盲亀の浮木

熊山賢二

本編

 盲亀の浮木

 彼と彼女の出会いは、普通ではありえないものだった。世界を超え、時代を超えたあり得るはずのなかった出会いだった。天文学的な確率で起こる事象がなんの偶然か必然か、彼に起こった。彼は彼女のもとへ招かれた。


 最初の出会いはいいものではなかった。人里から離れた森の中で、定期的な見回りを兼ねた狩猟をしていた彼女に出会った。そこは森の奥との境界に近いところで、奥に行ってしまえば獣の領域となる。人から遠く離れて暮らしている強大な獣たちを刺激してしまうところだった。彼女は森の人とも呼ばれる、森と寄り添って生きるエルフという種族ではあったが、明確に獣と生きる領域は分けていた。人の近くでは猛々しい獣たちは幸福に生きることはできない。人もまた、そんな猛獣とは共に生きることは叶わない。お互い関わらないことが自然とできた掟だった。それを破るところだった彼に彼女は怒った。


 そこからは行く当てがないという彼を不憫に思った彼女が、少しの間ここで生活する許可を彼に与えた。もちろんタダ飯を食らわせるつもりはないため、遠慮なく彼をこき使った。水汲みを何往復もやらせたり、狩りに連れていき囮の役をやらせた。彼は嫌がったが狩った獣の解体処理も教えて、それからは解体は彼の仕事になった。解体は力仕事なのだ。彼女は慣れているといっても女性であるため、かなりの重労働だったのだ。


 いつの間にか一年が過ぎ、出会った時と同じ季節になっていた。少しの間ここに置いてやるだけのつもりだった彼女だったが、今では追いだす気にはなれなかった。彼の役割も多くなった。以前は彼女一人で全て行っていたことだが、彼がいなくては困るようになっていた。


 いつもと変わらない今日がいつも通りやってきた日のことだ。それはいつもと違っていた。分厚い雲が空を覆い尽くし、湿った生暖かい風が吹いていて不穏な気配を漂わせていた。このあたりの気候では珍しいことだった。嵐がくるかもしれない。今日はいつもの仕事はやめて、家の中におとなしくこもっていたほうがいいだろう。


 強風への対策をした後は、家の中で道具の整備をしていた。彼女は狩りに使う弓のメンテナンスに矢の作製、ナイフを研いだりもしていた。彼は農作業に使う道具を直したあとは、ここでは数少ない本を読んで勉強をしだした。彼はこの一年で随分と読み書きができるようになり、今では誰の手も借りることなく手紙を書くことができていた。


 風に煽られて雨戸が鳴る。嵐が来たようだ。音は次第に大きくなり、今まで経験したことがないくらいの大嵐になっているようだった。時折、風の音以外にも強大ななにかが吠えるような声も聞こえてきた。


 彼は少しおびえていた。災害が多いという故郷でもこれほどの嵐はめったにないそうで、加えてなにかの吠える声が恐怖を駆り立てた。無理もない。彼女のほうも経験のないことで不安を隠しきれずにいた。


 すぐ近くから地響きがした。なにか、すごく重い物が地面に落ちたような音だ。なにかが近くに来た。吠える声の主だろうか。二人はなにも言わず、静かに息をひそめた。強大なものが迫ってきている。狩りをする彼女はもちろん、そういった勘が鈍い彼も理解していた。


 呼吸は控え目に、決して動かず、存在を極限まで消していた。どれほどそうしていただろうか。一分ばかりの気もするし、一時間経っているかもしれない。時間の感覚が不明瞭になり、生きている実感すらもなくなりそうになったころ、今まで感じていたプレッシャーから解放された。長時間の素潜りをしていたかのように二人は激しく呼吸をしだした。正体不明のなにかは去ったようだ。


 嵐は一日で過ぎ去った。風がおさまったことを確認した二人は外へ出た。森の木々はいくつも倒れ、土は一度掘り返したかのように荒れていた。幸い二人の家は目立った損傷もないように見えたが、彼が梯子を使って屋根を覗くと異様な模様があった。禍々しさを感じる。彼女はこの模様に覚えがあるという。


 彼女は床下の収納からやけに古い本を引っ張り出してきた。何百もありそうなページから目次を頼りに、心当たりのページを探していく。次々とめくっていた手が止まる。呪いの項目の中のかなり後ろのほうだった。そこには屋根にあった模様とそっくりそのままの絵があった。彼女は声にだして読んだ。


『この世全ての怨念が蓄積され、龍の形をとって現れる。その名は怨龍。世界全てを呪い、滅ぼす存在。その存在に抗う術なし。我らにできることはただ一つ、彼の怨嗟の声が止むまで死を甘受することだ』


 とんでもなく恐ろしいものだった。彼女の顔は読み終わるころには蒼白になっていた。その場で座り込んで動かなくなってしまった。ここは彼女の大切な場所だ。長年守ってきた場所だ。強大な呪いにかかってしまっては、この森は死んでしまう。森を愛するエルフである彼女の心境は、人間の彼では簡単に理解できない。彼は彼女に話しかけたが反応がない。このままにしておくのはよくない。彼は、彼女を抱え上げて椅子に座らせた。


 彼は本を片手に屋根に上った。なにかできることはないだろうか。ほかのページになにか手がかりになるものはないか、屋根の模様と本を交互ににらみつける。ほかにこの特徴的な模様は見当たらない。そもそもこれ以上に強力な呪いが存在しないのだ。あらゆる怨念の集合体である怨龍は、世界を滅ぼしうる強い呪いを秘めている。今、世界が滅んでいないのはたまたまだ。


 見つからない。その焦りから、彼はページをめくる勢いが余って、指の皮膚を切ってしまった。かなり深く切ってしまったようで、血が指から垂れる。


 彼の血が偶然、模様へと垂れた。模様は途端にその禍々しい雰囲気を消し、ゆっくりと溶けていくように消えた。


 魔法などに無知である彼でも、理解できた。さっきまであった呪いは完全になくなったと。


 怨龍はこの世界の全ての人間の怨恨から生まれた存在であるから、世界全てに牙を向く。しかし、彼はこの世界の住人ではない。怨龍の毒牙は彼へと向かないのだ。怨龍が恨みを抱く対象に入らない存在が、唯一の対抗手段だったのだ。そして彼は知る由もないが、血による解呪の力は怨龍本体へも伝っていた。


 何百、あるいは何千年もの長い時間をかけてこの世に生まれた怨龍は、偶然居合わせた異世界人によって世界に呪いを振りまくことなく消滅した。


 なんという幸運。怨龍にとっては不幸極まりない。怨龍がこの世に現れてからこんなことは一度としてなく、世界の始まりから終わりまでの間でも二度はありえないことだった。


 彼は呪いがきれいさっぱりなくなったことが不思議で仕方なかったが、そんなことよりも呪いの心配がなくなった今は彼女のほうが気がかりだ。早く様子を見に行きたい。


 彼と彼女のその後は、多くの人と変わらず珍しいことではなかった。気が許せる男女が一緒に生活していれば自然とそうなるものだ。そもそも、彼のほうは彼女の美しさと気高さに惹かれていたのだから。

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