第57話 惜別と真相

 後日、俺と田浦さんは早朝の家庭科室を訪れていた。

 コンコンと扉をノックしてからスライド式の扉を開くと、家庭科室の前方のテーブルに彼女は座って待っていた。


「呼び出してごめん。来てくれてありがとう」

「いいわよ別に……分かっていたから」


 そう言って答える紗季姉はテーブルに頬杖を突いて窓の外を眺めていた。

 紗季姉はどこか遠くの彼方を見ていて、こちらへ意識を向けて話している様子ではない。

 そんな紗季姉の様子に、俺と田浦さんは視線を合わせてお互いに頷くと、そのまま紗季姉の方へとトコトコ歩いて行く。

 テーブルを挟んで紗季姉と向き合うと、俺は田浦さんの手を取り、ぎゅっと握り締めた。


「紗季姉。俺、田浦さんと付き合うことになった。だから悪いけど、紗季姉の気持ちに応えることは出来ない」

「……そう」


 紗季姉はため息を吐くかのように答える。


「ごめん、これ返すね」


 そう言って、俺は胸ポケットから紗季姉に手渡された婚姻届を取り出して、テーブルの上に置いた。


「……本気なのね」


 紗季姉はじろりと睨みつけてくる。

 俺の決意を確かめるようにして。

 けれど、もう怯んだりはしない。

 だって、今隣には、心強い最愛の相手がいるのだから。


「うん、本気だよ。今後紗季姉に気持ちが揺らぐことはないよ」

「……そう」


 すると、紗季姉は次に田浦さんへ視線を向ける。

 田浦さんが一瞬たじろぐのがわかった。

 しばし無音の沈黙が続いたかと思えば、紗季姉はふいにふっと破顔して笑みを浮かべる。


「海斗のこと、頼んだわよ」


 そう柔和に微笑み、紗季姉はすっと席を立ち、家庭科準備室の方へと向かって行ってしまう。


「ちょ、紗季姉、まだ話は終わって――」

「大丈夫よ海斗。あなたが言いたいことは全部分かってるから。私は他の人を利用して酷いことをした。自分の罪を償う覚悟はできているわ。腹いせに報復したりなんて下手な真似はしないわよ」


 紗季姉は、まるでこうなる時のこともすべて見越していたかのように、俺が責任を負おうとしていたことを全て紗季姉が負うと宣言したのだ。

 それは、俺にとって信じられないことで、思わず唖然としてしまう。


「それじゃ、二人共教室に戻りなさい、そろそろHRの時間よ」


 そう言い残して、紗季姉は踵を返し、振り返ることもせず、家庭科準備室へと入って行ってしまった。



 ◇◇◇



 それから、数カ月の時を経て――

 紗季姉は責任を取る形で教員を退職してしまった。

 隣に住んではいるらしいが、働く時間帯が変わったからか、ほとんど顔を合わせることは無い。

 そんなことがあり、私は海斗と今日も一緒に下校中のこと。


「愛優、なんか嫌なことでもあった?」


 突然、海斗がそんなことを尋ねてくる。


「え、どうして?」

「いや……なんか最近、浮かない顔してることが多いから、何かあったのかなと思って」

「ううん。そんなことないよ。ただそのぉ……紗季先生のことがちょっと気になって……」


 私が小声でそう尋ねると、海斗は納得した様子で頷いた。


「あぁ……そういうこと。まあ最近俺も顔を見てないんだけど、元気に新しい職場でやってるみたいだぞ」

「そうなんだ……」

「何か気になることでもあったか?」

「ううん。なんでもないの、気にしないで」


 海斗は首を傾げているが、これは私にしか分からないこと。

 それは半年前、夏休み明けの家庭科準備室での出来事。


「紗季先生……あの、ご相談があるんですけど……」

「あら、田浦さん。どうしたの?」


 家庭科準備室で何やら事務作業をしていた紗季先生に、私は勇気を振り絞って相談したのだ。


「私、須賀君のことが好きなんです!」

「えぇ⁉」


 その言葉を聞いて、紗季先生は驚いたように目を見開いた。


「へ、へぇー田浦さんが海斗を……ね。それで、どうしてそんなことをわざわざ私に?」

「だって大津先生。須賀君と昔からのお知り合いなんですよね? それなら、付き合う前とはいえ気持ちだけは伝えておいた方がいいかと」


 私が恥ずかしそうにそう言うと、紗季先生はふっと噴き出した。


「ちょ、笑わないでくださいよ!」


 私が頬を真っ赤にして咎めると、紗季先生は『ごめんなさい』と言いながらこちらへ視線を向けてきた。


「田浦さんは本当に律儀な子ねもう……。分かったわ、あなたの理想通りの世界を作れるよう、私も手伝ってあげるから」


 もしかしたら、今こうして須賀君と一緒にいれるのは、あの時から始まっていたのではないだろうか。

 そしてあの惨状を招いた結果もすべて、紗季先生が私のために仕向けてくれたのではないだろうか?

 今さらながらに、そんなことを思ってしまう。

 真相は聞けないので闇の中。

 けれど今は、これからもずっと隣に歩んでいきたい彼がいるだけで、私は幸せだと感じるのだから、それでいいと思った。

 譲ってくれた幼馴染のお姉さんに心の中で感謝を述べつつ。

                                    


 完

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