もどって来ないだろう?ずいぶん永く。それが彼女のプライドのなせる業だ。オレから事実をきちんと話すから、すまないが声があまり出ないので耳元で何とか聞きとってくれないか?

 と信田は言ったが、広子の話のままでいいではないか、そこに虚飾が混じっていたとしても、十分に信田、君の実情は分かったし、オレは自分に都合よく君を偶像視していたのだから、私にこそ君に謝らなくてはならないことが沢山あるんだ。信田、もうゆっくりと身体を休めてくれ、と心の中で私は念じた。が、同時に一体信田が何を語るのか、聞きたくて仕方がなかったことも偽らざる事実である。人間のエゴとは、いや、オレのエゴとはどこまでも尽きないのだな、と思うしか説明がつかないことだった。哲学的なエゴは<自我>の本質を指すものだろうが、私の裡なるエゴは下世話で身勝手な要素で満たされているのだろうと改めて実感させられた。信田がこんなオレを見棄てずにいてくれたことが奇跡だとも思ったのである。

―田村、君に最初に謝らなくてはいけないのは、オレの学生運動家としてのもう一つの顔を隠すための文学研究会に君を引き込んだことだ。広子の話ぶりは容易に想像がつくが、君が文学研究会の実体に無頓着だったことを、あたかも君の感性の鈍さゆえのことのように語ったに違いない。そう感じただろう?

そのことを前提にして話を続けると、文学研究会に君を誘った当初のオレは、君を隠れ蓑の要素の一つにするために利用した。その一方で、信じてもらえないだろうが、研究会を続けていくうちにオレは、君の純朴さを自分にないものとして心の底から認めるようになっていった。その意味でも、君はオレにとって大切な存在だったし、大げさに聞こえるだろうが、オレの心のオアシスだった。だって、人の純朴さなんて、すでにオレには無縁のものになってしまっていたんだからね。それに君の吸収力の早さと理解の深さには恐れ入った。学生運動のセクトの仲間は殆どが大学生、それも世間では優秀な大学の学生たちだったが、オレはすぐに頭角を現せた。夜間高校に鞍替えしてからは、セクトのかなり上の人間だった村中と競り合うことになったが、オレが勝った。村中にしてみればおもしろくないな。それにしても、彼らの誰よりも君が優れていると心底オレは思ったからね。正直に言っている。

村中が同じセクトの広子に惚れているのを知ってたオレは、敢えて広子をモノにしたよ。奴にグウの音も出ないようにしてやった。村中が広子を付け回していたのも事実だし、オレが彼女を東京に逃がしたのも本当だが、剥いた話をすれば、オレは広子を棄てたんだ。それでこそ、村中のプライドを折り曲げてやることになるからね。広子は多分、このあたりのことを綺麗に君に語ったと思うが、それが彼女のプライドたるゆえんだ。さらに言うとオレが広子の家の婿養子になったのは、君の京都のアパートに報告に行って、オレの話を聞いて君が感じたとおりのものだった。生活苦から逃れて、金のある生活者に安易になるために広子の気持ちを利用した。君が察したとおりだ。

―君は少々偽悪家だからな。オレは彼女の言ったことに共感したがね。信田、君は自分に厳しすぎるのではないのか?

―オレは死に直面させられたが、生き残って、なんだか清々しい気分だよ。偽悪家というのは自分を自分以上に悪しく創っているのだろう?いまのオレにはそういう要素もまったくない。田村に会いたいと広子に伝えさせたのは、もし万が一にも村中らのリンチの後、生き残ったら、君に誤魔化しのない自分を語れると思ったからだよ。誤魔化しのない自分を語りながら、そこに新たな誤魔化しが生じるのが人間の本性だと思うけれど、田村ならそんなウソも見抜けるだろう?だからそういうものを感じたら、差っ引いて聞いてほしい。これは田村にしか出来ないからなぁ。

―オレにはそんな能力も自信もない。でも、君がそこまで言うのなら、オレは心して君の話を聞く。それでいいな?

信田は、私の問いかけがまるで聞こえていないかのように話続けた。

―広子を東京に逃がすことは、勿論広子の考えとは全く相いれないものだったから、話が長引いて文学研究会に参加出来たのは、真夜中だったよな。オレは良子に惚れていたから、広子と別れるのは良子のためでもあると信じていた。けれど、良子は辛かっただろうね。君が月一くらいでオレのアパートにやって来る以外の殆どの時間は、バーのアルバイトの時間を除いてセクトの指導に明け暮れる毎日だったからね。良子はさぞかし寂しかったと思う。

新左翼という運動に見切りをつけたのは、世の中の仕組みがよく分かったからだよ。生活者を巻き込んだ運動を組んでいたつもりだが、日本の大半の日常生活者は、革命をすでに起こした国々とは比べ物にならないほど満たされていたというわけだ。一部の大金持ちを除いて、ある意味当時の日本は社会主義的ですらあった。だからこそ、オレは新左翼運動に見切りをつけた。自分のセクトも解散した。このあたりの話は広子がたぶん君に伝えたように、近いうちにセクト間どうしの小競り合いになり、無意味な殺し合いに発展しかねなかったからね。実際に何件かすでに事件になって、世間の非難を浴びてるな。政治運動というのは、内向きの権力抗争に明け暮れ始めたらもうダメだ。それがたとえ崇高な理念のもとにはじまったものであれ、失敗なんだよ。大衆運動が挫折するのは、運動の指導者が大衆の欲動を見限るからだ。生活者の稚拙であっても切実な要求に寄り添えず、それらを馬鹿にして切り捨てるからなんだよ。それに日本は原爆を二発も落とされても、アメリカさまさまだからね。アメリカがぶら下げた経済発展という飴の虜なんだ。こういう認識からすべての反権力闘争は出発したはずなんだけど、やはりオレも含めて理想主義に走り過ぎてしまう。社会主義や共産主義に属する国々も資本主義諸国とは違う意味で生活者としての国民を見棄てているからね。政治に理想というものを持ち込んだ途端に破綻する。これがオレのいまの考えだよ。正直、もう懲りたね。

村中って、表面上は夜間高校の教師だったろう?まあ地方公務員だ。国家行政の片棒を担ぐ役割のせいで、食うには困らなかったわけだから、オレが運動から抜けた後のリーダーのポジションを離したくなかったのだろう。まあ、生活者の余裕だよ。矛盾だらけだけど。それに広子への未練を執拗に持っていたからね。あいつのプライドを満たしてやるために、オレはあいつの学歴をくすぐっておけばよい、と思っていた。だからあいつはオレが大学受験を目指しているというウソに飛びついて、敢えて受験には不向きな洋書をオレに貸したわけだな。あいつはオレのウソが見抜けなかったし、その間は広子のことは守ってやれた。田村、この点は君にも心配をかけたね。君の心の叫びが聞こえてきそうだった。そんなやり方じゃあ、大学には受からないんだっていう、声がね。

―そうだったのか、あれは君のポーズだったのか。同時に良子さんの生活者としての安定願望を満たすためでもあったわけだな。

―良子だって、オレが大学に行くなんて信じてなかったと思うけどね、良子は少なくともオレの裏の顔を知ってはいた。だから、たとえ無駄な勉強であっても、大学には合格しなくても、いつかはまともな生活者になったオレとの結婚を望んでいたのかも知れないね。君が見たオレの勉強している姿は実は良子向けの安心材料としての演技だった。しかし、良子がいかに孤独で心細かったのかはオレの理解を超えていた。たぶん、目的は察していただろうが、オレが広子と出かけたことで、君への気持ちが高ぶったのだと思う。事実良子が君のことを好きだったのは分かっていたし、君の将来が、オレとは違って、盤石なものになるだろうと云うことも分かっていたからね。良子が君に惹かれたのも頷けるんだ。田村、オレたちはあの研究会で、人間の本質についてずいぶんと語り合ったよな。人間の崇高さとそれとは真逆の醜悪さとをいろんな角度から分析したよなあ。あれだよ、あそこにすべての解答がある。

 ここまでかなり信田は性急に語り、疲れたのかしばらく目を閉じ、頭の中を整理している様子だった。私は信田に水を含ませた。信田は静かにありがとうと言った。広子は夫の状態について具体的に何も語らなかったので、回診にきた医師に聞いてみて、本当に信田は危なかったのだ、と改めて思い知った。全身の打撲と数か所の骨折、内臓破裂だ。私は恐怖心でいっぱいになった。同時に信田と広子、広子の父親との関係性の危うさについても、広子の話を真に受けることは出来ないのだ、と確信した。

 医者の話では信田の症状が急変することはない、と聞いたので、とりあえず夜が明けたら家に帰ろうと思った。

(37)

 六甲道から三ノ宮駅にとって返し、そのままJRで京都駅まで帰ることにした。あらぬことか、私は電車の中で多恵に対する強い欲情に駆られたのである。多恵の汗にまみれた白い柔らかな肢体から溢れ出て来る愛液にまみれながら、多恵のヴァギナの奥深くに自分のペニスを挿入し、交接の行為を通じて多恵という女の存在を感じ取りたいと心の底から思うのだった。そういう想いの中で私は勃起した。それを隠すために膝にカバンを置いた。こんなふうに妻に会いたいと思ったのはこれが初めてのことだった。

 帰宅して出迎えてくれた多恵の口を吸い、乳房を揉みしだき、スカートの中の彼女の秘部に手を差し入れた。その時、すでに多恵は濡れていた。スカートの中に顔をこじ入れて多恵のクリトリスを舌で舐め上げた。彼女のうめき声とともに躰が崩れた。私たちは玄関で一度目の性交をし、互いの乱れた服を抱えて寝室に移動した。私は帰りの電車の中の妄想どおりの愛欲に溺れた。三度目に果てたとき、多恵はぼそっと死ぬかと思ったわ、と呟いた。その呟きを聞いた瞬時、ああ、オレは多恵と情死したいのだ、と思った。

(38)

 翌日、学校に出向くと、どういうわけか校長に昇進していた服部が声をかけてきた。普通、昇進した際は、勤務校をかわるのだが、服部は現在の高校が進学校であり、自分が校長になってさらに進学率を上げることで、教育委員会への出世の道程が早まることを思い描いていたのだ。服部が私に声をかけてきたのは単なる思い付きか偶然だ。あるいはご機嫌がよかったのだろう。彼は上ずった声で言った。

―田村くん、そろそろ子どもをつくらないとね。いいご家庭になりますよ。

 服部のその言葉を聞いたとき、自分の中に殺意が駆け巡った。よくもそんな能天気なことが言えたものだ。オレに自分の女を押しつけて、さぞかしおぞましい想像力を発揮しているのだろう。抑え込んでいた感情が爆発した。気がつくと、私はたいした腕力もないのに、服部の顔面に何発もパンチを喰らわしていたのである。馬乗りになり、誰かに止められるまで、数十発はただ顔面だけを殴り続けた。服部の顔はみるみるうちに腫れ上がり、いくつもの裂傷が顔面のあちこちに走り、口から唾液の混じった血が止めどなく流れていた。不思議なことに私は、服部に対するいかなる言葉もなく、ただ沈黙の中で殴り続けたのだ。最後は警察が呼ばれ、止められたが、私は殴った理由を言うことはなかった。当然のことだ。

 服部が私を訴えることはなかった。もし、訴えられ大事になっても、私は黙したまま教師を辞めるつもりでいたが、服部はそうは考えなかったようだ。服部の怖れが、私を教師という職業に繋ぎとめた。とは言え、服部は暴力的な部下を許し、私はキレやすい危ない教師だという烙印をおされたまま、勤務校を替えられた。

いずれにしても、私は服部に嵌められた人間であり、当時の教頭だった服部から紹介された多恵と結婚にこぎつければ、上を目指せるなどという粗野な野心を持ったのである。そして、欲得づくでしか物事を考えられない卑しい服部が、多恵に対して、誇大な自分に対する愛という幻想を与えてしまったのである。何より、その多恵を私が心底愛しはじめていたことが、服部を完膚なきまで叩きのめした主な原因であることに思い至ったとき、私は自分の生き方を根底から変えることが出来たと思ったのだろう。多恵の心がどこにあろうと、私は目の前の多恵を愛し抜くと覚悟を決めたのである。

(39)

 転勤後、一年が過ぎた頃、服部は出世街道をまっしぐらに駆け上がったと風の噂に聞いた。そして、教育委員会の役員になって、多方面からの接待続きだったようだ。これこそが、服部が夢にまで見た地位だっのであろう。祇園の料亭で接待を受けることが多く、自分の金を使うことなく贅沢三昧をしていたとも聞く。

ある日の夜遅く、いつものように服部はしこたま酒を飲み、帰りにお連れの人間たちと別れたとき、チンピラらしき男に突き当たり、謝ればいいのに酔った勢いでめったに使わない言葉を吐いたのだそうだ。するとその男は持っていたナイフで服部をめった刺しにして逃げたという。殆ど即死だと新聞の報道や、同業者から入って来る情報で分かった。目撃者は数人いたそうだが、刺した犯人らしき男は、すばやくその場を立ち去り結局服部は文字通り犬死同然にこの世を去った。この事態を知ったとき、自分は因果応報などという概念を信じない人間だったが、放った悪しき矢は結局自分に返って来るのかも知れないと思った。私自身の心の傷があまりに大きかったせいか、私は想像以上に冷静で、ひどく醒めた観想を言えば、本当はオレが服部という男を殺したかったのだ、と心の奥底で思い知ったのである。

服部の葬儀は、立場上大規模なものだったそうだ。私は出席しなかったが、私は東京に出張中のことで、妻の多恵がどうしたのかは定かではない。私の直感だが、多恵は葬儀に参加したのではないか、と思う。しかし、その頃の私にはそんなことはもうどうでもよくなっていることに気づいていた。人は憎悪の対象を失えば、おかしなことに大切な人を失ったのと同様に喪失感を味わう。間尺に合わないことだが、これが私の裡に起こった心的変化であった。

多恵に対する情欲の炎(ほむら)は、急速に冷えた。多恵に対する愛情は変わることはない。が、私の常軌を逸した多恵に対する性的執着心は、服部に対する怨念の裏返しでもあったことを認めざるを得なかった。私たち夫婦の性的関係性から異常さが消えた。

(40)

 服部の事件以降ほぼ一年がまた過ぎ去った頃、真夜中に電話があった。多恵は眠りに落ちていたので、電話には私自身が出た。受話器から聞こえて来る声には聞き覚えがあった。声の主は田中広子だった。

―こんな時間に非常識だとは分かっていたのに、田村さんにしか聞いてもらえないので電話してしまいました。ほんとにごめんなさい。

 消え入りそうな声が、田中広子には似つかわしくなかった。

―そんなことは構わないけれど、広子さんが電話して来るなんて、信田が入院して以来だから、何か大きな事が起こったんだね。大丈夫ですか?

―信田がね、離婚届けの必要事項を埋めて署名、捺印して家を出て行ってしまったの。知らない間に。私たちの間にはいろいろな出来事が邪魔をしてうまく行っていないことは信田から聞いて知ってますね?本当は、彼は私の父との折り合いもよくなかったし、要は私たち親娘が彼を腐らしたのだ、と思います。離婚には応じるつもりですけど、私が心配しているのは、信田が良子さんと逃げたことなの。良子さん、旦那様との間にお子さんが一人いらっしゃるのに、子どもを置いて二人して逃避行よ。まいったわ。喋るうちに以前の広子らしい語り口調になっていた。

―広子さん、私に何をしてほしい?何でもするから言ってほしい。二人がいる場所は大体だけど分かる。千葉の木更津から信田らしいハガキが来ていたから。でも、彼はいつも最後まで住所を書かないから、木更津としか特定出来ないんだよ。

―木更津かぁー。何でそんなところに行ったのかしら?

―僕にも心当たりがない。僕の方から信田に便りを出すことは不可能だし、次の便りを待ってみるしかないね。ヒントがあるかも知れないから。

―田村さんには知っておいてほしいのだけれど、私、この際ホントに離婚に応じます。幸い、父の会社もいまたたんでしまえば少しは資金が残るし、この屋敷を売り払ったお金を足して、神戸の適当な場所にお洋服のお店を出そうかと。私、東京で劇団の仕事をしばらくやっていたときに、裏方でね、劇団員の衣装担当だったのよ。その経験が生きると思うの。お店の場所が決まったらお知らせしますから、田村さん、一度顔を出してくださいね。

そう言うと電話は切れた。

 すでに広子は次の生き方を考えていた。そこに信田の姿は一切なかったのである。何年にも渡る信田の結婚生活は終わったのだ。私の独身時代に住んでいたアパートに、彼独特の左肩を少し下げ気味にして立って待ってくれていた姿が、昨日のことのように私の頭の中を掠めて通り過ぎた。私は、あの時、恥ずかしそうに自分の結婚話を語ってくれた信田の、照れ笑いを思い浮かべると、哀しみと微笑ましさとが入り交じった複雑な表情を思い起こしていた。信田、木更津でもどこでもいいから、もう一度良子とやり直せるものなら、がんばってくれ。君は絶対に人を頼らぬ人だから、何も頼み事などして来ないのだろうが、出来ることなら、それを私には遠慮なくそうしてほしい。出来ることは何でもする。二人とも私にとっては大事な人だから。電話の後、私は一睡も出来ず翌朝を迎えた。

(41)

 あれから一体何年が経ったのだろうか?気の遠くなるような年月が過ぎたように思えてならない。信田との音信は途絶えたままだったが、良子と神戸を逃げ出してから、5年ほどして良子は神戸にもどってきた。良子本人からの手紙でそのことを知った。手紙の内容はこうだった。

「私は両親の影響もあってか、心のどこかで安全で、安定した生活のあり方を望んでいました。そんな私の前に現れたのが信田幹雄さんという、私の個性に、そして私の人生そのものに大きな化学反応を起こさせた男性の登場でした。彼の他者を惹きつけて止まない個性は、田村さん、あなたならよくお分かりでしょう。同時に、田村さん、あなたも私にとって、落ち着いた生活を与えてくれるであろう、特別な男性でした。

私は幹雄さんに人生観の根底を揺さぶられる一方で、あなたに対して私をもとの私にもどしてくれるだろう人として、あなたに対する気持ちを心に秘めていました。愛のカタチにはいろいろあるのでしょうが、幹雄さんに対する愛も、あなたに対する愛も私にとっては大切なものでした。

一度だけ、あなたと幹雄さんのアパートで愛し合いましたね。あの時のあなたには、私が広子さんに対する当てつけにあなたを利用したのではないか、と思えたことでしょう。でも、それは違います。広子さんも幹雄さんも極左運動に加担している人でしたし、私もこわごわですが、お二人のお手伝いを何度かしたことがあります。だから、あの日、幹雄さんと広子さんが一緒に出掛けた理由はよく存じていました。勿論、広子さんに女として嫉妬心がなかったかと問われれば、確かにあったと思います。それでもあの時は、広子さんの命に関わる問題でしたので、二人の帰りが遅かったことで、あなたと愛し合ったのではありませんでした。私にとっては、あなたにこそ救ってほしい、そして愛してほしい、と思えるほど、あなたを愛していたのです。広子さんを幹雄さんが東京に逃がした後、幹雄さんの強すぎる吸引力に抗うことなど出来ませんでした。彼と夫婦ごっこのような生活をはじめたとき、どれだけあなたをがっかりさせたことか、また、あなたが幹雄さんに対してどれだけ大きな良心の呵責を覚えたことか、よく分かります。あなたにはいくら謝っても自分の罪深さを贖うことなど出来ないと思っています。本当にごめんなさい。

その後、私は会社の同僚と結婚し、あなたも結婚なさいました。幹雄さんが広子さんの家に入ったのは、私に対して絶望したからだと思います。ご承知のように幹雄さんは正義感の強すぎる人でしたから、敢えて村中さんたちのリンチを受けることで広子さんを救ったのだと思います。自己弁護になりますが、私も広子さんも生活者としての女の立ち位置から逃れられなかったのです。幹雄さんの純粋な真心を結局は裏切ることになってしまいました。

幹雄さんが広子さんと離婚したことを広子さんから聞くに及び、私から幹雄さんに連絡しました。そして私は一旦築いた家庭を壊して、幹雄さんについて行こうと決心しました。浅ましい生活者としての女であることを棄てようとしたのです。5年がんばりました。結果はこの手紙を田村さんに書いているように、彼のもとを去り、神戸に舞い戻りました。もとの主人が子どもを引き取り、再婚して子どもはすくすくと育っているようです。私は両親のもとにもどり、これまでの罪滅ぼしと云ってはなんですが、両親の面倒を見て暮らすことにしました。

幹雄さんは、この5年間よくしてくれました。そして私の本質を誰よりも見抜いている人でした。私にもとの生活にもどれ、と言ってくれたのは彼の方です。そして、もとの生活と言っても簡単ではないぞ。君は子どもも棄てた。もとの旦那は再婚しているだろうし、子どもにも相手にされない。そのことを受け入れるなら、オレは良子、君をもとの生活者にもどしてやるよ。オレと一緒にいてもロクなことにはならない。もう無理をしなくていい。最後に幹雄さんと別れたのは姫路です。意外に近いところにいたでしょう?木更津から転々として辿り着いたのが姫路でした。たぶん、幹雄さんはまたどこかに行ってしまったと思います。

私といる間、ずっと田村さんのことを彼は心配していました。私には理由は知らせてはくれませんでしたが、服部伸郎さんという名前はよく口にしていて、あいつがいる限り、田村は幸せになれない。服部は広子を追い回した村中以上にタチが悪い。あいつは必ず田村の女房に手を出すからな。こういう言葉だけが私の脳裏に焼き付いています。そのうち、幹雄さんからあなたに便りがあることと感じます。あなたが唯一の幹雄さんの理解者です。また、幹雄さんも田村さん、あなたの唯一の理解者ではないでしょうか。長々と書いてしまいました。あなたの心の中に引っかかっていることが、これで大体は氷解したと思います。陰ながら田村さんのご多幸をお祈りしています。良子より。」

これが良子からの手紙の全容である。私の結婚について、特に服部伸郎について、信田が気にかけていてくれたことを頼もしく思えると同時に、自分の心の奥深いところでざわつく感情を拭い去ることが出来なかった。

(41)

 入院が長引くと、さすがに検査入院だと思えなくなったようで、多恵も担当医に私の病状を聞くことになったようである。世間では老後の楽しみなどと言うが、そもそも老後とはなんだ?老いた後に来るものは死以外の何ものでもないではないか?そして、このオレもご多分に漏れず、残り少ない老後を生きて、自分の死と向き合っているのだな、と意味のない言葉遊びをしていると、多恵が病室に入って来た。

死が近づくと、相部屋から個室に移される。まるで儀式のように、である。しかし、オレにはちょうどよい。初冬の、澄んだ空気と、時折舞い散る粉雪が病室から見える鴨川をより美しく見せている。枯れた日本画を毎日見られるというのだから、なかなかおつなものである。65年が長いのか短いのか?日本人の平均寿命からすると短すぎるということになるらしいが、平均寿命ほど馬鹿げた指標はないな、と文男は想う。要は個々人がどう生きたかという満足感か、諦念なのかは分からないが、人の生き死とは主観主義の極致だ。その意味では、オレは自分の死期を静かに受け入れたいと心から思っている。

治療をまったく放棄するというのは、かえって生に対する裏返しのような執念とも感じとれるので、抗がん剤は拒否したが、放射線治療だけは受けることにした。多恵に後悔させぬためにそうすることに決めたのである。せめて放射線治療だけは受けてください、という妻の願いを拒否するのも、この場に至っては諦めが悪く感じられるからでもあった。多恵も私の死を受け入れるだけの心の準備をする時間が必要なのだ、と思う。この歳になると己の死も自分の意のままにはならないと云うことらしい。だが、私は幸せな人生の終焉を迎えているのだ、と云う想いの中で死んでいけるのである。これでよかった、と心底想う。私は、冬の鴨川の流れを眺めながら、そして多恵の甲斐甲斐しい姿を見ながら、さらに言うならば、信田から最後に来た、もうかなり赤茶けた長い手紙を読み返すことが出来るのである。これでいい。もうこれ以上は望むことはない、と心の中で思いながら多恵に微笑みかけるのだった。

(42)

 信田からの最後の手紙である。

 「田村、君とは長い付き合いになる。私が転学してきたときに最初に声をかけてくれた時の私の喜びに君は気づいていたか?父が死に、幼い妹と一緒に私たちを棄てた母親を頼って神戸に来た。もっと正確に言うと母親という幻想に頼って、という方がその頃の私の心境に近い。予想どおり、久々に会った母は、自分の幼い頃の記憶の中の母ではなかった。君にも話したと思うが、再婚相手はタクシーの運転手で、別にタクシー運転手がみなそうだなどという偏見はないが、彼は銭金にうるさい特別嫉妬心の強い男だった。子どもに対する母性にも自分をないがしろにする侮蔑の対象としか思えなかったようだ。母の外見上の変貌ぶりは目を覆いたくなるばかりだったが、彼女の苦悩はよく理解出来た。それで、私は幼い妹だけを母に託し、その家を出た。恥ずかしいことを言うようだが、その時の私は孤独だった。

 学校の勉学にも身が入らなかったので、授業を聞いているフリをして、とりとめもない詩のようなものをノートに書き留めていた私に興味を抱いてくれたのが君だった。冷静さを装っていたが、その実、私は飛び上がらんばかりに嬉しかった。そして君はその時から生涯の友になった。

 君を学生運動に誘わなかったのは、あの運動がいずれは醜悪な終わり方をするのが分かっていたからだ。私は少々ヤケになっていて、高慢ちきな大学生たちが主導権を握っている運動母体の指導者になってやる、と思った。そもそも私にはあの運動に対する見通しもなければ、意義も理解し難かった。理由は前に私が村中たちにリンチをくらったときに、見舞いに来てくれた病室で君に話した通りだ。

 私と良子、広子を巡るゴタゴタは、君が認識しているとおりだ。広子には罪の意識を感じることはないが、良子は、せっかく自分の価値観に沿う家庭をつくったのに、私はそれをぶっ壊してしまった。そうしたくはなかったが、彼女への愛が自分の理性を超えてしまった。良子には失わせるものが大きすぎた。この手紙を書いているいまでも私の大いなる罪だと思っている。

 唐突だが、君に知っておいてほしいことがある。君に伝えようかどうかかなり逡巡した末、やはり私が仕出かしたことであれ、君が想像だに出来ない悪しき影響があってはならないと思い、敢えて書き置くことにした。私は警察に捕まろうと構わないが、君にあらぬ共謀罪の疑いがかかるといけない。それに君の奥さんも君を憎むかも知れない。少なくともそういう可能性はある。

私から言えた義理ではないが、次に書くことは墓まで持って行ってくれるとありがたい。が、これを警察に差し出すのも君が無関係だという明らかな証拠になる。どちらでもよい。

 君が結婚した経緯はずっと前に聞いた。そして、君という人間を侮蔑した服部伸郎という腐った輩についても私なりに調べ上げた。服部が教育委員会のかなり上のポジションになり上がってしまったとき、あの男が君の奥さんを放っておくはずがないと私は確信した。あの男が生きている限り、君たち夫婦の未来は不安定そのものだ、と私は思った。ここまで書けば、私が君に何を伝えたいのか察しがついたことだろう。そうだ、あの男を葬ったのはこの私だ。私ごときに人を葬る権利はないが、田村、君の未来をあんなゲスな男に掻き回されるのは、私には堪らなかった。君のためにやったなどとは言わない。私が、自分で判断し、実行したことだ。これが服部伸郎を私が殺した全容だ。これを聞いてどうするのかはあくまで君にゆだねる。

 田村、私はまだまだ酔っぱらったように生きていける。それが娑婆であろうと拘置所であろうと。もう会うことはなかろうが、私の人生に意味があったとするなら、それは君に出会えたことだ。いや、君が私を見つけてくれたことだ。心から感謝している。君には奥さんとずっとずっと永く生き抜いてほしい。それが私の願いだ。」

(43)

 自分の体調から判断すると、私はたぶん明日にはこの世界から去ることになるだろうが、抗がん剤治療をやらなかったお陰で、心も身体も緩やかに死を迎える準備をしているのを実感出来る。今日は夕暮れ時の景色が美しかった。65歳の人生の終焉だ。これでよかったと心底想う。信田にはもっと永く生きてほしい。そして、少しは自分に甘くなった晩年を送ってほしい。信田からの最後の手紙は数日前に処分しておいた。手紙は処分したが、信田、君の気持ちも君のイメージも私の心に深く刻まれている。こうして死ぬのだから、思い残すことなど何もない。妻には私亡き後の人生をまずまず余裕を持って生きていけるようにしておいた。

眠くなってきた。このまま眠ってしまえば、もう目覚めることはない、と感じる。妻は売店に買い物に行っている。死ぬときは独りなんだな、と改めて痛切に想う。カルぺ・ディアムのラテン語の意味を、信田、君が教えてくれた、「いまを生きろ!」という意味だったと記憶しているが、私なりに少し付け足しておきたい。「いまを生き、いまを死ぬのだ。」と。田村文男は、信田に語りかけるように頭の中で言葉を紡ぎ、そして静かに目を閉じた。田村の永遠の眠りと世界とは何の関係もなかったかのように、やはり存在し続けるのだろう。田村の死に顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。

                ―完―

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エレジー @yasnagano

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