ヴァルハラ・ガーデン・ブレイブス ~高座の少女と神々の将棋盤~

星城 雪明

第1部 復讐するもの(前編)

プロローグ 

0 歌が聞こえる少女

 少女は眠っていた。



――神は昔をなつかしみ、その黄金おうごんに名を与えん…。



 眠るといつも、歌が聞こえた。



――帰りし二人に語りし時を、まだかまだかと待ちわびて…。



 果てしないほど遠い過去に聞いたような。つい最近、耳にしたような。



――変わりし駒はかつての友。過日かじつの父に、かたき…。



 夢の中の少女にはわからなかった。けれどそれが、どんな歌なのかは知っていた。



――くして盤は、埋まれども…。



 その歌は、とても――――






「――――リズ、リズ」


 パチリ、と目を開ける。


「起きた? おはよう、リズ」


 少女は眠い目をこすりながら、その不思議な翡翠ひすいの瞳にベッドの端で腰かける人物を映し出した。あ、だ。ムクッとか細い上半身を起こす。毛布の下から現れた体には、病人が着るような薄緑のバスローブが身に着けられていた。


「起こしちゃってごめんなさいね。でも、これからお出かけ――」

「なぁ、早くしてくれないかい?」


 少女の長い黄金こがね色の髪を優しげにすくの手を止めたのは、真っ白な部屋にチョンと暗い口を開けたような場所に立つ人物。だ。

 その存在を見出すやいなや、少女は慌てて毛布を跳ね飛ばし、の胸の中へボフッと飛びこんだ。柔らかな胸に顔をうずめ、包みこむ腕にホッとひと安心。


「黙って。リズが怯える」

「……わかっているよ。けど、慣れてもらわないと」


 腰にまでかかる髪をすきながら、優しくなでてくれる細い手。

 は安全。は優しい。


「あなた、どの口でそんなことを…!」


 はダメ。も。は、に似ているから注意。


「だ、だから、わかってるって言ったじゃないか…! だけどこれから、僕たちはいっしょに――」


 そして、は怖い。



――ビーッ! ビーッ!



「っ!? け、警報!? バカな、こんなに早く…!」

「もうばれたなんて……まさか、あなた…」

「違うっ! 僕は裏切ってなんかいない!」


 真っ白な部屋のチョンとした黒い口から、点滅する赤い光が差しこむ。ケンカする二人のことなど目に入らず、少女はそれを見てペロッと舌を出しながら小首を傾げた。他者には理解できないが、少女にはどうやらそう見えたらしい。その赤色は怖くないようだった。

 もっと間近で見たいと思ってモゾモゾしていると、少女はに横抱きで持ち上げられた。


「とにかく、急いで脱出します。リズ、ちょっとうるさいかもしれないけど我慢してね?」


 いつもキリッとしているは、自分を見るときだけ優しげにほほ笑んでくれる。それが少女にはとてもうれしくて、素直にコクリとうなずきながら柔らかい胸に身を預けた。さらにその首へ、ギュッ。


「……いい子ね、リズ」


 ほめられるとうれしい。少女はあまりのうれしさに、細い首筋へ鼻を擦りつけた。クスリと小さく笑い、が早足で歩き出す。

 お出かけ。どこへ行くのだろう。もしかしたら、が言っていた場所へ連れていってくれるのかも。小さくか細いその身が揺らされるのと同じぐらい、少女の心はウキウキと弾んでいた。

 そこにはがあるらしい。いろんなもあって、も怖くなくて、がいっぱい。そんなつたない想像だけで、少女の小さな胸には期待が満ちあふれた。

 優しいの胸に抱かれ、頭の中で描く色とりどり。それが一瞬で塗り潰されたのは、の横を通り過ぎようとした瞬間。

 ここにはいない、へ向けたつぶやき。


「……まさか、最初から僕を疑っていたのか――」


 それは、ギラギラした


「――アナスタシア…」


 とても怖くて、とても痛くて――――とても、

 少女は恐怖にその身を震わせた。


「? リズ、どうしたの? 大丈夫、大丈夫よ」

「おい、また僕のせいかい? これじゃ先が思いやられるな…」

「身から出たさび、という言葉はご存じで?」

「いちいちおっかない目でにらまないでくれ。これじゃ協力なんてできっこない。も、寝かせたまま運んだほうが良かったんじゃ――――ヒッ…!?」


 が怒った。はとても怯えたが、少女はちっとも怖くなかった。

 少女はいまだ、その身に刻まれた記憶に怯えていた。


「……いざというときに逃げやすいと思ったのですが、あなたが同行する以上、そうだったかもしれませんね。ここまで怯えるとは思いませんでした」

「い、言っておくけど、僕だって命懸けなんだぞ! 捕まったらいくら僕でも、きっと……」

「今さらそんな泣き言を。あなたが選んだのでしょう?」


 フン、と鼻で笑ってから、豹変ひょうへんして少女へ穏やかに語りかけた。


「リズ、私のリズ。大丈夫だから安心して」


 抱き寄せられるか細い体。触れるか触れないかの、くすぐったい頬ずり。


「私がずっとそばにいるわ。私が、あなたを絶対に守る。だから怖いことは全部忘れて、もう一度ゆっくりおやすみ」


 恐怖を覆い隠し、意識を真綿まわたでくるむような優しい声。少女はまるで催眠術にでもかかったかのように力が抜けた。安心しきった体が休息を求め、の首にしがみついていた腕を放す。

 そして赤子のように胸の中で揺らされた少女は、の服をギュッと握りしめながらその翡翠ひすいの瞳を閉じた。


「いい子ね。大丈夫よ、リズ。次に目を覚ましたら、そこは――」


 ビービーうるさい警報が遠のき、の優しい声音が耳朶みみたぶを打つ。


「――きっとあなたが、安心して笑える場所だから」


 やがて、それも遠のく。

 次第に、をギュッと掴んでいた手からも力が抜けていき――――






――――少女はまた、眠りについた。



――神は昔をなつかしみ、その黄金おうごんに名を与えん…。



 するとやはり、歌が聞こえた。



――帰りし二人に語りし時を、まだかまだかと待ちわびて…。



 続きからではなく最初から。壊れたような繰り返し。



――変わりし駒はかつての友。過日かじつの父に、かたき…。



 少女はあまり興味がなかった。けれど、その歌に込められた想いだけは知っていた。



――くして盤は、埋まれども…。



 その歌は、とても――



――彼方かなたの君には、もう会えない…。



――とても悲しい、歌だった。

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