モラトリアムと言えば聞こえがいい
きりこねこ
隣室の唐揚げとAV
時刻は深夜2時をまわっていた。なんだか、人肌が恋しい。
「AVでもみるかー?」
1人の時間が多くなると、人間というものは自然と自分と会話し始めるものなのだ。つまり、これは独り言。
するとLINEの通知音が鳴った。非常に珍しい。私には友人も恋人もいない。今はアルバイトもしていない。したがって、このLINEのメッセージは公式アカウントによるものだと見当をつけつつスマホを開いた。
予想は外れた。メッセージの送り主は、隣室に暮らす30歳のフリーターの男性だった。コンビニ店員の男性で砂糖さんという。無論本名ではない。
メッセージを開く。
『一緒にAVみる?』
窓が全開だったから聞こえていたようだ。若干の羞恥。
髪を整え、ブラジャーをつけた後、大きめのTシャツを着てショートパンツを履く。ノートパソコンを持ち、あかりを消して、玄関から外に出る。
隣室のインターホンを押した。ドアが開く。くせ毛の頭がかなり上の方からひょこっと覗く。
「あ、えっちな女の子みっけ」
鼻で笑っておく。
相変わらずこの男は私好みの顔面だ。声も良い。高身長。特に目が細長い所が好き。
いい匂いしますねえ、と言いながら靴を脱いだ。
「あ、唐揚げだよ。食べる? バイト先のもらってきた。好きでしょ?」
食べるに決まってる。私のようなフリーターは3大欲求に常に忠実だ。他にやることないから。
AV見ながら食べよっか、というといいねえ、と返ってきた。砂糖さんはクソ小さいiPhoneしか持っていないので、私が親の金で手に入れたノートパソコンでAVを見る。
「どんなのみる?」
イチャイチャラブラブしてるのがいい、と答えた。
「いつもそうだよね」
私はうなずく。唐揚げを噛み締めながら深く、何度もうなずく。
「彼氏できるといいねえ」
さらにうなずく。中学2年の時にメンヘラ男、そいつと別れた後に間髪入れずマザコン男と付き合って以来彼氏というものができた試しがない。
高校は通信制で出会いがなかった。出会う気も無かった。
大学に進学していい男を捕まえて思う存分楽しんで愛し合う予定だったが、高校3年の初夏、メンタルを病んだ。なんとか単位を取り、進路も決めずに高校を卒業した後、病気も幾分か良くなったので、療養とかなんとか適当な理由をつけて実家を出て、此処に引っ越してきた。費用は、父親が殆ど負担してくれた。
母親と父親は仲が悪かったし、歳の離れた妹の事はあまり好きではない。特に母親は、精神的に子どもっぽいところが多く、私にとって実家は安心できる場所ではなかった。
過去のことが沢山押し寄せてきて、溺れそうになる。
「家族の話、してもいい?」
唐揚げを食べながら私は言う。いいよー、と砂糖さんはAVを選びながら答えてくれる。
「私が中2の時、父親が、怒って、口に含んでたご飯を、私の頭に思い切り吐きつけたんだよねえ」
なんで? と砂糖さんは聞く。AVでは女が喘いでいる。可愛らしい。憎たらしい。
「私が妹を泣かせたって勘違いして。本当は勝手に妹が泣いてただけだけど。で、その後首を絞められて殴られて、髪の毛を掴んでひきずられた」
大丈夫だったの? と砂糖さんは聞く。私の体が大丈夫だったのか聞いているのか、父親と私の関係性が大丈夫か聞いているのか分からなかった。
「暴力はそれ1度だった。当時は色々思うところはあったけど、今は、あんな子供みたいな母親と、親を財布としか思ってない私と、なんもわかってない小さい妹を養って、なんの見返りも求めずに、仕事して稼いでくる父親は偉いなあって思うよ。尊敬しちゃうくらい。私だったらパッと離婚して行方くらますと思う。きっと、父親は、きっかけも暴力の対象もきっとなんでも良くて、しんどさをぶつけたかったのかなって思ってる。同情してもないし許してもいないけど、この事はそんな風に解釈してる」
なんだか重い話になったから、取り敢えず唐揚げおいしい。と呟く。砂糖さんは頷く。多分この頷きは私の重い話と唐揚げの感想の両方を肯定する意味の頷き。
上の階の住人がトイレを流す音が聞こえる。
「僕、唐揚げほとんど食べてないんだけど」
ごめんね。と言って私は砂糖さんにもたれ掛かる。砂糖さんは身長が高いので安定感がある。
「まあ胃もたれするからいいんだけど」
歳? と聞くと、そうだよ。もう30歳、と言う。
「そんなおじさんの部屋にこんなブカブカのTシャツとショートパンツで来ちゃうなんて、りつ、えっち」
りつというのはネットで使っていた名前だ。性別を問わない名前だから、その他の色々な面倒な事にも囚われていないような気がして気に入っている。
親が付けた名前はなんだか親の手垢がついているように思えて好きではない。自分の名前くらい自分で考えたいものだ。
砂糖さん、と言いながら彼の足の間に入る。後ろから抱きしめてくれる。AVは終わった。砂糖さんが口を開いた。
「ヒゲ剃ってない」
外から猫の鳴き声が聞こえた。
私は口を開いた。
「脇毛剃ってない」
無言でハイタッチをした。
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