第52話 エピローグ 隣人
「ん……」
私は窓から入ってくる光でゆっくりと目を覚ます。反射的にベッドボードの時計に目をやると、午前9時を指していた。私にしては随分と朝寝坊しているが、全く気にならなかった。昨日のことに思いを馳せつつ、隣で眠っている彼女に目をやる。
「……くぅ」
人栄さんは実に幸せそうに眠っており、いつか見た不安そうな様子はどこにもない。もし、私がそれを払う一助になったのであればこれほど幸せなことはない。
昨日、私達はタクシーで自宅に帰り、着替えてから――一緒のベッドで抱き合って眠ったのだった。もちろん、ここでいう「抱き合う」というのは比喩表現ではなく、そのまま物理的に、つまりハグした状態だったということだ。いわゆる、そういうことはしていない。いつかは、まあ、する日が来るのかもしれないが、まだ早いと思う。しばらくはプラトニックな関係を続けるだろう。
彼女の表情を見ていると、愛おしい気持ちが沸いてきてその綺麗な髪の毛をそっと撫でる。つややかで傷みのないその黒髪は実に気持ちのよい撫で心地だ。
「んぁ……」
私の手の感触のせいか、彼女はゆっくりとまぶたを持ち上げる。
「ごめん、起こしたかな」
「ううん……だいじょうぶ……おはよう、誠司さん」
その挨拶とともに彼女は身体を持ち上げて、私の胸の中に飛び込んでくる。
「えへへ、ゆめじゃなかったぁ」
「そうですよ。ちゃんと現実です」
私がこの口調で話すと、彼女は抗議するように私の頬をつつく。だから、改めて言い直す。
「……ちゃんと現実だから、安心してくれ」
「そうそう、そっちにしましょー」
そう、彼女の強いお願いにより私――俺は彼女の前では普通の口調で話すことになった。もっとも、何年も染み付いたものなので、きちんと意識しないと反射的に『私』になってしまう。まあ、これからゆっくり修正していけばいい。
「朝ごはんにしようか。冷蔵庫にほとんど何もないからトーストとジャムになるけど、いいかな?」
「うん!わたしも手伝うよ」
私達は連れ立ってキッチンに立つ。私はパジャマのまま、彼女は私が貸した長袖のシャツとジャージだ。かなりだぶだぶのようだが、それはそれで可愛らしい。
私がお湯を沸かしてカフェオレを作る間に、彼女はトーストとジャム、マグカップを用意してくれる。
準備が完了すれば、二人で連れ立ってソファーに座る。反射的にテレビを付けるが、特に面白い番組がやっているわけでもないのでBGM代わりだ。
ほどなく食べ終わり、特に会話もなく二人でぼうっとテレビを眺める。昨日の雪は朝まで降り続いたようで、電車が止まったなど結構な影響があったようだ。そんな中、人栄さんはぽそりと呟く。
「これからどうしようか?」
「人栄さん、何か気になることでもあるの?」
あ、っと思った瞬間彼女からの抗議が私の肩に飛んでくる。もちろん痛いわけもなく、軽くじゃれているだけだ。
「シノさん、何か気になることでもあった?」
「うーん、呼び捨てでもいいんだけどなあ……まあいっか。いや、またこの後、自分の部屋に帰るのかあと思って」
彼女は何かを期待するかのように私の顔を見る。そのお願いが籠もった表情に私はもはや抗うことはできないし、そもそも抗うつもりもあまりない。
「……俺の部屋に住む?」
「いいの?」
「シノさんもそれを期待していたくせに」
「ごめんごめん!じゃあ、お言葉に甘えるね!」
そう言って彼女は私の真横に移動し、こてんとその頭を肩に載せてくる。そこには心地よい重みがあり、自然と心が温かくなる。
「それじゃあ……色々準備しないとね」
「そうだね……でも、しばらくはこのままでいさせて」
俺は返事の代わりに彼女の頭を軽くなでて答える。気持ちよさそうに目を瞑る彼女の姿は猫のようだ。
ただただ、ひたすらに穏やかな時間。こんなにも何も考えず、温かい空気だけに包まれている時間は随分と久しぶりのような気がした。
気がつくと、彼女は俺の肩を枕にうとうととし始めていた。その様子を見ていると俺もまぶたが重くなってくるのを感じる。
「……まあ、今日くらいはいいよね」
俺もその衝動に抗うのを止めて、ゆっくりと目を瞑った。
彼女――愛しい愛しい『
シノさんの手に俺の手を重ね、意識をゆっくりと手放すのだった。
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