第16話 濡れ猫迷子、小さな子
「…はぁ……ああもう!あんなこと言うつもりじゃなかったのに、言うつもりじゃ、うぅ…」
重暗い空、ザァザァと降る雨に傘の一つも持たずに飛び出してきたエヌ。
自身の金属腕を他人に見せぬよう袖を引っ張ったまま。雨に打たれ続ける姿は寒々しいものだった。
街ゆく通行人も何事かとエヌを見やるが、びしょ濡れで泥に塗れている子供に関わろうとする程でもない。
ときおり車が通りがかっては少女に水しぶきを、時折フラリと風にあおられながらトボトボと歩いていく。
「あれ、もしかしてエヌ子?どうしたのさこんな所で!ああもう全身びしょ濡れじゃんいつも一緒のあるじ様はどうしたの!エヌ子を1人にするなんて信じられない!」
声をかけたのは、エヌがよく行くカフェ『ザ・ミュージアム』の給仕さん。街中にもかかわらず普段の制服姿の彼女は、濡れ鼠の少女の様子に目を丸くすると、迷わずそばに近づいていく。
息をつかせぬ怒涛の勢いでエヌの身を心配する勢いに気圧され、エヌは一歩距離を取った。
しかし少女のそんな様子も意に介さずに、給仕さんが2人の距離をを二歩詰める。自身が差していた傘の中に無理やり少女を収めると、お日様のような表情を浮かべた。
「ほーら行くよエヌ子。そんなびしょ濡れで外に居たら風邪引いちゃうからね。早くお家に帰ろう?」
「……ヤです。帰りたくありません」
俯きがちにそう呟くエヌを見た、いつも通りのおっとり給仕さん。顎に手を当てるとしたり顔になり、エヌの背中をぐいぐいと押し始める。
「それじゃあ暖房がしっかりあって、あったかいシャワーと替えの洋服に美味しいご飯まである所に行きましょう?」
「もしかして、給仕さんのカフェですか?」
「おぉー勘が冴え割ったてるねぇ、正解だよエヌ子。でも今のキミに冷やしレモンは体に悪いからダメだよ?」
彼女はエヌの口元に指を当てると蠱惑的に微笑んだ。しかし一瞬キョトンとした表情のエヌは、やがて唇をアヒルのように尖らせた。
「エヌのイメージは冷やしレモンですかそうですか。少しお互い話し合う必要がありそうですね」
「話し合うも何も、エヌが冷やしレモンを食べる時はほわわぁーって幸せそうな顔してるんだもん」
「んなっ!そんな緩み切った顔人前でするわけありません!」
「んふふ、普段お澄まし顔のエヌ子があんなに蕩けた笑顔になって従業員一同見守ってなんか無いから大丈夫よ?」
「絶対見てるやつです!今までずっと見守ってたんですね!」
口をへの字に曲げてご機嫌斜めの少女だったが、それでもさっきよりは幾分か表情が明るくなっていた。
それをみた給仕さんはニッコリと笑うと、軽い調子を崩さず濡れネズミなエヌの頭を撫でたくる。
「まあ今日は大丈夫よ、どうせ昨日のことでお客さんは来ないから今日は閉店だし…ってエヌ子もどうしたのそんなキョトンとした顔して」
「何でです?給仕さんのお店結構な人気じゃないですか」
「あー、スマホ…は持たせて貰ってないのかもだけど、テレビとかも見てないの?今朝すっごいニュースだったけど」
そう言って彼女はポケットからスマートフォンを取り出すと、エヌにそっと手渡してくる。
それをビロビロに伸びた袖越しに受け取り画面を覗き込むと、少女の額にじとりとイヤな脂汗が吹き出した。
「『夜間の砲撃音に市民震撼』っていったい何事ですか?かなり物騒な文言ですけど」
「もしかしてエヌ子昨日はぐっすりおやすみだった?昨日の夜大きな爆音してそれはもう凄かったのよ。もしかしてヘッドホンで音楽聴いて寝てたりする?」
「昨晩はその、色んな事がありすぎてグッスリでした。ええ本当に大変で」
思わず遠い目になりながら、重く深くため息をつく。まさか自身が空で砲撃を撃ち込まれている戦艦の中にいましたとは言えるはずもない。
疲れ果てた表情のエヌを見て、給仕さんは特に深く突っ込んでくることもなく少女の背中をさする。
しばらく2人が歩いていくと、やがて遠くに出歩かないエヌでも見知った建物がちらほらと散見され始めた。
しかしエヌの記憶にはない大きな構造物群も、町の中に突如として現れている。
「はーい、ここで右手に見えるのが昨日一夜にして現れた地上砲台でーす。何でも魔術師が出したらしいよ。まあそんなの言われなくても分かるって話だけどね。まぁ何にしてもこっちは商売上がったりよホント」
「こんなのが一晩で、ですか。確かにこれでは外で気軽にお茶どころの話ではありませんね」
エヌが見た光景、それは普段子供やペットを連れた家族で賑わっている公園の記憶とは似ても似つかない姿。
普段青い芝で覆われているはずの地面は何の比喩もなく大地が裂け、地面から巨大な砲台が現れていた。
それが1つ2つ3つ…と公園に点在しているため、まるで戦争真っ最中のような空気感を放っている。
「外でお茶してる場合じゃないからカフェが儲からないんだわ。いやー人の1人も来そうな雰囲気が無いから今日は閉店にしちゃった」
「閉店にしちゃったってそんな軽い雰囲気で…待ってください給仕さんもしかして店長さんですか!?」
「あれ、もしかして今までずっと野良の店員さんだと思われてたのあたし?そんな店内に馴染んでる?」
「顧客の頭をゲンコツでグリグリする人が店長さんだとは思いませんでしたよ」
「え~?そんなこと言って本当はエヌ子どうなのさ?」
「その落ち着きのなさも店長さんっぽく無いと思います」
露骨にガッカリした表情で項垂れるが、すぐさま明るい表情を取り戻す。その間に給仕さんのテンションに慣れたエヌが軽く周囲を見回していた。
「でも街で建物が倒壊して、とかは全然ありませんね。警察さんがピリピリこそしてますけど救急車の音一つ聞こえません」
「なんでも砲台は空に向かって弾を吐くだけだし、砲台が狙ってた何かは全くの反撃無しだってさ。しかも割り出された弾のいく先に爆発の跡もなしとか訳わかんないよね」
「…そうですか。反撃も弾着も一つもなしと。不気味ですね」
そう、不気味なほど強い。エヌの頭の中では、片手間で自身を追いながら、何某かの手段を持って砲弾のその全てを捌き切ったグレーの姿が繰り返された。
自身の歯が立たなかったその背中は、巨大な砲台を見ることで一層遠いものとなっていく。
「まーまーエヌ子、そんな暗い顔しない!そんな変なことなんてホワイトチャペルの頃からなんだから」
「砂糖一粒分しか安心できませんね…誰もがそんなに肝が座ってはいないと思いますし」
「褒められてもココアしか出ないよエヌ子ぉ」
「何をどうとったらそうなるんですか」
「言葉をその通りに決まってるじゃん?それよりエヌ子、やっとこさカフェに到着だよぉ。それではお客様いらっしゃいませ?まあとにかくカフェ『ザ・ミュージアム』特別貸し切り開店!」
普段と違い、人っ子1人いないカフェの鍵を開けた給仕さん改め店長さん。店の中に入るとクルリと振り返ってニパリと笑う。
どこかエスニックな家具が集められた、一見美術館のような喫茶店の電気が灯される。2人っきりの静かなカフェはどこか神秘的な空気だった。
「とは言えまずはそのビチャビチャな服をどうかしなきゃだね…ほらおいで!」
しかしそんな雰囲気も、店長さんの底抜けに明るい声ですぐに雲散霧消してしまう。
どこかほっとした表情の少女が連れられ向かったのは、普段客が立ち入らないような店の奥。
普段の客が入らないスッタフの部屋には、それはそれは立派な浴槽を備えた立派なバスルームが備えられていた。
給仕さんは素早くお風呂にお湯を張っていくと、花の匂いのする入浴剤を迷いなく入れていく。
その手慣れた手つきに少女はピンときた様子でボソリと呟いた。
「もしかしなくても、経費で落としましたね?」
「スタッフの労働意欲向上というのだよエヌ君。それにしてもよくそんな難しい言葉知ってるね。ほらバンザイして、バンザーイ!」
「服くらい1人で脱げますし、一人で普通に入れます!」
よくよく考えたら自身の機械の腕を晒すわけにもいかず、強情な子供のようにヒシと自分の服を抑える。
「にゃーるほど?エヌ子も大人ぶりたい時期だもんねぇ。それじゃお姉さん邪魔できないわ」
店長さんはニヤリと含み笑いを湛えながら、ヒラヒラと手を振りその場を後にした。
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