本牧、角部屋、お嫁付き!(幼女)

春菊も追加で

第1話:その場所、横浜市・本牧

 ――だから、本牧ほんもくなんかやめようって言ったんだよ。横浜の中心部には近いかもしれないけど、駅がなくて不便だし。



 両手に満杯の買い物袋を下げながら、内海《うつみ》陽菜ひなは『彼女』が言っていたことを思い出した。このアパートを借りて、確か一ヶ月ほど経った頃の事だ。


 横浜、みなとみらい。ランドマークタワーにコスモワールドの観覧車。コンチネンタルホテルの扇形のビルに、クイーンズスクエアの三連ビル。山梨の片田舎で育った陽菜にとって、それは憧れの景色だった。だから、程近い本牧に物件を見つけた時、彼女は即座に「ここに住もう!」と主張した。


 実際、『十階建ての八階』『ベランダ南向き』『角部屋』『オートロック』『二人暮らし可』『築年数は浅いし、家賃もお手頃』と、個通の便にさえ目を瞑れば悪くない物件だと思う。結局、『彼女』の反対を押し切り、陽菜はこの部屋を契約した。


 買い物袋の一つを床に下ろし、リビングの扉のノブを握る。と、そこで異変に気付く。今は一人で暮らしているはずなのに、部屋の中から気配がする。


 そういえばと思い出す。部屋を借りる時、契約書の備考欄に『精神的瑕疵かしあり』の一文があった。気味が悪いので何があったかは『彼女』に聞いてもらったし、借りてからこれまでの二年間、特におかしなことは起こっていない。だから、これまで思い出しもしなかった。


 耳を澄ますと「一枚、二枚、三枚、……おかしいです、一枚足りない」と声が聞こえてくる。


「き、きっと、出かける時にテレビを消し忘れただけだよ!」


 意を決して扉を開くと、リビングの真ん中、真っ白な髪に灰色の瞳の少女が佇んでいた。


「ひぃぃいい、座敷童ぃ!」


 本牧のアパートの一室に、陽菜の絶叫が響いた。



* * * * *



「そ、また急に海外行くことになっちゃってね。一ヶ月で戻るから、それまでスバちゃんを預かってほしいの。ああ、大丈夫よ。自分の娘ながら、スバちゃん、手の掛からない子だから。じゃ、よろしくねー」


 一方的に通話を切られ、内海陽菜は溜め息を吐く。そんな彼女に向かって、『スバちゃん』は「お洗濯したタオル、行方不明の一枚見つけました! 取り込み忘れるなんて、昂も意外とうっかりさんですね」と笑いかける。


 姉の娘、舞原まいはらすばる。前にモスクワで会った時には五歳だった。以降、五年もあってないから、今は十歳になるだろうか。


「ま、何はともあれ久しぶりだね、スバちゃん」


「ダヴーノ・ニ・ヴィージェリシ! 昂は約束通り、この五年で申し分ない実力を身に付けました。こうして陽菜ちゃんにお披露目する機会を得られて嬉しいです」


「そっか。何の実力かはわからないけど、それは良かった」


 満面の笑みを浮かべる昂の頭を撫でてやる陽菜。


「それで、陽菜ちゃんは洋式派ですか? 和式派ですか?」


「え、いきなりトイレの話? あたしは洋式派かな。ウォシュレットがないと生きていけないし」


「もー、何言ってるんですか? 昂と陽菜ちゃんの結婚式の話です。……ちなみに、昂はウェディングドレス姿を父様と母様に見せたいから洋式希望です。あ、もちろん、陽菜ちゃんがドレスを所望なら、昂がスーツでも構いませんよ」


「え?」


「え?」


 同時にきょとんとした表情をする二人。


 記憶の糸を手繰り寄せ、五年前、昂と別れた日の事を思い出す陽菜。海外勤務の姉夫婦を訪ねた時、彼女は随分と自分に懐いてくれた。そして帰国の日、足にしがみついて「お別れするの嫌です! 昂、陽菜ちゃんのお嫁さんになります!」と泣きじゃくる彼女を、「わかったわかった。もっと大きくなって、自分の事がしっかり出来るようになったら結婚してあげる」と宥めたのだった。


「まさか陽菜ちゃん、昂との約束を忘れてしまったのですか!」


 その通り、忘れていた。両の頬を膨らませて涙目で見上げてくる昂に、陽菜はたじろぐ。


「で、でも、あたし、二十四歳だよ? 十四歳差はちょっと空き過ぎじゃないかな。それに、スバちゃんが結婚できる年齢になるのを待ってたら、あたし、三十歳を越えちゃうよ」


「三十歳なんて女の盛りです! ……とにかく、陽菜ちゃんの伴侶に相応しいと胸を張れるまで高めた昂のお嫁さん力、とくとご覧あれ!」


 そう促され、リビングを見渡す。確かに一人暮らしで少し汚れてた部屋はピカピカに掃除され、洗濯物は綺麗に畳まれ、テーブルの上では並べられた料理が美味しそうに湯気を立てている。


「お台所をお借りしました。オリヴィエにボルシチにビーフストロガノフ。昂の四百ある修得レシピのうち、最も得意な三品です」


「これ、スパちゃんの手作りなの!」


「さあさあ、お腹がお空きでしょう。どうぞ召し上がってください」


 勧められるまま、陽菜はスプーンを手に取る。ボルシチを掬って口に運ぶと、……う、美味い! 陽菜もそれなりに料理は出来たが、今食べたこれは完全にプロのレベルだった。


「えっへん。どうです? 心を掴むにはまず胃袋から。この一ヶ月で、陽菜ちゃんを昂がいないと生きていけない身体にしてあげます。昂こそが陽菜ちゃんのお嫁さんに相応しいのだと、骨身にわからせてあげますからね」

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