第2話 YOKOHAMA BLUE MIDNIGHT                      

            プロローグ

                                           港町横浜は、ジャズが良く似合う。  

今夜も変わらず、街の何処かで演奏されているはずだ。

野島と亜里沙が、赤レンガ倉庫の二階にある『M・B YOKOHAMA』に来るのは、

久しぶりであった。知人の女性ピアニストの演奏を聴くためである。

『赤レンガ倉庫』は、明治から大正にかけて建てられた貿易倉庫であったが、今は歴史的建造物として残され、中に店舗が入るなどして改装された人気のスポットである。

『MBY』の入り口横の壁には、出演者のスケジュール表が張り出されていた。

「あら、昨日が朝倉健二の出演だったのね。残念! 」亜里沙が目ざとく見つけた。

「その朝倉って、誰なんだ?」

「いま、人気のあるジャズギタリストなんだけど、耕介知らないんだ」亜里沙は、 少しがっかりした様子をみせた。


 二人はステージから四列目の席に案内されると、演奏が始まるまでの間料理を楽しむことにした。数品の料理と二人分のドリンクを亜里沙がオーダーする。

野島は、スコッチのハイボール、亜里沙は、ギネスドラフトである。

七時ちょうどに、ライブが始まった。出演は、大橋美香ピアノトリオである。

美香は、野島の妻の妹であり、いまだに野島を「お兄さん」と呼び、依然と変わらず慕ってくれている。野島の妻より二歳年下だとして、現在四十二歳であろうか。

職業柄か、かなり若く見える。


 トリオの演奏が始まった。曲は、モンクの『ROUND MIDNIGHT』である。

相変わらず、しなやかな響きである。尖ったところがない。性格が音に出るとすれば、まさにその通りである。約一時間ほど演奏を楽しんだ二人は、休憩の合間を

ぬって楽屋に顔を出した。演奏を終えたばかりの美香が、上気した顔で二人を迎えてくれた。

「美香、相変わらず素晴らしい演奏だよ」野島の声に、美香が振り返り抱き着いてきた。それを見て、所在なさげにしている亜里沙を見つけると、言った。

「このお嬢さんが、優秀な相棒さんなのね」

「わたし、お嬢さんでないですから~」まともに否定するところも、亜里沙の可愛さかも知れない。

 しばらく歓談した後、楽屋を出ようとした野島に、美香が思い出したように声を掛けた。

「お兄さん、ヨットの形をしたホテルがあるでしょ。あそこの総支配人が相談に乗って欲しいのですって。彼、私の大事なスポンサーなのよ。お願い!」

「相談事?クライアントという事だね。ちょうど今暇しているところだから、いつでも伺えると伝えてくれないかな」

前話の事件以来、二三の浮気調査以外、大きな依頼を受けていなかったのである。


 美香のライブが終り黒のアルファロメオを駐車場から引き出すと、右前方に風をはらんだヨットの帆のように見える大きな建物が夜景の中に浮かび上がった。

『横浜グランド・ベイ・コンチネンタルホテル』であり、通称『Y・G・B・Cホテル』と呼ばれているものだ。

野島と亜里沙の二人は、車の少なくなった山下公園通りを抜けると、赤いテールランプの光を残しながら事務所兼自宅のある古いビルを目指した。


             1 総支配人の依頼


 翌日の朝10時過ぎに、野島は五階から三階にある『横浜みなと探偵事務所』に入った。鍵はすでに開いていた。野島が古い木製のドアに手こずっていると、中から亜里沙の声が聞こえて来た。

「おはようございます。横浜みなと探偵事務所でございます」調子は、良さそうだ。

「所長、YGBCホテルの本城様からお電話です」と、普段と違う気取った声だ。

「代わりました。所長の野島です」

「突然の電話、お許し下さい。本城と申します。大橋さんからお聞きと思いますが、

実は、ホテルに関してご相談がございまして、ご足労だと思いますが一度ホテルまで来ていただけませんか?」声は低いが、はっきりとした威厳のある声である。

「承知いたしました。では、後ほどお伺いいたします」野島は電話を切ると、ホテルに関する資料作りを亜里沙に指示した。これは、相手が組織であった場合、予め相手に関する知識を入れておくことは、迅速な調査に繋がる必然な行為であった。


 簡単な資料作りが終ると、二人は早めの昼食を取ることにした。

「亜理紗、昼飯何にする?『蛇の目』から、寿司でも取ろうよ」野島が言う。

「すぐ気が緩むんだから~、所長の奢りならいいですけど!」

「まったく、しっかりしてるよ」いつもと、変わらない愛情のある会話であった。


 約束の三十分前には事務所を出て、ホテルに向かうことにした。

若いフロントマンに本城総支配人とのアポイントであることを告げると、五階の支配人室まで若いコンシェルジュの案内を受けた。

五階が当ホテルの中枢部であるらしい。宿泊客には、あまり知られていない事実であった。

重厚な木製の扉には、『支配人室』と銘板が掛かっている。

「うちと、えらい違いだわ…」亜里沙の声を野島がさえぎる「うるさい!」

野島がノックをすると、「どうぞ!」の声と同時に扉が内側から開かれ、そこにはスーツを着こなした若い秘書が笑みを浮かべながら立っていた。

「えらい違いだな・・・」の言葉に反応した亜里沙が、野島の背中を抓った。 「いて~・・・」


 このホテルは、1991年本社が英国にある『コンチネンタル・ホテルズG』の日本初進出のホテルとして開業され、部屋数594室、地上31階建ての横浜を代表する高級

ホテルである。

出迎えてくれたのは、当ホテルの総支配人本城真であった。五十代後半の白髪の紳士である。いかにもたたき上げらしく精悍さのある顔立ちだが、柔和さも感じさせてくれる。

 挨拶も終わると、革製の柔らかいソファーで依頼を聞くこととなった。

「野島さん、ご相談というのは端的に言いますと、明日臨時取締役会が予定されているのですが、取締役会での決議が外部に漏れているようなのです。当社は、非上場なのですが、個人株主情報が何者かに狙われていて、結果として私たちは経営権を失いかねない事態なのです」

機密漏洩者を捜し出し、経営権の乗っ取りを未然に防いで欲しいとの依頼である。


「大橋美香さんから、貴方方のご活躍はよく聞いているのです。浮気調査などよりは、こういった社会悪的な事案の解決が得意だという事もね」と本城は言った。

そして、続けた。「引き受けてもらえますか?」

「もちろん、お受けします。ご安心ください」

野島自身、経済に特別詳しいわけではないが、捜査官として身分秘匿捜査の経験もあることから、それほど難しい事案ではないと判断したのである。

身分秘匿捜査とは、捜査の過程において、あえて身分を秘匿したりまた偽装することによって相手の信頼を得、情報や証拠を掴む捜査手法である。   


 野島は事務所に戻ると、本城から渡された資料の中にあったホテルの株式に関する最近の事項を調べて見ることにした。(株)横浜グランド・ベイ・コンチネンタルホテルが運営会社であることに間違いはなかった。

株式発行総数は61万株で、運営会社と個人で31万株、林トラストが20万株、そしてハマシンホテルズ・グループが10万株の配分である。

ここで、早くも野島は、違和感を持ったのである。ごく最近、林トラストからハマシンGが、10万株ほど譲り受けているのである。『YGBC』の経営権を握ろうと画策すれば、ハマシンGがあと10万株を林トラストから手に入れ個人株主から一万株を取得するだけで実現をしてしまう。本城はこれだけは阻止したいと主張したのだ。


 野島は、まずハマシンホテルズ・グループを調べて見ることにした。 

この会社は、代表者がマイケル・ソロスと名乗る人物である。アジア通貨危機を引き起こした人物の一人と噂される機関投資家であるらしい。2001年に外資系ホテルの運営会社として虎ノ門に設立されている。

野島が注目したのは、ハマシンという響きである。日本語に聞こえるのである。

は・ま・し・ん・・・・、漢字で書くとしたなら、浜新・・・?

捜査官時代の記憶をたどれば、仕手集団『濱新』が思い当たるのだ。浜のフィクサーと呼ばれた小谷光秀を逮捕直前まで追い詰めたが、取り逃がした苦い記憶が蘇る。        突然野島は、吐き気を覚えた。過酷な捜査が続き、久しぶりに家に帰った野島に待っていたのは、妻潤子の失踪であったのだ。子供はいなかったが、夫婦関係は良かったと言えた。

野島に何も告げず手紙も残さず、潤子が家を出る理由が見つからなかった。しかし、加賀町警察上層部によって事件性がないと判断がされ、捜査されることはなかった。

刑事を辞めて三年が経っているが、野島は潤子が生きていることを信じて探偵事務所の仕事の傍ら探し続けているのだった。   

                                     「あのコタニ・・・なのか? 」

この想像が事実であれば、この小さな事務所の手に負えるものでは無いのは明らかである。野島は、大きな組織が立ち向かってくる予感に震えていた。     


              2 フィクサー 小谷光秀


 野島と亜里沙の二人による身分秘匿捜査が始まったのである。正確には、捜査権がないのだから調査と呼ぶべきであろうが。

本城からは、二十七階の一部屋を調査拠点として使うことを許された。『クラブ・グランド・ベイ・コンチネンタルルーム』である。ここは、クラブ会員専用の部屋で、

一般客は立ち入ることが出来ないのだ。フロアーには、専用のフロントまである。

電話は、盗聴を防ぐため支配人室直結とした。野島は、支配人室直属の警備課長補佐として、また亜里沙は支配人直属の新人秘書として着任したのであった。


 亜里沙が支配人室に入ると、三十代半ばに見える第一秘書の西田清美が笑顔で迎えてくれた。ハマシンホテルズGが大株主になる一年ほど前に、前任者と交代する形で採用されていた。支配人から、概要は聞かされているらしい。

「亜理紗さんですね。本城から伺っております。随分きれいな調査員さんなのね。どうぞ、よろしくお願いします」清美は、第一秘書らしい所作であった。

「そんな、綺麗だなんて!言われたことないんですけど~」亜里沙らしく返した。

清美は、明日の臨時取締役員会の準備で忙しそうであった。

「良ければ、私もお手づだいしますけど……」「助かるわ~」

亜里沙が申し出ると、清美は快く受けてくれたのである。

役員会となると、重要人物が一同に会すことになり調査の進展に寄与することになるかもしれないのであった。



 野島も調査を開始した。このホテルの部屋数は、594室ほどであるが、大株主の

林トラストとハナシンホテルズGが何室か定宿として使っていても不思議ではない。

野島は、五階にある宿泊部に行き、客室課長に会うことにした。

「新任の警備課の野島です。主要株主の定宿としての利用状況の資料提出をお願いできますか?」

「警備課の野島さんですか? 今まで警備課からそのような依頼を受けたことはないのですが・・・個人情報でもありますので・・・」客室課長は半信半疑である。

「これは、本城総支配人の意向でして・・・では、支配人室の渡邉亜里沙秘書に

確認を取ってもらえば分かりますよ」野島は、出まかせを言った。

客室課長は確認のため支配人室に電話を入れた。

「はい、分かりました。ではそのように致します」うまく亜里沙が話を合わせれくれたようである。

野島は、客室課長の提出してくれた資料を客室に持ち帰ると、早速目を通した。

林トラストが、二十五階に一部屋、ハマシンホテルズGが十四階にスーペリアルームを三部屋定宿として使用しているのが分かった。ただ、最近の宿泊回数はハマシンが特に多いようである。これは、株主としての力関係が林トラストからハマシンに移った証拠ではないかと、野島は考えた。林トラストは、六本木を中心に手広く貸しビル業を展開している大手ではあるが、何かの事情が絡んでいるのかも知れない・・・


 野島は元部下であった加賀町署一課巡査部長の古畑に連絡を入れた。情報量は、現職刑事の古畑にかなう訳がないのである。ここは素直に頭を下げるしかない。

「古畑か?」「部長ですか?前回の事案は、お世話になりました」

「部長は止してくれよ。ちょっと、頼みごとがあってな」

「分かりました。手すきを見て、すぐにメールで資料をお送りしますので・・・」

「済まない」 多くを語らずとも理解し合えるのが男の友情である。


 マイケル・ソロス率いるハマシンホテルズGと小谷光秀率いる濱新との関連性についての資料の着信が、三十分も待たずに野島のPC にあった。

ハマシンホテルズGは現在、日本中の約二十数か所にホテルを所有しており、ホテルの取得、運営が主要な事業内容であり、また濱新は、横浜に特化して企業のM&Aを手掛ける会社である。野島が特に注目したのは、小谷がハマシンホテルズGの取締役に名を連ねている点であった。結論を言えば、両社は同じグループ会社であり、

M&Aを仕掛けて金を吸い上げる手口は全く同じであった。小谷光秀としては、ハマシンホテルズGを隠れ蓑として表面に出ることを避けているのだと、推測出来る。

野島は、闇の川底で蠢く魍魎の正体を見破ったのだった。


 ホテルを買収し、さらなる価値を生み出すホテルの再生が目的であれば、問題はない。そこで働く従業員のモチベーションも上がり、新たな喜びを生み出すことも出来る。それが、結果的に利用者に高い満足を与えることになるからだ。しかし、単に投資をあおり、売却益を得るのが目的であれば、それは断じて許すことは出来ないのである。野島の戦うべき敵が明らかになったのである。


 野島は、亜里沙に連絡を入れた。

「亜理紗、そっちはどうだ。一段落したら飯を食べながら打ち合わせをしよう」

高級ホテルでの仕事である。普段の古臭い事務所での仕事から離れて、雰囲気だけでも味わせて上げたいという野島の優しさであった。

二人は、二階の『ラヴェラ』で落ち合う約束をした。イタリア語で船の『帆』を意味するらしい。ヨットの形をしたホテルであるからして、洒落たネーミングである。

港の夕景が広がっている。ここは、以前野島が妻の潤子と二人でクリスマスを祝った思い出の場所でもあった。亜里沙の顔に、潤子の顔が寂しく重なる。

「何考えてるんですか?もしかしたら、奥さんのこと?」

「いや、仕事のことに決まってるだろう・・・」野島は、寂しく否定をした。

イタリア料理は、変わらず美味しかった。野島の心に灯りが戻った。

「亜理紗、たまにはこういうところで二人で食べるのも良いな!」

「やっぱり寂しいんだ。いつでもお相手しますので、誘ってください!」

「亜里沙はいい相棒だよ」と、野島は心の中で呟いていた。


食事が終ると、二人は調査の内容を確認し合った。

「亜理紗には,明日開かれる取締役会で重要な働きをしてもらいたい。それは、出席する役員の中に小谷光秀の濱新から送り込まれたスパイがいる可能性があるという事なんだ。そこで、その漏洩者を見つけ出すのが亜里沙の重要な仕事になる」

「分かったわ。信頼して!」

 二人は、その後総支配人の好意で用意されたそれぞれの部屋で明日に備えるため、早めにベッドに入った。

翌日、予定通り十時から五階の会議室で、臨時取締役会が開かれた。出席者は十名であり、そのうち九名が議決権を持っていた。

   

                 3 臨時取締役会


 亜里沙は、資料配りやお茶出しなどの雑用係として、入室を本城から許されていた。議長は、本城真が社長の代わりを務めた。

会長、社長の簡単な挨拶の後、議案が発表された。『現経営会社による経営権の保持と、その対策』であった。

本城は議案内容を説明した。「今年に入り、ハマシンホテルズGさん側から二人の役員が送り込まれています。仮に今後林トラストさんから、二十万株がハマシンさんに譲渡され、一般株主から一万株でもハマシンさん側に渡れば、経営権をハマシンさんが握ることになるのです。そこで、少しでもリスクを減らすために、個人株主情報を、代表そして私以外には、例え役員であってもこれを開示しないことを決議したいのです」

これは、ハマシン側の陰謀の痕跡を掴んだ野島の強いアドバイスによるものであった。しかし、経営陣の当然の権利として四名の派遣取締役が反対をし、開示を求めた。反対者は、林トラストから送り込まれた二名とハマシン側の二名であった。

「議長!貴方のやり方は、ホテルの業績のためには決してプラスにはならないのではないですか?」ハマシンから派遣された浅井取締役が反対をした。

「私が危惧しているのは、まさにその点なのですよ。このホテルが単に利益を上げるだけのM&Aの舞台にされてはかなわないのです」議長が議案の目的を開示した。

彼らは、単に経営権を握るために送り込まれた連中であり、そこにはこのホテルに

対する愛情の欠片もないのは明らかである。亜里沙は、反対者四名の名前を記憶し

その動向に注意を向けた。

反対者数四名、賛成者数五名でこの議案は、可決されたのである。


 臨時取締役会が閉会されると、慌てた様子で廊下に出てくる人物がいた。手には

ケイタイが握られている。亜里沙は、男を追った。ハマシンから派遣されている浅井隆であった。

「浅井取締役、お疲れ様でした!」後ろからの亜里沙の大きな声に驚いた浅井が振り向いた。ケイタイの画面に『濱新』の文字が浮き上がっていた。

それが確認できると、亜里沙は何気ない様子で浅井の横を通り過ぎ、支配人室に逃げ込んだ。

部屋には留守番役の清美がおり、何者かと話中であった。

まもなく、野島と本城が支配人室で合流した。


「野島さん、亜里沙さん、ありがとう。おかげさまで、議案が可決出来、また想像通り浅井取締役にこのホテルの発展に寄与する気持ちがなく、単なるスパイであることが良く分かった」

経営権の乗っ取り計画が進行中であり、事前に阻止できたことへの感謝の言葉であった。しかし、彼らの計画を完全に排除することの難しさも野島には、分かっていた。今の段階では、犯罪者ですらないのである。

法律に照らし合わせてみても、今回の決議方法が認められるものなのか、野島にはわからない。野島の最後のアドバイスである。

「支配人、個人株主情報の完璧な管理だけが、今の段階で買収を阻止出来る唯一の方法ではないでしょうか、絶対に濱新側に渡してはいけません」

「分かりました。早速、対策を練ることにしましょう」


               4 野島の危機

 

 「お二人をご招待しますので、今夜は当ホテルのお客様として楽しんで下さい」 総支配人の嬉しい言葉であった。二人は、ありがたく好意に甘えることにした。

夕食は、最上階の『華留』に招待された。中国料理である。

モダン・チャイニーズとしても名店の一つであるらしい。

二人は、食事が終ると同じ階にあるラウンジに入った。隠れ家的なサロンである。

窓から見える夜景の中に、観覧車が回っているのが見えた。

亜里沙が、先を歩く野島の左腕を掴んだ。「こんな夜があっても、いいだろう」と、野島は思ったのである。

夢中で走り抜けて来た三年間であった。自分はまだしも、このまま亜里沙に決して安全とは言えない仕事に携わらせていて、良いのだろうかという葛藤が常に心の中にあるのだ。そして、隠された目的も打ち明けられないままであった・・・


                *


 野島は、夜中に人の気配に目が覚めた。

男の酸っぱい汗の匂いに思わず咽た。数人が闇に紛れているようである。

野島は、突然腹に衝撃を受けると、そのまま気を失った。どのくらいの時間が過ぎたのだろうか、腹の痛みと吐き気で目が覚めた。見回すと、自分の部屋ではない様子である。

「野島さん、またとんでもない邪魔をしてくれたものですね」小谷は体格はいいが、小男のはずである。顔が見えない分、その声には特徴があった。喉から絞り出すようなしゃがれ声である。

この男こそ、ハマのフィクサーとして企業に恐れられている人物であった。

買収先の従業員の働ける喜びには何の関心も持たない、ましてやその家族たちの顔も

浮かばない。人は何のために汗水を流して働くのか、そして、その対価が何なのかが

分からない人間なのだ。

 

 三年前、野島がまだ刑事として犯罪組織を追っていた夜のことであった。

横浜に現在と同じように、当時からカジノ誘致の計画が持ち上がっていたのだが、候補地の一つに今は使われていない港の倉庫群の跡地が上がっていたのである。決定もしていないうちから、地上げが暴力的に行われたため、野島が捜査に入ったのであったが、本星を捕まえる直前に上層部から捜査の中止命令が出されたのであった。

野島は、ハマのフィクサーと呼ばれている小谷光秀が横浜の反社会的勢力黒田組と手を組み、その資金力を使って暴力的に地上げを行っている証拠を掴みかけていたところだったのである。野島は到底納得がいかず、数人の部下と捜査の継続をしていたところ、野島のもとに『警告書』が送られて来たのだった。

【家族の命を大事にしろ!】と書かれてあった。

翌日、妻の身を案じ久しぶりに自宅に戻ると妻潤子の姿はなかった。警察上層部は、一応『捜索願い届』は受理するが事件性はないという判断を下したのである。


 深く息を吸うたび、胃液が口の中に苦く広がっていく・・・

「小谷さん、俺にどうしろと言うんだ?」さすがに、野島も手の打ちようがない。

「野島さん、お目覚めのようですね。では、要件を言いましょう。浅井に名簿を渡してもらいましょうか」

「俺がどうこう出来る問題でもない・・・」

「そんな事言える立場ではないと思うがね・・・」

「分かった!俺にも一つ条件がある。妻の失踪に関する情報を、あんたは知っている  

 はずだ。教えてくれ!」

「知らないとは言わないが・・・今更知ったところでどうなる、帰ってくるはずもな

 いがな・・・」

「なにぃ~! 嘘を言うな!」野島の心が信じない!

「忠告してやろう。あんたは限度ってものを知らなさ過ぎるんだよ、野島さん。   今は調査業なんだから浮気の証拠写真でも撮ってれば、生活は出来るしあんたの可愛い相棒だって男たちの慰みものにならなくて済んだかも知れないんだ」

「慰みもの?どういう意味だ?」野島は、絶望した。「亜理紗の命は?」

「それは、保証してやってもいい。私は人の命を奪うのは嫌いでね。早く本城に

泣いて頼むんだな。一つだけ教えてやろう。私はあんたの女房に関わりはない」

小谷は、それだけを言い残すと二三人の男たちと部屋を出て行った。


解放された野島は、亜里沙の部屋に走った。体力は回復していない。

鍵は掛かっていなかった。

「亜理紗!」野島は部屋に入るなり、叫んだ。

「大丈夫か? 亜里沙!」野島の声に、反応がない。亜里沙は、いなかった。

またしても大事なひとを失ってしまうかも知れない恐怖に心が震えたのだ。


それにしても、なぜ小谷側に野島たちの秘匿調査情報が流れ、小谷が現れることに

なったのかが謎であった。


               5 亜里沙の機転


 カーペットの上に、力なく座っていた野島のケイタイにメールの着信があった。

まだ朝も明け切れていない未明である。

「支配人室に来て!至急!」送信者は、亜里沙となっている。           野島の頭は理解が出来ていなかった。五階に降りて半信半疑にドアを叩くと、待っていたかのように開かれた。その場に立っていたのは、紛れもなく亜里沙であった。

「亜理紗、どういう事なんだ?・・・」野島は、思わず抱きしめていた。

ソファーには、総支配人の本城が座っている。

「野島さん、今回は亜里沙さんの機転のお陰ですよ。優秀な相棒さんですな」

 

 亜里沙の話を聞いた野島はやっと、事情が呑み込めたのである。

亜里沙が、野島と別れた後、たまたま同じフロアーを歩く清美に出会ったことが事の発端であった。清美の少し慌てた様子に亜里沙の調査員としての感が働いたのである。

「西田さん、私まだ飲み足らないので、少し付き合ってもらえませんか?お近づきのしるしにね。私が奢りますので、ご遠慮なく… 」

「私、お酒強い方でないから、少しだけなら……」

亜里沙は、三十一階にあるビューラウンジに、清美を誘ったのである。

社員と言えども、敷居の高い場所である。清美は喜んで誘いを受けてくれた。

「清美さんて優秀な方なんですね。わたし憧れちゃいます!」

「そんなことないわよ。これでも苦労が多いのよ」

最上階から見る夜景の美しさもあって、会話も進み二人は楽しい時間を過ごすことが出来た。そして、お酒の方も進んだ……………

亜里沙は、元ホステスである。相手を酔わせる術は心得ていた。

「亜理紗ちゃん、私少し酔ったみたい……」

亜里沙は、清美が席を立った際にたまたまテーブルに残されていたケイタイをチェックすることが出来たのであった。運に助けられたと言えるかも知れない。          亜里沙の職業的な勘はあたっていた。

定期的に『濱新』と連絡を取り合っていた痕跡を見つけたのである。野島の秘匿調査の状況を流していたのは、西田清美だったのだ。一年も前から、ホテルの情報が外部に漏れていたことも納得出来たのである。客室課から聞き出した野島側の部屋番号を小谷側が知り得たのも当然であった。

大分酔った清美に、一緒に泊まって行って欲しいと懇願すると気心も知れたせいか了承してくれたのである。まさか、亜里沙まで暴行を受ける対象であるとは思ってもいなかったのであろう。

 亜里沙は夜中に不審な物音に目が覚め、トイレに駆け込むと鍵をかけ息を潜めていたところ、運よく発見されずにすんでいたのであった。

男達に暴行され、挙句に拉致されたのは清美だったのだ。暗闇の中では人の顔の判別が難しいことは容易に想像が出来ることである。


 野島は、清美の監禁場所はハマシンホテルズGが定宿としている十四階にある三部屋のうちの何れかだろうと検討を付けた。

本城は早速、警備課長を呼び寄せると的確な指示を出した。

警備課長は本城の命を受けると、日頃の訓練の通り管轄の戸部署に監禁事件発生の一報を告げたのである。

「複数の暴力団風の男たちに、女性が部屋に監禁されている模様です。至急救出をお願いします」警備課長の通報は、至極真っ当なものであった。

「ちょっと、電話を代らせて下さい」野島は、電話に向かって状況を説明した。

「私は、元加賀町署所属の野島というものです。被害者は女性一人ですから、実行犯は多くても三人程度だと思われます。ホテルの室内が監禁場所と思われるので、 銃刀の所持も考えにくいのです。目立たないように五人程度の私服での出動をお願いします」

「野島部長ですか? 私も三年前は、加賀町署にいました、神崎です」

「神崎君か? 出来るだけ隠密に事を運びたいのだ」

「承知しました。では、ホテル内にはその態勢で出動し、後は待機を取らせてもらいます」

到着した私服の戸部署員五人と入念な打ち合わせが行われ、そのうちの一人がホテルマンの服装に着替えた。

にわかホテルマンが慎重にドアをノックすると、一部屋から反応があった。

ドアがかすかに開かれると、男の声が続いた。「誰だ?」

「朝食をお持ちしました・・・」男は少し警戒を解いた様子である。

間髪を入れず、五人の戸部署員がなだれ込んだ。野島がこれに続いた。


 ベッドの上には、猿轡をされた下着姿の女が横たわっていた。

男が三人、茫然と立っており、事の展開が理解できていない様子であった。

全員が直ちに、拉致監禁および暴行の現行犯で逮捕となったのである。猿轡を外された女性が突然狂ったように叫んだ。

「なんで、私がこんな目に合わなきゃいけないのよ!~」

清美はスパイとして働いた自分の末路が信じられない様子であったが、濱新の小谷を

恨むしかないのである。

野島は、男たちの一人にかすかな記憶があった。前回の事件の際、宮部興産の倉庫にいた男たちの中の一人に違いない。野島は、刑事時代から一度見た顔は忘れないのだ。という事は、起訴もされていないことが明白であった。

「お前、黒田組の配下の者だな!」野島のどすの効いた声に、男は目をむいた。


               6 浅井取締役の追放


 未明であったことが幸いし、宿泊客に知られずに収拾を図ることが出来た。

ホテルの従業員の間でも、箝口令が引かれた。


 野島には、まだやるべき仕事が残っていた。取締役浅井隆の追放である。

野島は、本城に詳しい話を打ち明けると、協力を仰いだ。

「分かりました野島さん。あなたは恩情のある方だ。是非、協力させてもらいますよ。成功報酬も弾みますので・・・」

「ありがとうございます」

野島は、出勤してきた浅井に会うとこう言い出した。


「浅井さん、本城さんには内緒なのですが、実は、個人株主名簿のコピーを持っているのですよ。何かの役に立つと思ってね。それを、あなたにお渡ししても良いが、一つ条件があるのです。それは、亜里沙との交換条件です」

「あなたそんな事本気で言っているのですか?」浅井は、警戒を解いていない。

「もちろん本気ですよ。命を懸けてもいい」


浅井は、四十後半の特徴のない男である。要するに濱新にとっても人数合わせの駒に過ぎないのだろう。浅井もこのホテルの経営に携わる一人の人間でありながら、何の

職責も感じていないのだ。見ているのは派遣先の顔色だけである。こんな男に、このホテルの将来を任せることは出来ないと、野島は心から思った。

「亜理紗さんとの交換条件とは何のことですか?私には、何のことだか分からないのですけどね」浅井は、まだ惚けている。

「浅井さん、惚けたって無駄ですよ。あんたの携帯には『濱新』との深い繋がりの証拠が残っているんだ! 名簿を手に入れたら、あんたは濱新に戻ることが出来て、出世間違いなしだろうよ」

浅井は、廊下に出ると小声で誰かと話し始めた。

「・・・分かった。先にコピーを渡してくれたら、おんなの解放を頼んでやってもいい・・・」浅井はついに認めたのである。

「これが、個人株主の名簿がコピーされたSDカードだよ」野島が差し出す。

浅井は受け取ると、確認のためカードを自分のPCに入れファイルを開いた。 「間違いないよう・・だ」と、浅井が言い終わらないうちに、野島はカードを

PCから抜き去った。

「何するんだ‼」浅井の声は悲鳴に近かった。

野島の合図で、本城が現れた。

「支配人、どうして此処に?」

「浅井君、たった今きみを、取締役会決議違反で取締役の役職を解除する。直ちに濱新に戻って今回の件を正直に報告しなさい。どうせ個人で責任を取らされるのは

明らかだがね」

支配人の叱責を聞くと、浅井はその場に崩れた。もはや、浅井に戻る場所はないのである。非情な企業の論理が待っているだけであった。

ハマシンホテルズGとしては、敵対的買収から早期に撤退し、保有株を他社に譲渡したうえで次のターゲットを狙うまでのことである。

しかし、金を持つ喜びには限度がないのである。持てば持つほど、人間として卑しくなり、決して心が満たされることはないのだ。


「野島さん、亜里沙さん、我々はあなた達のような人材こそ求めているのです。どうですか、転職しませんか? 半分冗談ですけど・・・」

二人は、苦笑いを浮かべた。

本城は続けた。「我々は、これからもお客様の満足と共に立派なホテルとしての評価を得られるよう頑張って行きたいと思います。株主さんの期待に応えるたにも」



野島の心には、本城の依頼にこたえることが出来たという満足感と反比例するように、小谷に対する疑念が抑えられない闇のように広がっていたのだ。

「なぜ小谷は、妻潤子の失踪を知っていたのだろうか?」

しかし、その真実に迫るにはあまりにも遠い道である。捜査権のない今の野島なら

赤子の手を捻るより簡単な存在であるかも知れないのだ。

ハマのフィクサーと呼ばれている小谷光秀の巨悪に迫れるのは、次世代の正義の心を持った捜査官達だと信じよう。

 潤子は何処かで生きているに違いない。いや、生きていなければ、元刑事としての心が報われないのだ。俺は巨悪から、平和を取り戻すために頑張って来たのだ。  そのために潤子が犠牲になったのだとしたなら・・・・・やりきれない。

野島の眼に涙が溢れた・・・


「亜理紗、先に車で帰ってくれないか?」

「どうして?」

「古畑君に、今回の件を話したらすぐに戻るから」

「分かった。じゃあ、仕事が終わったお祝いに、耕介の好きなワイン買って待ってるから、早く帰って来て!」


             エピローグ


 横浜港の夜景は今日も美しく、期待を裏切らなかった。

光が輝いて綺麗に見えるのは、闇の存在があるからである。しかし、その存在に気付く人間は少ないのだ。

野島に古畑との約束はなかった。亜里沙に涙の理由を悟られたくなかったのである。野島は、事務所まで歩いて帰ろうと思った。三十分もかからない距離である。

亜里沙と歩いた三年間を、この美しい景色を見ながら思い出して帰るのも悪くない。

心が軽くなった。

国際橋を渡ると、右にコスモクロックが仰ぎ見るように立っている。今度、亜里沙と一緒に乗ってあげることを約束しよう。左に赤レンガ倉庫を見ながら進む。亜里沙と聴いた大橋美香のピアノの音が心地よく蘇る。

山下公園の中に入った。この時期は、人影も少ない。亜里沙と座ったベンチがいつの間にか降った雨で濡れている。

闇の中で、氷川丸が迎えてくれた。この船だけは変わらないのだ。時代の波に翻弄されても生き続けている。


マリンタワーまでくれば、事務所も近い。亜里沙に連絡を入れよう。

野島は、上着から携帯を取り出し、掛けようとした時に、建物の影から人が飛び出すと、背後から野島の背中にぶつかった。

「気を付けろよ!」野島は思わず大きな声を出していた。

意志に反して、前のめりのまま崩れていく・・・

無意識にかけた携帯が、亜里沙を呼び出している・・・


事務所には、ジャズギタリスト朝倉健二の『YOKOHAMA BLUE MIDNIGHT』

が流れている。

亜里沙は、テーブルにワインと数品の料理を並べ終えたところであった。

それに合わせたように、亜里沙のケイタイが鳴った。野島からである。

「もしもし、耕介? 早く帰って来て~お腹すいちゃたよ! もしもし~」


 地面に横たわった野島の頬に、生暖かいものが触れそして、地面を流れていく。

腰に何かが刺さっているようだ・・・

薄れていく意識の中で、ケイタイに向かって必死に名前を呼んだ。

「あ・り・さ……………」声にはならない。

「これから… かえる…………… から」

「もしもし、耕介!聞こえる?耕介!」 亜里沙の声が、闇の中でいつまでも

むなしく響いていた……………。



野島の耳に、数人の駆け寄る足音が冷たい地面を通じて伝わって来ていた……。




第三話につづく・・・


 




 








 




 











 






 






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