016 信頼

「…………ぬぅ、ぉぉ、ぉぉぉぉぉ……ッッ!!」



 剛拳が振り抜かれ、次の瞬間には踵が眉間を狙っていた。 

 まるで大車輪のようにまわり、人間離れした軽業から四肢の打撃を打ち込んでくる師匠ディゼル



「ぉぉ、おおおお……ッッ!?」



 息を吸い込む暇もない拳撃と蹴撃の乱舞。

 俺は必死に、無我夢中で躱し、捌いて逃げ道を探す。

 攻撃を打ち込む隙なんてない。

 ただひたすらに、嵐の只中を泳ぎ——針の穴程度でもいい、隙を作り出すことに注力を……




「――ちょっとうるさいんだけどぉぉぉぉッッ!!?」




 刹那、蹴破られたドアの向こうから宿屋のばっちゃんがフライパン片手に怒鳴り込んできた。

 そちらに気を取られた俺は、死を覚悟した。

 その一瞬は、あまりにも致命的だったから。

 振り返るよりも早く、俺の顎にハイキックが炸裂し――玄関横の壁に激突した。



「アンタ……いつもいつも、何やってんだい……?」


「がは、がほ、ゲホ…………ッ、あ~~~……すみません、また騒がしくしちゃって」



 怪訝な顔で俺を見やったあと、いつものようにばっちゃんは部屋の中を見渡す。

 当然、部屋の中には誰もいない。

 


「やっぱり……誰もいないねぇ……それなのにアンタ、なんでそんなボロボロで、しかも吹っ飛んでるんだい」


「イメージトレーニングって、昨日も言ったじゃないですか……」


「仮想の相手に怪我負わされるって、アンタやっぱりクスリでもやってるんじゃないのかい?」


「ははは、俺も最初はそう思ってました」


「…………おかしな子だね。ともかく、もう深夜なんだからね。毎晩こう騒がられると、追い出すしかないよ」


「すみません、気をつけますんで」


「わかったらとっとと寝な!」



 バタンとドアを勢いよく閉めて帰っていくばっちゃん。

 残された俺もよろよろと立ち上がり、シャワーを浴びて汗を流す。

 


「もうこんな時間か……ざっと一時間くらいやってたな」



 あったまった体をストレッチさせ、時計に目を移す。

 ばっちゃんが言った通り、もう日付が変わっていた。

 カティアと焼肉を食って別れたのが二十一時前後。

 まだ三時間ほどしか経っていないのに……無性に会いたくなってきた。



「……だいぶ、俺も入れ込んでるな」



 自覚して、苦笑する。



「あいつを助ける方法……か」



 噂は、消そうと思って消せるものではない。

 実態がないから、それこそ噂をする人間全てを根絶やしにしないと消すことは不可能だ。

 あるいは、ネガティブな噂を塗り替えるほどに、ポジティブな噂を流すか。

 


「つっても、いい噂ってのは悪い噂に比べたら広まらねえしな」



 試しに一〇人ほど、筋トレ仲間に〝アルマ〟についての良い噂を流してみた。

 結果、一週間以上経った今でさえ、いい噂なんて聞かない。



 人選ミスやもっと母数を増やすなどすれば結果は変わるのかもしれないが、そこまでするぐらいなら筋トレをしていたい。



「カティアのためならなんだってやってもいいが……そう簡単なことじゃないし」



 なんかないかなー、手っ取り早く噂を塗り替える方法。

 


「……寝るか」



 と、曇ってきた視界を擦りながらベッドに倒れたその時。

 ふと、ドアの向こう側から気配を感じて、そちらに視線を向けた。

 数秒、間を置いてちいさなノック音が響く。



「……」



 こんな時間に、一体だれだ?

 まさか幽霊的なアレ……?

 ごくりと生唾を飲み込んで、俺は恐るおそるドアに近づいた。



「だ……誰かいます?」



 ドアに向かって話しかける。

 反応はなかった。

 ……気のせいか?

 いや、それともイタズラか。

 結構うるさくしてたしな。意趣返しってのもある。

 


「……寝るか」



 気にしないで寝ることにして、踵を返した瞬間。

 再度、ノック音。

 気配が、わずかに揺らいだ気がした。



「……」



 息を大きく吸い込んで、俺は意を決してドアを開けた。




「……ごめんなさい。夜遅くに」


「カティ……おま、どうしたそれ……ッ!?」




 ドアの奥に立っていたのは、ずぶ濡れになったカティアだった。

 頭からバケツを被ったかのようにびしょ濡れで、服が肌に張りついてシルエットがくっきり見えていた。


 

 加えて、服の至るところに泥や切られた痕があって――




「——誰にやられた?」


「……アルマ、話を聞いてほしい」


「いいから、誰にやられたんだよ」




 自分でも、驚くほどに低い声が出た。

 掴んだカティアの肩はとても冷たくて、裏腹に俺の瞼の奥は熱く燃えていた。

 


「アルマ……寒いわ。このままだと、風邪をひいちゃう」


「……ああ、悪りぃ。中入ってくれ」


「ありがとう」



 困ったように笑うカティアを中に入れて、タオルを差し出す。

 タオルで水滴を拭っている間、あったかい飲み物と洗濯したばかりの着替えシャツを用意する。



「――ごめんなさい。寝てたでしょう?」


「いや、たまたま起きてた」


「そう。よかった」



 ベッドの上で、俺のブカブカなシャツに袖を通し、その上から毛布にくるまってマグカップを両手で包むカティア。

 一つしかない椅子に腰掛けた俺は、予想の範疇でしかないそれを、言った。



「……団長にやられたのか?」


「……ええ。といっても、ただの小競り合いに留まったわ。他のメンバーも仲裁に入ったし、互いに本気ではなかった。本気で殺し合ってたら、今頃どっちかが死んでたと思う」


「なんで……そんなことになったんだよ」


「わたしが、クランを辞めたいって言ったから」



 マグカップに口をつけて、カティアが目を細めた。



「最初は口論。それから殴り合いに発展して……逃げるようにクランの拠点を飛び出したわ。それから宿に帰って、すぐにクランの……わたしの部下が来た。――そこからよ。殺し合いじみた追いかけっこが始まったのは」


「……殺し合い、だと?」


「ええ。わたしが班長を務める二班から襲撃を受けたの。流石に手練ればかりで、逃げを優先したわ」



 なんてことはないと、いつもの様子で淡々と語るカティアを見て、俺は知らず拳を握りしめていた。



「こんなに濡れてしまったのも、その時。隠れるために池の中に飛び込んだから」


「そいつらから、うまく逃げられたのか?」


「ええ。しっかり撒いてきたわ。だからここには来ないはずだけど……」


「来てくれた方がいい。そしたら俺がそいつらを全員ぶん殴ってやる」


「……だめよ。これはわたしの問題だから。わたしが方を付ける」


「ふざけんな、ダチが殺されそうになってんのに黙ってみてられるかよ」


「嬉しいけど、いいの。一晩だけ泊めてくれれば、あとはわたしが――」


「――悪いけど、俺も手を出させてもらうぞ」


「……アルマ」



 椅子から立ち上がって、カティアの横に腰を下ろす。

 ベッドの上で、男の俺に座られて、警戒も何もしないカティアの瞳を覗き込む。



「一人でやれることにも限度がある。いくらおまえが強いからって、見捨てたりしない」


「見捨てるって……大袈裟よ」


「うるさい。そもそも、方を付けるっておまえ、何する気だよ」


「……団長と話し合うわ」


「話し合った結果、襲撃されてんだろ。そんな野蛮なクランだとは思わなかったぞ」


「わたしもそう思うわ。昔は……もっといいクランだったの」



 俺から視線を外して、マグカップの中身に瞳を落とす。

 


「今の団長もね……必死なのよ。くなったご両親からクランを継いで、大きくしようと必死なの。なまじ実力があったから、有頂天になってしまっただけで……」


「……だからって、おまえがやられて黙ってられるほど俺は聖人じゃないぞ」



 過去に悲しいことがあったから、辛いことがあったから。

 そんな言い訳で俺の友人を傷つけてもいい理由にはならない。



「……きょうはもう寝ろよ。俺が見張っててやるから」


「あなたも寝て。わたしのためにそこまでする必要ないわ」


「もし特定されたらどうするんだよ」


「その時は、わたしが守ってあげる」


「本末転倒だろ」


「あぅ」



 カティアのおでこを小突いて、俺は椅子に戻った。



「さっさと寝てくれ。寝不足は肌にも悪いぞ」


「アルマが寝るまでわたしも起きてるわ」


「だから……わかった。俺は椅子で寝るから」


「椅子で寝れるの?」


「……じゃあどこで寝ればいい? まさか同じベッドでは寝られんだろ」


「寝ればいいじゃない」


「……は?」


「ベッドで、寝ればいいじゃない」



 時々、こいつのことが恐ろしくなる。

 やっぱり俺のこと、男だと認識してないんじゃないか?



「わたしのせいで睡眠の質を落とすのは嫌よ」


「……俺が男だってこと、知ってる?」


「? 当たり前じゃない」


「……一緒に寝るって、どういうことかわかる?」


「信頼してるから」


「……」



 卑怯だぞ、それ。



「早く寝ましょう。寝相悪かったらごめんなさい」


「……はぁ」



 観念して、俺もベッドの中に入った。

 一つの掛け布団の中に二人。

 カティアとは反対側を向いて、目をつぶる。

 背中にカティアの体温を感じて、心臓が高鳴った。

 


 今という瞬間ほど、シングルベッドを憎んだ日はなかった。

 いや……よかったのかもしれない。

 相反した感情を抱えながら、すぐに聞こえてきた寝息に安堵したり少し残念に思ったり。



「…………」



 起こさないように反対側を向いて、仰向けに眠るカティアの顔を眺めた。

 綺麗な寝顔だった。

 規則正しい呼吸を繰り返して、たまにまつ毛が跳ねて。

 


「信頼してる……ね」



 もっと警戒しろよ。なに気持ちよさそうに寝てるんだよ。

 俺が今、どんな気持ちでおまえの寝顔眺めてるのか、理解しろよこの男たらし。



「……寝るか」



 本日三度目の決意をもって、俺は瞼を閉じた。

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