第21話 暁の決戦①
ひゅうひゅうと冷たい夜風がエヌの顔に叩きつける、夜明け前のロンドン市内。タワーブリッジと呼ばれる大きな跳ね橋の塔、その天辺で少女は体をブルリと縮こまらせた。
薄い身体に分厚いコートを着て鼻の頭を赤らめた彼女は、つい両手を擦り合わせてしまう。しかし、帰ってくるのはカチャリという金属音だ。
「エヌよ、こんな夜更けに出歩けば風邪をひくぞ」
「案外お優しいんですね、これから死にゆく機械にも情けの心があるなんて」
「極東では長く使われた道具に魂が宿るとの伝承だと耳にしたことはあるな」
「それは生まれたて8年のエヌに対する嫌味ですか、それとも貴方の長生き自慢ですか?」
エヌの目と鼻の先に浮かぶのは、3日ぶりの邂逅を果たしたグレーの不適な笑み。軍帽も被らず、ゴウンゴウンと重い駆動音を響かせる空の戦艦、その船首に腰をかけた船長は眼下にロンドンの町ごと少女を見下ろしている。
「そうつれない態度をとるでない。いつ何時、少し心に余裕を持つことは暗示において大切だぞ?」
「貴方が持ってるのは慢心の間違いでしょう。それに、そう上から目線では誰だって眉を潜めます」
「許せ、これでも高度制限ギリギリなのだ。英国国民たるもの、歴史と法律は尊ぶべきものではないか」
「いたいけな子供に砲撃を飛ばす国が正しいって言うなら、今頃ロンドンは無法地帯ですね」
「はは、そうこまっしゃくれるな。もっと其方が素直に言っても怒るほど、私は狭量ではないと思っているぞ?」
グレーは上機嫌そうにカラカラと笑うが、ふと息をついた僅かな間に目つきが鋭く変わった。先ほどまでの談笑とは違い、冷ややかに睥睨する姿にエヌは思わず一歩後退りそうになる。
「其方、なぜここに姿を現した。身体の震えは寒さだけのものでは無いだろうに。それとも彼我の戦力差を弁えないほど愚かで、私の見込み違いだったか?」
「…戦力差なんて分かってますよ。完膚なきまでに伸されたのも忘れてませんし、正直今でも怖いです」
「ならば何故、ここに立つ。小さき少女よ」
貫く視線と共に放たれた短く重い一言に、エヌは体を僅かにのけぞらせる。それでもなんとか両の足に力を込めると、キッと毅然な顔つきで睨み返した。
「貴方に生き方を指図されるなんて真っ平御免、です」
グレーはその言葉に一瞬目を丸々と見開くが、すぐさま臓腑の底から響くような声を上げる。
まさに呵呵大笑 といった様で腹を抱え、静けさに包まれた夜の空にたった1人声を轟かせた。
「ハハハッ、フフッ、フハハハハハハッ!そんなに震える手を握り締めて言っても説得力がないではないか!可愛らしくて可哀想で、どこまでも子供らしいぞ」
「巫山戯てなんていませんよ。エヌはあるじ様と一緒に、あったかいお日様の下で暮らすんです。それを邪魔するならぶっ飛ばす!」
「………ああ、馬鹿らしく、子供らしく、そして真摯な望みだ」
将校の少女はどこからか飛んできた軍帽を手に掴むと、顔が見えぬほどぬ深く被る。帽子のバイザーに隠れた表情は窺い知れぬが、つばを持ち上げた時に浮かんだ表情は実に単純明快。
そこにあったのはどこまでも純粋で、好戦的な支配者の笑み。不適に口角を持ち上げるグレーは、開戦を告げる喇叭のように張った声をもって、高らかに名乗りを上げた。
「だが、その願いを叶える訳にはいかぬな!この英国軍が一番槍、キャプテン・グレーが仰せつかったEliza・Q拿捕の任において、其方の生命は一切保証しない!」
「そんなの、聞き入れるつもりは毛頭ありませんよ!」
「ならば!」
グレーは芯まで響く大声で、エヌの声を食い破らんと押し迫る。
「ならば、示すがいい!その願いは己が身を掛けてでも叶えるものだと!力無き願いは芥の如く風に吹かれて消えるものと心得よ!」
「…!」
「私も全力を持ってその願いを叩き折ろう!それが艦長たる私の責務だ!」
ビリビリとエヌの肌を少女の言葉が叩く。今までと違って一言一言に威容のあるそれは間違い無く艦を、兵士たちの命を預かる責任の重みが宿っていた。
だからこそエヌは強く目を瞑ると、深く息を一度吸い込む。そして再び目を開いた時には、その瞳に決意の炎を湛えていた。
「さあ、惨めったらしく逃げるか?それとも無謀にも私に歯向かうか?」
その言葉にエヌは生意気そうな笑みを浮かべて、一歩、足を踏み出す。そのまま二歩、三歩とどんどん足の速度が速くなっていき気づけば駆け出していた。
しかしここは跳ね橋が尖塔の上。まっすぐ進み続ければいつか足場がなくなるのは当たり前のことである。
それでもエヌは怯えることなく進路を変えず、空へとその身を投げ出した。
さすれば川の水面に向かって体が引っ張られていくのは至極当然。みるみるその姿は小さくなっていき、点と見分けがつかなくなっていた。
「…見込み違いだったか?ついぞ人の性質を見誤るなど、年は取りたくないものだな」
グレーは深々とため息をつくと、夜景を背にするよう体を翻して、艦橋へツカツカ靴音を響かせ戻っていく。
だからこそ、彼女は一瞬気づけなかった。背中にゴウ、と音を巻いて近付く白い影に。夜を裂く一羽の鳥に。
刹那、一瞬の邂逅。腰のレイピアを振り向きざま抜き放ったグレーと、白い影が鍔競り合う。
火花を飛び散らせぶつかり合う白い少女は、先ほどまでの小さい体躯とは似ても似つかない巨大なシルエットだ。
腿の先からバネとゼンマイ仕掛けの巨大な義足を装着し、その爪先に当たる部分から長く伸びた分厚い鋼鉄の大剣。
エヌの見事なオーバーヘッドキックとグレーの居合がぶつかり合い、擦れ合っては火花を散らす。
結露した水分によって冷たい蒸気を排き出すその姿は、それはまさしく
「少し見ぬ間になんとも大きく育ったではないか。男子三日会わざればと言うが、淑女たるものもっと大人しくしたらどうだ?」
「今の世の中男女平等ですよ、お婆ちゃん?」
エヌは口の端を釣り上げながら、グレーを斬り払った。
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