メンヘラさんの心臓
「これ、あげる」
メンヘラさんはそう言うと、自らの胸部に手を突っ込んで心臓の下半分を取り出し、私に差し出した。未だに拍動を続ける、正真正銘生きた心臓だ。
「いやぁ、流石に悪いよ」
「まだ半分あるから、いいよ」
私が抗不安剤なしに私を維持できないように、人体には心臓が欠かせない。いくら半分残っているといえども、軽々しく他者に譲り渡していい物ではないのだ。
とはいえ、メンヘラさんは私の希死念慮と同じくらい頑固だと知っている。仕方なく、私は感謝を述べて彼女の心臓をポケットに押し込んだ。
「お返しに何かできたらいいんだけど」
「じゃあさ、今欲しいものあるの」
お高いブランド品でも求められたらどうしようと、私は密かに不安を覚えた。しかし、心臓を貰っておいて『はいさよなら』はあんまりだ。私に叶えられる範囲なら、最善の努力を尽くそうと決めた。
「あんまり高いのは買えないぜ」
「大丈夫、右眼が欲しいだけ」
「もちろんいいとも」
私は右眼を抉り出し、メンヘラさんに渡した。彼女はしばし右眼を眺めた後、私と同じようにポケットに放り込んだ。
簡単な取引。だが、右眼と心臓ではレートが吊り合っていない気がする。いっそお互いに眼を交換すればどうだろう。それならこの場で入れ替えれば済む話だし、私の視力も損なわれない。
「やっぱ心臓はやめてさ、お互いの眼を交換しないか?」
「いやだ。私、自分のこの眼が気に入ってるから」
「じゃあ俺の眼は一体どうするんだい」
「冷蔵庫で冷やす」
ふーむ、そういう手もあるのか。確かに、夏場なんかは冷えた目玉が気持ち良いだろう。私もどこかで新品を仕入れた方がいいのかもしれない。というか、早いとこそうするべきだ。それまでは左眼だけで過ごさなくてはならないのだし。
それから、私はメンヘラさんを連れてバーに行くことにした。二人してスツールに腰掛け、ホルマリン漬けのイヤホンを眺めてからバーテンダーに注文を伝える。私はいつもウォッカで、メンヘラさんはギネスビールを飲んでいた。
「乾杯しよ」
「今日は何に?」
「集合的無意識に」
「Хорошего дня!」
最高の気分だった。メンヘラさんの集合的無意識に惜しみない賛辞を呈し、キンキンに冷えたウォッカを一息に飲み下す。やはりウォッカはストリチナヤが一番だと、また確信を一段と深めた。
普段の私は酒を飲むとダウナーになる人間だが、彼女と飲む時だけは完全に羽目を外してしまうのだ。意気揚々とウォッカをショットグラスに注ぐ私を見て、メンヘラさんはくすくすと笑う。
「やめてよ、ロシア語」
「いいじゃないか」
「発音がイカれてて笑っちゃう」
言語など意図が伝わればそれでいいのだ。私は酒の肴にブロチゾラムを齧り、自分とメンヘラさんに手巻き煙草を作った。シャグを二種類、メンソールとバニラを7:3で混ぜ、スローバーニングペーパーで巻くのがポイントだ。
一つの火を二人で分け、しばし静かに煙草を楽しんだ。聖なるエレキギターの絶叫が店内を満たしている……音を聞きつけたのか、黄色いイルカが窓からこちらを覗いていた。
「もう一本吸うかい」
「うん……どこ行くの」
「右眼が寂しくてさ」
私は席を立ち、ビリヤード台からボールを一つ拝借した。大きさを確かめて、空っぽの眼孔に押し込んでメンヘラさんの元へと戻る。
「どうかな」
「まあまあイケてる」
ぴかぴかに磨き上げられたカウンターを鏡代わりに、私は自分の顔を眺めた。ビビットなボールが、眼孔から顔を覗かせている。
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