第2話
目を開けると深い緑色が飛び込んできた。
どうやら、森の中にいるようだ。
周囲には穏やかな風が吹いていて、空気が綺麗で美味しい。
木漏れ日がチカチカと瞬いている。
正面にはおしゃれな洋館が一軒建っていて、
ふんわりと、美味しそうなコーヒーの香りがした。
「はい。ここ。」
ベルベットは俺の隣に立ち、目の前の洋館をステッキで示した。
白を基調とした木造の建物が、周りをぐるっと樹々に囲まれながら、
小さく開けた陽だまりにポツンと建っている。
「ここって?」
「レインの店だよ。」
のんびりと返ってきた淡白な応えに、俺はポカンとしてしまった。
単色の世界から色彩の世界に切り替わった戸惑いが、まだ拭えない。
記憶がどうかは知らないけど、たぶん、瞬間移動したのだって初めてのはずだ。
「その人がまじょ、ですか?」
精一杯、平静を装って問いかけてみる。
急に変わった景色と違って、ベルベットだけは変わらずにスンとしている。
「これ以上は言えない。」
前を向いたまま、ベルベットは答えた。
「どうして?」
「過干渉になるから。」
どういうことだろう。
と、ちょっとだけ首を捻る。
思えば最初から、
ベルベットは俺の質問に答えてはくれるけど、
疑問の答え合わせするでもなく、どうしろとも言っていない。
どう判断するかはずっと、俺の意志に委ねられている。
「まぁ、いろいろ制約があるんだよ。」
そう言って、彼はゆっくりと周囲を見渡した。
そしてふいに、あるところで視線を留める。
何かあるのかと視線の先を見てみたけれど、
そこには空があるだけで、他には何も見当たらない。
見上げている視線の先を、鳥が悠々と飛んでいっただけだった。
改めて、さっきまで身近に感じていた蒼色が、
今はずっと高いところにある。
なんとも言えない不思議な気分だった。
ベルベットはちょっとの間、無表情に虚空を見つめていたかと思うと、
今度は急に、くるりと振り返った。
「じゃ、俺の役目はここまでだ。」
「へ…」
思わず、へんな声が出てしまった。
ベルベットはポケットから懐中時計を取り出すと、
ちらりと確認して、またポケットにしまい込んだ。
「俺は行くね。」
相変わらずおっとりと、なんてことないようにしれっと告げて、
ベルベットはステッキを持ち直す。
本当に行ってしまう気だ。
困惑している俺に気付いて、彼は目線を合わせるように腰を屈めると、
ポンと俺の頭に手を乗せた。
「ごめんね。どうしても、がんばれとしか言えないときがある。
今がそのときだ。」
どこまでも無感情に、どこまでも穏やかな声でそう言うと、
不器用な手つきで頭を撫でる。
「ここでは想像こそが力だよ。君の意志が、君の力になる。」
ベルベットはすっと体を起こして、軽く一回ステッキを鳴らした。
「じゃ、がんばってね。」
さらりと言い残して、広げた黒い羽根と共に、
一瞬のうちにふわりと消え去る。
ひゅう、っと一陣の風が通り抜けた。
すぐそばで、樹々の枝葉が風に吹かれてそよそよと音を奏でている。
しばらくそのまま、立ち尽くしてしまった。
不思議なことの連続で、
あっという間に一人になって、
全部夢なんじゃないかという気さえしてくる。
頭が追いつかないまま、俺は何気なく、
さっきベルベットが見つめていた空を眺めた。
蒼空の下は見渡す限り深い森が広がっている。
緑の樹々が果てしなく続くばかりで、
洋館以外に建造物がひとつもない。
遠くの方に、他の樹々から頭一つ分突き抜けた、
背の高い樹があるのが見えた。
よく目を凝らして見ると、その樹は背が高いというより、
かなり大きいらしい。
きらきらと光っていて、遠くから見ても、
強い生命力に満ち溢れているのがわかる。
「…なんだろう。」
不思議に光るその樹が、ものすごく気になった。
一度存在に気づいてしまうと、
その樹はどこからでも見つけることができて、
意識するほどに、放たれている光も強く感じとれる。
どうしようもなく、近くに行ってみたい衝動に駆られた。
どのくらい大きいのだろうか。
どのくらい距離があるのだろうか。
そんなことを考えていた、
その時だった。
「ナゥ」
後ろで鳴き声がして、思わずハッと振り返った。
足元に、小さな気配を感じる。
「…わ!」
いつの間にか、白猫がちょこんと座って俺を見上げていた。
周りに飼い主らしい人物がいるわけでもなく、
首輪も何も付いていない。
だけど、野良猫というには毛並みが綺麗に整えられていて、
雪のように真っ白だった。
丁寧に前足を揃えて座っている様子が上品で、
なんとなく女性らしく見える。
まじまじと猫を見て、ふと視線を上げて
俺は目を疑った。
「あれ…?」
近くにあったはずの洋館が、遠く離れたところにある。
さっきまで綺麗に澄みきっていた空気が冷んやりとして、
何か別の空気へと変わろうとしている。
自分でも気づかない内に、深い森の向こう側へと
歩き出していたことに気付いて、俺は愕然とした。
改めて森の奥へ目を向けてみると、
遠くへ向かう程にだんだんと濃い霧が立ち込めているのがわかる。
さっきまでは気付かなかった。
迷い込んでしまったら、出て来られなくなるような深い空気に、
足がすくんで、体が震えるのを感じた。
「ナゥ」
もう一度、猫が鳴いた。
瞳が、何色とも言えない不思議な色をしていて、
水のようにゆらめいている。
その瞳が、
ーそっちへ行ってはいけない。ー
と、言っているような気がした。
「…そっか。ありがとな。」
そっと頭を撫でると、猫は気持ち良さそうに目を細めた。
そして音もなく立ち上がると、洋館の方へと歩き出し、
ちらりと振り返って再び「ナゥ」と小さく鳴き声を上げた。
少しずつ洋館へ近づきながら、ちらちらと俺を振り返ってくる。
「…ついてこい、てことか。」
俺は気を取り直して、猫の後に続いて洋館へと歩き出した。
建物の近くまで戻ってくると、最初に来た時と同じ、
清らかな空気が肺に入り込んできて、
ホッと気持ちが落ち着いていくのを感じた。
先にたどり着いた猫が、建物のすぐそばにきちんと座って、俺を待っていた。
コーヒーの他に、甘い焼き菓子のような香ばしい匂いが鼻先をくすぐってくる。
そういえば、ベルベットはここを店だと言っていたはずだ。
猫が、入り口の扉を前足でカリカリとひっかいた。
俺はゆっくりと鼻から息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
心地良い空気が体いっぱいに満ちてくる。
真鍮のドアノブに手をかけ、木製の扉をそっと開くと、
猫はするりと吸い込まれるように、店の中へと入っていった。
さらに扉を開くと、カランカラン、とカウベルの音が鳴り響いた。
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