【2話】笑顔

 青く澄み渡る空。桜が陽気な日差しに照らされながら、静かに花弁を散らす。

 新学期が始まったばかりの平日。学校の校門からはシワのない制服を着た生徒や、新学年に心を躍らせてる生徒たちが、それぞれ家路につく。


 学校の授業が終わった春の放課後。そんなのどかな日々に反して、校舎内のとある女子トイレでは少女たちの笑いと呻く声が響いていた。


 湿った空気の漂うトイレの壁際で、身を縮こまらせて座る一人の少女。

 目を閉じて身を震わせながらか細い声で話す少女。その様子は、どこからどう見ても怯えていた。


 恐る恐る開いた目に映るのは、少女を囲むように立ってこちらを嘲笑う三人の少女。

 その内の一人から笑みが消えたのを確認した時、少女は息が吸えなくなるような恐怖を感じた。


「もう、やめて……」


「うるさいなぁ、弱虫は黙っててよ」


 今の発言で機嫌が悪くなったのだろうか。突き放すように冷たく甲高い声で罵られると共に、少女を勢いよく足で踏みつける。

 お腹を勢いよく踏まれた衝撃に、少女は激しい吐き気を覚えた。


 吐き気を抑えれそうにないため目の前の洗面台へ向かおうとするが、うまく立ち上がれず少女はその場で思わず吐き出してしまう。


「うわ汚っ! おい文月、この床掃除しろよ」


 すると、先程の甲高い声の少女とは別の低い声の少女が声を荒げる。

 そして手に持っていたモップを握り直すと、横たわる少女の顔に強く押し付けては嘲笑った。


 文月と呼ばれた少女――文月 瑠樺。

 瑠樺は黙ったまま、痛む体を無理やり起こして掃除道具を取ろうと立ち上がる。

 ふらついた足取りでロッカーへ向かうと、掃除道具を取り出して掃除しようとした。その時――


「……誰が掃除道具を使っていいって言ったの? ――舐めて掃除しなよ、瑠樺」


 瑠樺に酷い事をする二人の後ろで静かに様子を眺めていたもう一人の少女が、瑠樺の髪を掴んで嘔吐物に顔を押しつける。

 勢いよく床に押し付けられた事によって顔を強打し、強い痛みが瑠樺を襲った。


「あんたごときが掃除道具を使ったら、道具が可哀想でしょうが!」


「うわー、夢亜ちゃんやるねぇ」


 夢亜と呼ばれた少女は、瑠樺の髪をから手を離すどころか体重を乗せて圧を掛ける。

 瑠樺が苦しむ様子を見ても、誰かが止めようとすることはない。


 ――なぜなら、三人は瑠樺の苦しむ様子を楽しんでいるからだ。


「あはは、“ゲロ吐き女”の文月さーん!」


 そんな様子を見て、甲高い声の少女が楽しそうに嘲笑ってこちらを見つめる。

 夢亜は言う事を聞かない瑠樺に溜息をつくと、髪を掴んでいた手を離す。


 その隙に瑠樺が顔を上げようとしたが、夢亜が足で頭を踏みつけた事によって阻止された。


「ほら、早くしてよね」


「嫌だよ……やめ、て……」


「さっさと舐めて掃除したら、今日のところはやめてあげる」


 喉から声を振り絞って制止の声をあげる瑠樺に対し、夢亜は容赦なく瑠樺の頭を踏みにじる。

 最初は楽しそうにしていた夢亜だったが、次の瞬間に大きく溜息をつくと瑠樺から足を離して付近に置いていた鞄を手に取った。


「つまんな。……二人とも、帰るよ」


 はーい。


 二人が元気よく返事しているのを最後に、瑠樺は安堵と疲れで重い瞼に抗うことなく瞳をゆっくり閉じた。



 次に意識を取り戻した時には、空は赤く染まり夕方を知らせていた。

 瑠樺は全身が痛む体を起こし、身だしなみを整えて鞄を手に取ると、一歩ずつ家に向かって歩き出す。


「今日の夕食は何かなぁ……」


 桜の散る帰り道、瑠樺は夕焼けに赤く照らされながら一人涙を拭って微笑む。

 空腹を訴えるお腹にそっと手を当てながら、大切な家族の住まう家を目指して静かな道を歩いた。


 疲れた体、ふらふらする足取り。

 時間をかけてやっとの思いで家に着くと、瑠樺は嬉しさに顔をほころばせる。


 そして大きく息を吸うと、帰りが遅くなった言い訳を考えながら玄関の戸を開けた。


「ただいま! お母さん、今日の夕食は?!」


「おかえり瑠樺、今日は肉じゃがにしたわ。もうすぐできるわよ」


 元気な様子を見せる瑠樺に、キッチンで夕食の支度をしていた母親が優しく微笑んだ。


「あら、制服汚れてるじゃない。どうしたの?」


「ちょっと転んじゃって……あはは」


 母親の指摘に、瑠樺は苦笑いして答える。

 転んだと嘘ついたのはバレていないようだ。


「もう……気をつけなさいよ? さ、早く着替えておいで」


 その時キッチンから少し離れた場所にある机で宿題をしていた弟の蒼汰が、こちらに横目で視線を向けていることに気づいた。


「あ、姉ちゃん。後でここの問題教えてほしんだけど……」


 瑠樺が着替えるために二階の自室へ行こうとした時、蒼汰の声に引き留められて振り向く。

 そこでは、普段から愛想のない蒼汰がこちらをじっと見つめて視線で助けを求めていた。


 そんな蒼汰の様子が瑠樺の瞳には愛らしく映り、思わず口元を緩める。


「ご飯食べてからならいいよ」


 そう言うと、瑠樺は自室に移るために階段を上がった。


 瑠樺の家族はごく普通の何の変哲もない家族だ。

 強いて言うなら、仲の良さが目立つくらいだろうか。


 喧嘩なんて滅多になく、いつもニコニコとして一日の出来事を話したり何かをして共に時間を共有することが多い瑠樺の家族。

 学校で瑠樺をいじめたり冷たい視線を向けてくる周りの人間とは違って、瑠樺を常に気にかけて思いやってくれるこの家族が瑠樺は大好きだった。


 瑠樺が部屋で着替えてリビングに戻るといつの間にか父親も帰宅しており、テーブルに並べられた夕食に目を輝かせる。

 食器を並べて夕食の準備を手伝う蒼汰に続いて、瑠樺も箸やコップを並べた。


 夕食の準備ができると、家族でテーブルを囲むように座って手を合わせる。


 お腹が空いていた事もあって瑠樺が夢中になってご飯を食べ進めていた時、その様子を優しく見守っていた母親と目が合った。


「瑠樺、最近学校はどう? 夢亜ちゃんとは仲良くしてるの?」


 何気ない母親の言葉に、瑠樺は言葉を詰まらせる。


 ――夢亜。彼女は、瑠樺をいじめている三人組のリーダーなのだ。

 幼馴染で親友だったこともあり、家族は今でも仲良くしていると思っている。


 瑠樺自身がいじめられている事について隠しているのが一番の原因だったが、周りに心配や迷惑をかけたくないという思いでずっと言わずにいた。


 背筋に冷たいものが走る感覚を覚えながら、瑠樺はいつもの笑みで口を開く。


「うん! 今日は久々にお昼ご飯を一緒に食べたんだけど、相変わらずだったよ」


 違う。本当は弁当箱の中身をゴミ箱に捨てられて、お昼ご飯食べれなかったの。

 瑠樺は思っている事とは反対に嘘の出来事がすらすらと話せる自分に驚きながらも、いつものように嘘をついた。


 もう、慣れてしまったのだろうか。瑠樺はそんな現状に悲しむ事もなく、家族にばれないよう笑みを浮かべる。

 瑠樺の様子を見た家族は安心したのか、『良かったわね』という母親の言葉を最後にこの話を終えた。


「そうだ、今週末にみんなでショッピングモールへ買い物に行かないか?」


 しばらく家族での日常会話を楽しんでいた時、不意に父親が提案する。


「ショッピングモールに行くの久しぶりだね! 何か買いに行くの?」


 そう言って、僅かに首を傾げる瑠樺。

 だが、父親の答えが帰ってくる前に、蒼汰がガタッという椅子が揺れる音を立ててキラキラした瞳を父親に向けていた。


「俺、ゲームほしい!」


「蒼汰、ずっと欲しいって言ってたものね。じゃあ、みんなで行きましょうか」


 私も新しい服が欲しいのよ。

 そう付け足すと、母親はニッコリと微笑む。


 大げさに手を挙げて喜ぶ蒼汰の隣で、一人静かに笑う瑠樺。

 そんな瑠樺を見た父親が、ぽつりと口を開いた。


「瑠樺も一緒に行くよな?」


 確認しているのだろうか、様子を伺うような声色の父親。

 いつも一緒に行ってるじゃないか。と瑠樺は心の中で呟くと、父親と視線を合わせる。


「当然でしょ!」


 ――約束だからね。

 そう付け足すと目を細めて嬉しそうに笑う瑠樺に、みんなも続くように微笑んだ。

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