たった一つの冴えたありかた / 蟻酸

追手門学院大学文芸同好会

第1話

 午前四時。日が昇る時間が近づいてきた。私は上着を羽織って、手袋をつけて玄関を出た。家族はみんな起きていないだろう。起きているのは朝早くに起きなければならない人か、私みたいに夜に眠れなくなった人くらいだ。

 いつからか、夜に眠れなくなった。眠ろうと布団に入って目を瞑るたびに嫌なことばかり思い出してSNSばかり見ながら無為な時間を過ごす。そうして徐々に眠る時間は遅くなっていった。今では夕日とともに目を覚ます生活だ。その夕日ですら、何もしない私を責め立ててくるようで見たくなくなってしまう。

 冬の寒さで吐く息が白くなる。こんな風にわざわざ家を出たのは、何か目的があるわけではない。ただの徘徊だ。誰にも知られずにする外出はいつものことではあるが、やはり落ち着かない。それでも家に居続けるよりはマシだ。

 自室の中の刺激がない空間では、私は朝日の恐怖に耐えられない。夕日の叱責とはまた別の理由で嫌になる。朝が来るということは、普通ならば一日が始まるということだ。しかし、私は一日を始められない。その差異に、置いて行かれてしまうような気がする。

 こんな生活をしているからか社会的なことは何もできなくて、またそれが余計に惨めになる。外に出ることなど、日の出の恐怖に居ても立っても居られなくなるこの時間くらいのものである。

 朝、新聞が突っ込まれるポストは皆からっぽだ。昼間、子供たちが遊んでいる公園は遊具だけが取り残されている。夕方、買い物客で賑わうスーパーマーケットはまだ誰も働いていない。

 こういう景色は、この徘徊の特権だ。しかしそれを誇ることはできない。不健康と堕落の成果を好意的に受け止められるはずがない。例え、誰がこの光景を賛美したとしても変わらない。むしろ、こんな見方をしてしまう私の性格の悪さが際立つばかりだ。共感されても困るだけなのだが。

 私というのは実に身勝手な人間である。否定されたくはないが共感を素直に受け止められない。生まれたときからこうだったわけではないはずだ。昔は、もっと幼かった頃は相応に素直だったはずだ。今ではもう、その感情を忘れてしまった。

 そんなことを思っていたら合点が行った。どうして大人が子供の気持ちを分からないのか。子供が大人の気持ちを分かれないのは経験したことがないからだと理由づけられる。では、かつて子供だった大人が子供の気持ちが分かれないのはどうしてだろうと、思っていた。単純なことだ。とっくに忘れていただけなのだ。私が素直だった頃の気持ちを忘れたように。

 今でも昔の事実を思い出すことはできる。だけど、昔の気持ちや考え、世界の見え方を詳細に思い出すことはできない。テセウスの船ってわけではないが、十年や二十年も生きていれば少しずつ変わっていって別人のようになる。過去の自分には戻れない。

 ふと、何かを感じて後ろを振り向いた。少し遠くの方に何か見えた気がしたが気のせいだったようで、何も見えなかった。

 前に向き直れば、深い藍の空に薄っすらと白が混ざっているのに気付いた。夜明けの時間が近いのを悟る。思わず溜息をこぼした私はその場に座り込んだ。立ち止まったところで太陽は止まらないことを分かっていながら。

 いつになったら、私は過ごした一日に満足して、穏やかな心持ちのまま眠れるのだろうか。なんて思ってはみても、一歩も動けないヒトが満足できるはずもない。そうした感情は努力と研鑽の果てに得られるのだから。

 日の光が私の目を刺した。朝日だ。日の出の瞬間の空は腹立たしいくらいに綺麗だ。一日以上に大きな一年、それの始まりを表すかのような初日の出をありがたがる人間の気持ちを、少し想像できる気がした。私にとって始まりは疎ましい、できることならゼロにしたいくらいのものだが、普通の人間にとっては喜ばしいものなのだ。その象徴たる初日の出の景色が美しければ、ありがたく思うのも自明だ。

 残念ながらと言うべきか、やっぱりと言うべきか。私はそれが嫌でたまらない。美しいものが目に入れば、それを見ている私が汚いことに気付いてしまう。かといって、美しくないものを見ても不快感を覚えてしまうのが私である。

 あまり良くないことばかり考えてしまった。じっと動かないでいたせいか手足が冷えてきた。そろそろ帰路につこう、と立ち上がる。少し足が重い。

 もともとの目標である夜明けまでの時間を潰すということは達成している。

 朝日が出てきて、ちらほらと通行人が増えてきた。

 彼らから逃げるように人通りに少ない道を選んで歩く。私のような人間が普通に人間と関わればそれだけで迷惑になり、また普通の振りをしてみたとしても迷惑になるだけだと知っている。せいぜいが、すれ違う同じ年くらいの女子学生に、どうか私のようになってくれるなと祈ることしかできない。

 自室に到着した私はベッドになだれ込む。

「これがたった一つの冴えたありかた、ってことかな」

 きっと明日も変わらないだろうけど、十年経てば何か変わっているだろうか。

 耐えがたい眠気を感じながら誰にも聞こえないように呟いた。



あとがき

 この小説は一昨年の十二月ごろに書いていたネタを元にして書いています。没にしようとか思っていたのですが、結構今の生活リズムと合致していたので書き上げました。ちなみに、私の場合は深夜に家の外に出かけるとなんとも言えない罪悪感がこみ上げてくるので深夜徘徊できませんでした。

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