熾天使と大天使 (仮題)

汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)

第1話 セラフィムは天使階級の最上位、なのだそうです

「ミケーレ!」


「……セラフィーナ?」


 ここにいるはずのない少女の声に驚いて、僕は足を止める。


 赤みのある黄金の髪を揺らして駆けてくる彼女の瞳は優しい青緑で、ダイヤモンド並みに高値となるほど稀少だというパライバトルマリンを想起させる。強い輝きを放つ、その瞳は、いつだって自信に満ちていて、揺るぎない。

 赤茶色の革のケースを大事そうに抱えていた昔も、今も、その芸術的な美しさを全身から放射して、居合わせた無関係な人間の目をも細めさせる。


「良かった! ここで待っていれば会えるって言われてたけど、人が多いんだもの。見つけられないかと思った」


 軽い抱擁ののち、セラフィーナが左頬を寄せてきて敬愛を示す儀礼的接吻バチーノをしてきた。柔らかな頬が触れた瞬間、周囲から一斉に視線を浴びていると自覚したが、彼女にとって当然の祝福に同じように応え、気にしないようにと意識を集中させる。


「いつ、こっちに?」

「着いたのは、正午過ぎ」

「いつまで?」

「んー、二週間ほどかしら」

「じゃあ、ご両親よりも早く来て、遅く帰るんだね」

「そうね。ニコラもこっちに来て公演することになっているから、終わったら一緒に帰るの」


 なるほど。

 数日前にあった家族の会話から想像できたことかもしれない。


「ねえ、ミケーレ。アリアーネは?」


 きょろきょろと周囲を見回しつつ、セラフィーネが問うてきた。


「そろそろ来るよ。ああ──」


「セラフィーナ⁉︎ やだ、本物⁉︎」


 明朗快活で無邪気な声の叫びは、遠くまでよく通る。より一層に周囲の耳目を集めてしまったことを悟って、僕は小さく溜め息を吐いた。


「アリアーネ! 久しぶりっ」


 軽い足取りで駆け寄って思いきり強く抱きついてから、僕に対しての儀礼的なものとは比べものにならないほど情熱的な接吻を薔薇色の頬に響かせて、セラフィーナが笑う。華やかな美貌の放つ輝きが強さを増した。僕にも些か眩しすぎる笑みだった。


「え……セラフィーナ?」


 喜び合う少女たちの笑い声の合間に、幼馴染みが呟きを発した。


「あら、カナン。いたの」

 途端に冷たい声になる。

 わかりやすいなぁと思って視線を向けると、彼も同じような表情をしていた。多分、これは理解している。一応、励ましの気持ちを込めて、その肩をポンと軽く叩いた。気にしたら気にしただけ、ヘコむ。


「セラフィーナ、いつまでこっちにいられるの?」


 全然なにひとつ理解も察知もしていない姉は、朗らかに問うた。この大らかさは、今は美質だ。


「一か月くらいいるつもりよ!」


 待て。二週間ほどと言っていなかったか、先刻さっきは。


 相変わらずの調子に、僕は笑いをこらえる。

 澄ました表情のセラフィーナは、その発言を覚えてもいないかもしれない。彼女にとって、大したことではないのだから。


「どこにタイザイするの? うちにくる?」


 能天気なくらい屈託のない発言。

 隣人である幼馴染みは、それを知って、ぎょっとしたが、僕には想定内のことである。寧ろ、うちの両親とセラフィーナの両親は昔から懇意にしているから、そもそも最初からそのように決まっていたのかもしれない。子どもたちに事前に告げてくれないのは、どうかと思うが。きっと父は驚かせたいと思ってのことだろうし、母が父に異を唱えるわけがない。


 セラフィーナが、にやりと笑んだ。

 熾天使セラフィムの笑みが邪悪って、どうなんだろう。

 彼女の名付けに母が関わっていたらしいことを思い出して、僕は天を仰ぎ見た。


 初夏の青空は抜けるように澄んでいて、どこまでも飛翔していけそうに綺麗だ。

 この時期に異国で遊び呆けるなんて余裕だなぁと考える。

 そこで唐突に思い出した。


「うちと親しい音楽家って、ソリストが多いよね」


 そう言ったのは、姉だ。


「そうね。セラフィーナも楽団に入団するより独奏活動がしたいそうよ。でも、ケルビーノは指揮者になるって言っているのですって」


 母が答えていた。


「そういえば、セラフィーナ。ケルビーノは一緒に来ていないの?」

兄さんケルビーノ? あー、ピネロロの夏季講義にマエストロ・ロッシが招聘されたとかで……」

 そこまで聞いて理解した。

「それはテコでも動かないよね」

「うん。無理ね。国立音楽院の予備科に入ってから欧州内はあちこちに行ってるけど、海を渡る距離の外国は避けてるみたい。まあ、贔屓の指揮者が公演する興味深いプログラムであれば、行くかもしれないけど」


 トリーノ国立音楽院の学生は、基本的にピネロロ音楽アカデミーの特定の講義が無料になる。逃す手はないだろう。


 ケルビーノは父親に似て穏やかな気質きしつをしているが、思考や発言は母親似だ。そして、僕と色々と気が合う。僕にとっても兄のような存在だ。


「ミケーレはケルビーノと仲がいいものね。あ、そうそう。そのケルビーノから預かってるものがあるの。いまは持ってないけど」

「じゃあ、帰ろうか」

「即断ね。まあ、いいけど。アリアーネ、行きましょ!」

「あ、やっぱ、うちなの?」

「うん。お部屋を用意して貰っちゃった。シニョール・裕福な守護者アルドティート真珠夫人マダーマ・ギータが、気兼ねなくどうぞって言ってくれて」

 その綽名には最上級の敬愛が込められている。

 両親に彼らを褒め称えられる呼称をつけられて、少しむず痒い気持ちがするものの、そこにセラフィーナの純真な想いしか感じられないので、拒否したいとは思わない。


 ──ちょっと恥ずかしいけど。僕の呼び名についてもだけど。


 大天使ミカエルをイタリア語読みした名を使うなんて。


 賑やかに会話する少女たちの後ろを幼馴染みと並んで歩きながら、僕は、ぼんやりとセラフィーナと初めて会ったときのことを思い出していた。

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