Sense

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 歩道橋の階段を上りきり、ふと少女は足を止めた。


 は暮れきるにはまだ幾分早い夕刻。赤らみだした空の色を受け、淡い水色のリボンを伴って濃紺のセーラーカラーがゆったりと風に翻る。


「……」


 たった今、自分の感覚に触れていったを追って、少女は宙を仰ぎ見た。

 だがそこに見出されるものは何もなく、彼女自身、それがはずのないものであるという事はとうにわかりきっていた。

 諦めたように視線を下ろし、手すりに沿ってゆっくりと歩き始める。


 眼下にはオレンジ色に照らされた街の喧騒。

 帰宅ラッシュに巻き込まれ、時折派手にクラクションを鳴らし合い通り過ぎて行く車の群れと、それには目もくれず両脇の歩道を足早に行き交う人間たち。

 そして、それらを覆い隠すように所狭しと建ち並び、常に無機的な印象を周囲に放って止まないビル群。

 その中に、まるで何かに置いて行かれたように取り残されたかのように点在する、街路樹の葉ずれの音が一瞬何よりも大きく響いた。

 歩道橋の中程にさしかかったところで立ち止まり、少女は学生鞄の上から手すりに両肘をつく。

 長い黒髪が、静かに風に舞った。


 自然と共存しているのだ、と人間は言うけれど……。


 同じ風に揺れる樹々を見つめ、長い睫毛を微かに伏せる。

 その瞬間を待っていたかのように、先刻感じたが再び感覚の末端に触れた。


 この世に生を受けて十数年、数えきれないほど感じてきたこの感覚。耳を塞いでも、固く心を閉じても聞こえてくる無数の声……。

 人間以外の――樹々や動物たち、おそらくは人間が『自然』と呼んでいるものすべての――微かな想い。心の響き。思念にならない、混沌とした囁きが、自分の中でとりとめもなく反響する。


 もう何度も繰り返されてきた感覚に、少女はただじっと神経を研ぎ澄ませた。


「……どうして、私に?」


 決して応えが返らない事を承知で、これまで幾度と無く問いかけてきた同じ質問をそっと口にしてみる。

 こうしている間にも、彼らの想いは淀みなく流れ込んでくるのに……。



「ねー、君ひとり?」


 突然、背後から聞き覚えのない男の声。


「誰か待ってる? ……ワケないよね、こんな所で」


 一方的に結論付けて、軽薄そうな声が続く。同年代くらいの少年だろうか。

 何の反応も示さず、黙って少女は下方の樹々に視線を落としている。

 沈黙をどう受け取ったのか、男はひたすら喋り続けることにしたらしい。


「それってさァ、S女子校の制服だよねもしかして。頭イイんだねー。オレはさぁ、R高校なんだけどー」

「……これ、聞こえる?」


 ポツリと、少女の口から消え入りそうな声が漏れた。


「え?」


 ようやく発せられた声を耳ざとく聞きつけ、何?何?と、男ははしゃぐようにすぐ隣に駆け寄ってくる。


「これ、って?」


「…………」


 聞こえていないのだ、彼にも。

 当然だ。わかるはずなどない。こんな感覚。


「……何も、聞こえないけど……? ま、イイじゃん。それよりさ、これからどっか遊びに行かない?」

「でも、私には聞こえるの」


 だからと言って何ができるわけでもないけれど。


 どこか一点をじっと見下ろしたまま静かに言葉を紡ぐ少女にようやく気付いて、男は訝しげに眉をひそめる。

 そして何かに思い至ったのか、なんだフツーじゃねーのかよ、と言い捨て、大げさに舌打ちしながら足早にその場を後にしていった。



 頭がおかしいのだ、と思いたければ思えばいい。自分でさえ時折そう感じることがある。

 樹々を見下ろす瞳に、わずかに陰りが生じる。


 ……どうして自分にだけのだろう。

 幼い頃は、その声のあまりの悲痛さに度々めまいを起こし、こんな奇妙な感覚を持たない周りの人間たちの頭をひねらせていた。

 蝶や花の声が聞こえた、などと誰が信じるだろう。

 あの頃、何気なく母親に話した時が最初で最後。幼い自分を見下ろし、一瞬だけ奇妙に歪められた母親の顔が、今でも忘れられない。

 そうか、この感覚は外に出してはいけないものなんだ。そう悟った瞬間、大事な何かを自分の中からそぎ落としてしまったような、微かな痛みのようなものを感じたのを覚えている。

 それ以来、心は――人間に対する心は――閉ざされたままだ。

 本当の自分で接する意味なんかないのだと、いつの間にか、事ある毎に自分に言い聞かせて。


 寂しくないと言えば嘘になる。けれど、どうせわかってもらえることなど、ありはしないのだから。本当に信じて欲しいことを信じてもらえずに、他に自分の何をわかって欲しいと思えるだろう。

 見えるものしか見ようとはせず、聞こえるものにのみ耳を傾けようとする。自分の感覚だけがすべて。それが人間。

 そんな彼らに心から打ち解けることをせず、独りこうしている自分もまた、確かに『人間』なのだけれど。


「私に、何かして欲しいの?」


 そよぐ植物。羽ばたく鳥。よく晴れた日の渡る風さえ、不快を露わにした悲しみに満ちているような気がして。いつもいつも、心に薄暗い影を落とした。薄いフィルムで全身を隙間なく覆われてしまったように、感じ取れるもの全てがどんよりとしたものに包まれていた。

 そして、くるこの感覚。

 不安のような怒りのような、諦めにも似た感情。……いや、もっと……

 雑多な日常音に紛れる微かな声を拾おうと、目を閉じてさらに耳を傾ける。 


 共に流れこんでくるのは、わずかな……望み?

 ――願っている?何を?

 わからない。違うかもしれない。一瞬、感覚の端に捉えたような気にはなるものの、いつもそこまでだ。


「どうして欲しいの……?」


 言いながら胸が痛むのは、こんな自分では何もしてあげられないから。

 何も出来ない自分は、彼らの想いをただ無駄に聞いているに過ぎないのではないかと……。




「隣、いい?」


 不意に、またもや背後から呼び掛けられた。

 先刻とは異なり、落ち着いた青年の声。

 バスの中に居るのでも公園のベンチに座っているのでもないのに、隣も何もないような気がする……。

 未だに視線は下方の樹々に落としたまま、漠然と少女は考える。


 なのに、自分は口を開いていた。


「……どうぞ」


 思わず応えてしまったのは、おそらく、その青年の声があまりにも優しく自分の耳に入ってきたから。


「どうも」


 律儀に礼を述べた後、ゆっくりと自分の隣に進み出て同じように手すりに両肘を預ける長身の男性を、少女は気配だけで感じていた。

 別に、騒がしく不用意に自分に近付こうとするのでなければ、構わない。

 わざわざ視線を上げて相手を吟味しようなどという気は起こらなかった。


 この人は大丈夫。

 気配だけで何となくわかる。


「もう少し、肩の力抜いたら?」


 優しげに青年の声が響いた。


「そんなに思いつめなくても、は大丈夫だよ」

「……!」


 人間の声が――自然以外の声が初めて、心の一番大事なところに触れた、ような気がした。


 


 予想もしていなかった言葉に、少女は反射的に隣に立つ人物を見上げていた。

 わずかにネクタイを緩め、脱いだグレーのジャケットを小脇に抱えた、いかにも会社帰りといういでたちの青年が、静かに微笑んでこちらを見下ろしている。声と同様に優しい、けれど真っ直ぐな瞳。


 、とこの人は言った。そんなに思いつめなくても、は大丈夫だと。

 まさか……。


 ともすれば震えそうになる声をむりやり落ち着かせ、少女は慎重に口を開いた。


「……『彼ら』って……?」


 まさか、自分と同じ感覚を?


「……一見、弱そうに見えるけどね」


 少しの間、黙って微笑んでいた青年が、ようやくポツリと言葉を紡ぎだした。


「人間が思ってるよりずっと『自然』は強い。そう、思わない?」

「……!」


 この人にもいるのだろうか。

 とりとめのない、彼らの……想いが……。


「汚されたり壊されたり、してるけどね。それでも彼らは生きたいという欲を捨ててないし、その願いはずっと引き継がれていくから」


 これまで自分の中で形を成せずにいた感覚を、こうまではっきりと言葉という形にしてくれる目の前の人物を、少女はただ信じられない思いで見上げていた。


「ほら、絶望して自殺……とか、ないでしょ?」


 悲しみと痛み。けれど生きることを諦めない。   

 そして受け継がれる生命と願い?


「だから大丈夫。彼らはただ、解ってくれる存在が欲しいだけなんだ、きっと」


 解ってくれる存在。それが自分、なのだろうか。

 他に何も出来なくても、彼らを理解してあげることさえ出来たら、彼らはそれで満足なのだろうか。


 まぁ、俺の勝手な解釈だけどね、とわずかにトーンを落として青年は笑う。

 うつむき、すっかり黙りこんでしまった少女に、さらに目を細めて彼はささやくように続けた。


「俺もやっと会えた。本当に解り合える仲間に」


 驚いて顔を上げると、そこには自分を見つめる優しげな瞳。

 仲間……。


「……あなたにも、……んですか?」


 うわずった声のまま、少女は恐る恐る核心に触れる。


「いや」


 少女の問いかけに、青年は静かに首を横に振った。


「聞こえるわけじゃない。んだ、俺にはね」

「――」


 ……見える?


 微笑んだまま、青年は真っ直ぐに視線を歩道橋下の街路樹へ向ける。


「たぶん……感じてることは君と同じだよ。彼らの苦しんでる様子が。 見えるだけだから辛いけどね。……俺には何もしてやれないし」


 優しい瞳に、微かに陰りが生じた。

 少女の中で、頑なだった何かが少しずつ溶け始めたような気がしていた。

 同じものを感じ取り、同じことを思うひとがいた……。

 それだけで、この安心感は何だろう。揺らいでいた不確かな足元に、明るい一本の道が示されたような。


「彼らには何もしてやれないけど……でも、同じように悩んでる君には、こんな俺でも何かしてやれるんじゃないかと思ってさ」


 少女に視線を戻す。真っ直ぐな瞳。


「固く耳を塞いで泣いてる君の心が見えたら、じっとしていられなくなった」

「……」


「俺も、そうだったから」


 昔はね、と彼ははにかむように笑った。


「ま、そういうこと。彼らは結構打たれ強いよ。いつも驚かされてるけどね。こんなもんじゃまだまだぶっ壊れたりしないから、君も安心しなサイ」


 最後の命令口調と共に、大きな手のひらがポンと頭の上に乗せられた。


「……」


 何か言いたげながらも視線を上げられずにいる少女に、わずかに目を細め、青年は口元に笑みを浮かべる。


「じゃ、元気で」


 静かに手のひらを離すと、足元に置いていたと思われるブリーフケースを拾い上げ、青年は歩き始めた。

 未だ彼の温もりを感じながら、少女はゆっくりと視線を上げる。


 ……行って、しまう。


 形容し難い、何か迫るような思いに駆られる。知らず、心が小さな悲鳴をあげた。

 たぶん、もう会えない。

 遠ざかるワイシャツの背中を目に留めた途端、こみ上げてくる焦燥感。

 さまざまな思いが交錯して、そして――


「待って……!」


 気づいた時には、走り出していた。

 決して大きくはないが、何か思いつめたような少女の呼びかけに、歩道橋の階段を数段下り始めていた青年が驚いて振り返る。 


 漠然と、だが確かに少女は感じていた。

 もしこの青年が現れなければ、自分はこのままずっと、この先も独りだったことだろう。

 解ってもらえる人もなく、解ってあげられる自分にも気づかず、彼がいなければ……。


 間近まで駆け寄らずに、少女は歩を止めた。

 制止しておきながら、言うべき言葉が定まっていないことに今さらながら気付く。


「どうして……どうしたら、そんなふうに強くなれますか? 私はまだ心から笑えない。そんな……あなたのような、笑顔はできなくて……」 


 言いながら少女は確信する。

 そう、自分は弱いのだ。

 心を閉ざし、全てのものから遠ざかろうとしていた。

 決して自分を解ってくれない周囲に背を向け、解ってもらおうともしてこなかった。

 この青年のように、誰かを見つけ、解ってやろうとすることさえ……。


 それまで、数段下からただじっと少女を見上げていた青年が、ふっと口元をほころばせた。


「大丈夫。君だって――人間だってそんなに弱いものじゃない。今はまだ無理でも、じきに笑えるようになるから」


 穏やかな青年の台詞に微かに目を見開き、少女は言葉を辿る。


「……笑える……ほんとに?」

「もちろん。心から、ね」


 それから一瞬、少し考えるように視線を巡らせてから


「俺もそうだったから」


 一気に破顔して、先程も聞いたような台詞を青年は難なく口にしてみせた。


 ……今すぐには無理でも、いつかは……。

 これまで感じたことのない穏やかで温かな期待感。

 心が、ただ穏やかに凪いでいる。こんな思いは初めてだった。

 改めて向き直り、青年は正面から少女を見つめる。


「とりあえず、今日はもう少し自然に触れていたいから、公園突っ切って帰ろうと思ってたんだけど……」


 もちろん、変わらず笑みをたたえたままで。


「一緒に来る? そういえば、お互い名乗ってもいなかったし」


 こくん。

 彼の言葉に、自分でも驚くほど素直に頷いていた。

 新鮮な驚きを伴ったまま、少女はゆっくりと足を踏み出す。


 ……変われるかもしれない……。


 もう自分は独りではないのだ。

 その時かすかに、だが心から微笑んでいたことには気付きもせず、少女はこれからの自分の姿を、目の前の青年に重ね描いていた。


 そんな彼女に満足そうに瞳を細め、彼はそっと手を差しのべる。


「……じゃあ、まず名前を聞こうか」





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